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悔い戻る者たちの道しるべ【1】-悔悟とその意味について-

2014年12月26日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
-悔悟とその意味について-

賞賛はすべての主、アッラーにありますように。そして、最上の祈願と最上の平安が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべてにありますように。主よ、あなたに私たちは縋り、あなたに私たちは悔悟し、あなたの許に帰りどころはあります。
アッラーよ、私たちを導かれつつ導く者とし、迷った、もしくは迷わせる者としないでください。

ここでは、悔悟とその意味するところ、その条件、それがアッラーに受け入れられるための条件について扱います。

至高なる祝福多きアッラーは仰せです:
【その顧み給うのはアッラー(の恩顧)に依拠し、無知ゆえに悪事をなし、その後、間近で悔い戻る者に対してのみ。そしてそれらの者、アッラーは彼らに顧み給う。そしてアッラーはよく知り給う英名なる御方であらせられた。】(女性章17節)

【そして(アッラーの)顧み戻りはない、いくつもの悪事をなし、ついに死が彼に臨み、その時になって「私は今こそ悔い戻った。」と言う者たちや、不信仰なまま死ぬ者たちには。それらの者、われらは彼らに痛苦の懲罰を用意した。】(女性章18節)

この2節を参照しながら、悔悟とその条件についてみてゆきます。

まずアッラーは、クルアーンの中で仰せです:
【そしてアッラーは、おまえたちの許に顧み戻ることを望み給う。】(婦人章27節)

つまりアッラーは、おまえたちを待ち給うている、おまえたちの悔悟を喜び給う、ということです。迷った後に道を見つけられた者、不妊後に子を授かった者、喉の渇きの後に水を与えられた者の喜びよりも、アッラーの信仰するしもべの悔悟のための喜びは大きいのです。

伝えられたお話:田舎者がらくだに乗って、砂漠を歩いていました。彼は休憩のため腰を下ろしましたが、起きてみると、らくだが見当たりません。彼は死を覚悟しました。彼は泣きに泣き、居眠りが彼を襲いました。それから起きてみると、らくだがいました。彼は驚きのあまり思考バランスを崩してしまい、アッラーよ、わたしはあなたの主であなたはわたしのしもべです、と間違えて言ってしまいました。アナス・イブン・マーリクによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われました: ≪まことにアッラーは、おまえたちのうち、砂漠をラクダに乗って旅して、その背に食物と飲料を乗せたラクダが逃げてしまい、失望のあまり木陰に横になって、失望しているところ、ラクダがそばに戻ってきたのでその手綱を掴んで、喜びのあまり、アッラーよ、あなたはわたしのしもべでわたしはあなたの主です、と間違えて言ってしまった者よりも、しもべの悔悟を激しく喜び給う。≫(ムスリム)

なぜならアッラーは私たちを慈しむために創り給うたからです。
次に仰せのとおりです:
【ただし、おまえの主が慈悲をかけ給うた御方は別である。そのために彼は彼らを創り給うた。】(フード章119節)

父性・母性というものは、アッラーの性質の定義のようです。母親は、子がどんなに彼女の権利を満たさず、彼女から遠ざかり、悪くしたとしても、子が悔悟し申し訳ないと言えば、母親はそれを受け入れるものです。アッラーがこのように仰せになったとき、【この国(マッカの地)にかけて誓おうではないか、-おまえはこの国で許されている-また、父とそれが生んだもの(にかけて誓おうではないか)】(町章1~3節)父性という秩序が、しもべと彼らの主の関係の本性を説明してくれているようでもあります。アッラーはわたしたちを赦すことを望み給うているのです。それでは、逆を想像してみましょう。悔悟の門が閉ざされているとしたら、何が起こるでしょうか。どんなしもべでも、罪を犯しても、何も赦されず、悔悟の余地がないと分かったら、次から次へと罪を犯してしまうでしょう。しかし、アッラーが開き給うた悔悟という門が実在していることで皆、アッラーへと向かいます。 そのため、悔悟はアッラーの慈悲であり、その門は罪を犯したしもべに開かれています。彼らはきっと悔悟し、主に返るでしょう。

もう一つの前置きとして、暗闇の中にある現在のイスラーム世界に、覚醒の夜明けが照りはじめ、アッラーの御許しのもと、無知と罪の闇が散らされようとしていることを述べなければならないでしょう。おそらく、最も輝いているこの覚醒の夜明けの例の一つとして相応しいのは、遊びと罪深い場所を離れ、アッラーとその教えを重視し、マスジドに足を向けはじめた、若く清純な世代でしょう。この世代にウンマは希望と吉報で微笑んでいます。ですから彼らは、アッラーのお許しのもと、ウンマの外見、未来になることでしょう。実際、50年前まで、マスジドには高齢者以外が見かけられることはありませんでした。それに変わって、胸を喜びで満たすのは、現在の若者たちが歓楽の場を捨てたことです。これは、以前は見られなかった集団悔悟の一つと言えます。もう一つは、この祝福された高揚がシャリーア学と純粋な思考の源に向かいあったときに、いろいろな問題が投げかけられていることです。ですから、悔悟の意味を研究する前に注意が必要になってきます。

この、アッラーの御許しのもとに、祝福された講義シリーズは、失敗を悔やみ、アッラーに悔悟した社会の一部分に向けられています。彼らにはきっと多くの質問があるでしょう。逃亡者、もしくはまだ逃げている途中の者には、この講義に意味はありませんが、アッラーを志す者は講義の中に含まれる内容以上のものを得るでしょう。しかし私は、真実の道をゆくことを望み、アッラーに帰った若者たちに話しかけたいのです。ですから、この講義には、悔悟の意味、受け入れられるための条件、罪との関係など、細かい意味が含まれているのです。

では、すでに出てきたアッラーに帰った若者たちには、いくつかの忍耐と、信仰的、崇拝行為的報酬面における強化が必要であることがわかりました。そして、ここで話を彼らの中で巡っている質問の応答に向けようと思います。最初に。どうやって信者の中に、悔悟の必要性が生まれるのでしょうか。

人間は、理性と欲望で構成されています。かわって天使は、理性だけで構成され、動物は、欲望だけで構成されています。そして人間には、大地の土の一掴みと、アッラーの一吹きが入っていますから、理性が欲望に勝てば、天使よりも上位に立ち、欲望が理性に勝てば、動物以下になります。人間はもともと、女性、子宝、財産などに欲を持っているものです。これら人間に植え付けられた欲は、神のカリキュラムなしだと、とても大きく動いてしまいます。ムウミンとは、だれのことを言うのでしょうか?それは、アッラーの定めた方法で欲を操る人のことです。イスラームに、規則はありますが、禁欲はありません。アッラーが人間に植え付けた欲それぞれに、必ず相応の純正な解決法があるのです。

女性に傾く人には、結婚というドアが開かれ、お金が欲しい人には、仕事というドアが開かれています。精錬された人物になりたいと願う人には、アッラーに近づくための道が開かれています。どんな欲にも、相応のドアが開かれているのです。車を動かす油を見てみましょう。この油は、特定の場所に注がれてこそ、適当な時間、適当な効果を発揮します。しかし、あるべきではないところに注がれると、乗り物と中にあるものを燃やしてしまいます。

欲は、強い動きの源のようです。そしてこれには、動かす道具が必要になりますが、法がそれにあたります。この道具で、欲を高貴で受け入れられる、正しい目的へと操作します。ですから、人間がもしアッラーの定めた方法に則らないと、欲は人間を破壊してしまいます。すると、欲の強みは180度動くことが出来るといえますが、法はこの動きに制限を設けています。罪業とは、自分のものではない物を取ることです。すると、悔悟の源はこうであることが分かります。元来人間には欲望というものがあり、もしそれを間違って操作した場合、正しい流れへと戻さないといけないということです。これにおける例はとてもたくさんあります。

あなたにとって、妻や視線を向けることを許された女性たちを眺めることは、合法ですが、あなたに許されていない女性を見ることは、合法ではありません。もしあなたが許されていない女性と関係してしまったら、それはとても大きな罪になります。なぜなら、アッラーの法を軽率にし、社会に危害を加えたことになるからです。ですから、悔悟というものは、欲望をアッラーの定めた方法の上で操作することと言えます。これらの欲望が、純正な道を流れることです。

ここでみなさんに、イスラームには禁欲というものが全く無いことを強調します。しかし、規則はあります。宗教を意識すること=禁欲がある、と考える人がいますが、そうではないのです。どこかであなたが注意書きを目にしたとしましょう。あなたはそれを見ても嫌悪するどころか、あなたを締め付けるのではなく、あなたの安全のためにそれを作った人に感謝するのではないですか。

アッラーの法を軽視して、とても後悔するのは、自身の間違いの代価を払うときです。逆に、アッラーの法を遵守する人には、現世では善い生活があり、アッラーの許に召されると、天と地ほどの広さを持つ天国があります。

『あなたはしたくても、アッラーは御自分のされたいことをなされる』という言葉にもあるように、人間の意志と、アッラーの意志をめぐった、長く大きな議論があります。あなたがジャブル(起こることすべてをアッラーにさせられていて、しもべにはどうしようもなく、それが運命とする信条)を信じただけで、あなたはイスラームを無効にしてしまっています。報酬、天罰、天国、地獄、使徒たちが遣わされたという事実もないことになってしまいます。そうではなく、あなたには、選ぶ権利があります。

ウマルさま(アッラーの御満悦あれ)のもとに、酒を飲んだ男が連れてこられたときの話です。ウマルさまは、「ハッド刑(ここの場合鞭打ち)を執行しなさい。」と言いました。男が言いました。「アッラーにかけて、カリフさま。アッラーが私にこのこと(飲酒)を運命付けたのです。」ここでウマルさまの言葉に注目してください。「アッラーは、あなたを選ぶ権利から無理強いされることへ引っ張り出していない。この男にハッド刑を二回執行するように。一回は、彼の飲酒のため、もう一回は、彼のアッラーに対するでっちあげのため。」

人間は、アッラーが罪を行わせている、と思い込んだりしますが、それはあり得ないことです。アッラーは、卑劣な行いを命じ給うことはありません。真正のハディース・クドゥスィーでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はアッラーから次のように伝えました: ≪わがしもべたちよ。まことにわれは自身に不正を禁じ、おまえたちの間でもそれを禁じた。ゆえ、不正しあってはならない。しもべよ。われが導く者以外、おまえたちはすべて迷う者である。ゆえ、われに導きを求めよ。そうすればわれはおまえたちを導こう。わがしもべたちよ。われが食べされる者以外、おまえたちはすべて空腹者である。ゆえ、われに食物を求めよ。そうすればわれはおまえたちを食べさせよう。わがしもべたちよ。われが着せる者以外、おまえたちはすべて裸である。ゆえ、われに衣服を求めよ。そうすればわれはおまえたちに衣服を着せよう。わがしもべたちよ。まことにおまえたちは夜に昼に罪を犯す。そしてわれはすべての罪を赦す。ゆえ、おまえたちはわれに罪の赦しを求めよ。そうすればわれはおまえたちを赦そう。わがしもべたちよ。おまえたちは決してわれの害に到達してわれを害することも、われの益に到達してわれを益することはない。わがしもべたちよ。もし、おまえたちの始めの者と最後の者、人類とジンの全員が、おまえたちのうちで最も篤信の心の主とともにいても、それはわれの王権を少しも増加させない。わがしもべたちよ。もし、おまえたちの始めの者と最後の者、人類とジンの全員が、おまえたちのうちで最も悪い心の主とともにいても、それは少しもわれの王権を損じることはない。わがしもべたちよ。もし、おまえたちの始めの者と最後の者、人類とジンの全員が、一つの丘の上でねだりごとをしたら、われは人間ひとりひとりの臨むものを与えるが、それはわれが持つものを減らすことはない。ちょうど針が海に入るようなものである。わがしもべたちよ。おまえたちの行為を、われは数えている。そしてわれはおまえたちにそれを返す。そこでおまえたちのうちで善いものを見出した者は、アッラーを賞賛せよ。そうでないものを見出した者は、自分以外を責めてはならない。≫(ハディース クドゥスィー)

イマーム ハサンについて伝えられたところによると、≪もしアッラーがしもべに服従を強いていたなら、報奨は無かっただろう。罪を強いていたなら、罰は無かっただろう。≫ アッラーは、しもべに選択権を与え、警告のために禁じ、難しくではなく、容易なかたちで責任を負わせたのです。 アッラーがしもべに罪を犯させていると思い込んでいる人が居るということは、それはとても大きな間違った信条に陥ってしまったことになります。ですから、この講義シリーズの始まりとして最初に、罪の真実をはっきりさせる必要があります。
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