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イスラーム勉強会ブログ

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預言者伝73

2014年09月05日 | 預言者伝関連
226.諸戦を振り返る:
  ヒジュラ暦9年ラジャブ月に起きたタブークの戦をもって、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)に関連する戦は終わりを告げました。その総数は27、派遣された分遣隊の数は60ですが、そのすべてに戦いが起きたというわけではありませんでした。

  戦争の歴史において流れた血がもっとも少なかった戦いは、タブークの戦までのすべて戦いや、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が派遣した部隊でのものであったことが知られていますが、実際に両側の死者の合計は1018名でした。これらの戦は、アッラーのみがその数を知り給う数の出血を止め(ジャーヒリーヤ時代には頻繁に部族間などで争いが起きて人死ぬことが多かったが、イスラームが伝播されるとその争いは終わったと言う意味)、また数え切れないほどの命と尊厳を守り、アラブ半島の隅々に安全をもたらしました。どれくらい安全であったかというと、ラクダに乗った女性一人がアル=ヒーラ(イラク南部にある古都)からカアバまで旅行できたほどでした。彼女はアッラー以外に何かを恐れる必要がなかったのです。そうなる前のアラブ半島は襲撃や戦いに張り巡らされていて、政府の大きなキャラバンであってもプロの護衛なしでは動くことはありませんでした。

  イスラームのこれらの戦は、クルアーン中にある二つの叡智を基にしています:「そして迫害(フィトゥナ)は殺害よりもより重大である」(雌牛章191節)、「そしておまえたちにとって同害報復には生命がある」(雌牛章179節)またイスラームのこれらの戦は、人類と人間社会に状況を変え、危険を回避するための時間と労力を大きく与えました。またマナーと慈悲ある教えを備えていたため、戦が調教作戦のようになることもありました。その一つが、罰作戦です。

  代わって作戦の成功とその速さに関して言うと、領地の広さは10年の間に274平方マイルも広がったことが挙げられます。ムスリムたちは毎月、一人の人間の損害しか負いませんでした。また敵の負った最大の損害は150人でした。10年が経つころには100万平方マイル以上の土地がイスラームの支配下に入りました。

  かつてアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が軍隊を見送る際、次のようにおっしゃっていました:
  《アッラーを畏れ身を守ること、おまえたちと共にいるムスリムに良く接すること、アッラーの道において、アッラーの御名のもと、アッラーを信仰しない者を襲撃することをおまえたちに命ずる。また欺いてはいけないし、度を越してもいけないし、幼い子供や女性、高齢者、庵の中にいる隠者を殺してはいけない。またナツメヤシの木を抜いてはならないし、木を切ってもならないし、建物を壊してもならない。》

227.イスラームにおける初めてのハッジ(巡礼):
  ヒジュラ暦9年にハッジが義務付けられました。そこでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はアブーバクルを信徒たちを引き連れて巡礼を行うハッジの指揮者として任命しました。多神信仰の人たちはハッジを行わずに自分の家に留まっていました。アブーバクルとのハッジを望んで300人の人たちがマディーナから出発しました。

  そこで悔悟章がアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に啓示されたので、彼はアリーを呼んで、おっしゃいました:悔悟章の頭からの話を伝えるために、出発しなさい。の日(犠牲祭一日目)に人々がミナーに集まった時に呼びかけて、不信仰者が楽園に入ることはないこと、多神教徒は今年以降巡礼しないこと、裸者は聖殿の回りをタワーフしないこと、アッラーの使徒が誓約を交わした者はその期限までだけが有効であることを伝えなさい。そこでアリーはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のアル=アドゥバーゥと名を持つラクダに乗って、アブーバクルに追い付きました。アブーバクルが言いました:あなたは(私を)指揮する者(として送られて来たの)か?それとも命令されてここまで来たのか?アリーは答えました:命令されて来ました。そして一緒に出発しました。アブーバクがは人々とハッジを済ませての日になると、アリーは立って、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が彼に命じたことを人々に呼びかけて伝えました。

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P373~375)
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