イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

悔い改める者の道しるべ③

2008年10月28日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
賞賛がアッラーにありますように。そして、最上の祈願と最上の平安の挨拶が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべての上にありますように。

 『ザンブ(罪)の種類』:最初に、アッラーに同位者があるとすること(シルク)で、それから悔悟するまでこの罪は、許されません。次に、しもべと彼の兄弟であるしもべとの間に起こる罪で、相手が許してくれない限り、加害者は罪から開放されることはありません。

 今回は、前者についてお話しましょう。このザンブとは具体的にどういったものなのでしょうか。

 アッラーは、私たちに礼拝、断食、巡礼、喜捨のような崇拝行為を命じられたと同時に、視線を(禁じられたもの、許されていない異性等)下げたり、(余計なことをしゃべらないように)口をつぐむことも命じられました。
 クルアーンには、2つの繊細な専門用語があります。それは、イスム(罪)とウドゥワーン(敵対行為)です。
 ウドゥワーンは、兄弟の生命、プライドに傷をつけることで、イスムは、兄弟の権利とは直接関係ない罪で、アッラーの権利に関係している、しもべとして不服従であることをいいます。

 では、ザンブとイスムの間に違いはあるのでしょうか。預言者さま(平安と祝福がありますように)が《全てのアーダムの子孫は間違いを犯しますが、その中の善い罪人は、悔悟する者です。》という言葉を残しています。
 よって、ザンブは間違いを犯すこと、イスムは敵対行為といえると思います。

 ウドゥワーン:あなたが、アッラーが定められた一線を超えてしまうことによって、兄弟である人間を傷つけてしまうこと。たとえ被害者がムスリムであろうと無かろうとです。預言者さま(平安と祝福がありますように)はこうおっしゃっています。《誰でも騙す者は我々の仲間ではない》、《自分に望むことを、兄弟に望むようになるまでは、だれでも真の信仰を得たとはいえない》後者のハディースは、「自分に望むことを、人間としての兄弟に望むまでは」こうも解釈できます。

 先に、ウドゥワーンとは、被害者がムスリムであろうと無かろうと、全ての人間に危害を加えることであると説明しました。実は、非ムスリムに危害を加える方が罪はきいのです。なぜかと言うと、ムスリムがムスリムから被害を受けると、「誰々が自分にこうした」と言いますが、非ムスリムが同じような立場に立つと、この被害のきっかけに、イスラーム全体を批判するからです。ですから、あなたは数多くあるイスラームの裂け目の中にいると言えます。ムスリムは、この教えの大使であり、彼の振る舞い、動き、静けさ、許し、売買の仕方などのすべてが顕微鏡にかけられ、大きく映し出されるのですから、全ての人の間で公正を実現しなければなりません。相手が不信者だからといって害を加えるのではなく、公平に接します。それが一番篤信に近いのです。実に至高なるアッラーは、被害者がムスリムでなかったとしても、アッラーの公平さにより彼の祈りを聞き入れます。それはちょうど、アッラーが、切羽詰った者が祈るにふさわしくなくても、彼の祈りを受け入れるようにです。公正の名のもとに被害者に応え、慈悲の名のもとに緊急を要する者に応じるのです。

 イスム:人間が一人で部屋の中でアッラーに背くこと。人間がイスムに陥ってしまったら、アッラーにアッラーの権利に引っかかった罪の許しを請う必要が出てきます。礼拝、巡礼、断食はアッラーの権利です。これらの罪が起こり、アッラーがしもべの心からの悔悟、悔悟への熱心さをお知りなれば、どんなに罪が多かったとしても許してくださいます。
《あなたが天地を覆うほどの罪でわたしの許に来たとしても、私はあなたを許す》(ハディース クドゥスィー)この言葉の意味は次の、クルアーンの中でも一番望みがかけられているアーヤから取られています。【自分の魂に背いて過ちを犯したわがしもべたちに言え、「それでもアッラーの慈悲に対して絶望してはならない」アッラーは、本当に凡ての罪を赦される。かれは寛容にして慈悲深くあられる。】(集団章53節)しかし、(アーヤが次の文句に続くように)アッラーに悔悟して帰らなければなりません。この点がとても大事です。
 実にほとんどのムスリムが、アーヤの前部分の【わたしのしもべたちに伝えなさい、私こそが寛容にして慈悲深いと。】だけを取り、次に続く【そしてわたしの罰は痛々しい。】を軽視しているようです。しかし、アッラーが人間に示すすべての悔悟にまつわる意味、すべての赦しと慈悲の約束は、しもべがアッラーに帰ることと結びついていますから、悔悟なしにこれらの慈悲に与れることは不可能と言えます。アッラーの慈悲降下は、あなたがアッラーに帰ることと結びついているのです。
たとえ話をしてみましょう。ある青年に師匠が居、こう彼に言いました。「息子よ、凡ての罪それぞれに罰があるのだよ。」この青年は、罪の中に足を踏み入れてしまい、ヒジャーブ(アッラーと自分を隔てるもの)に陥りました。特に、普段からアッラーと関係が親密な者にとって最も大きな罰といえば、アッラーがご自身を彼から覆われることでしょう。それは、丁寧に育てられた男の子にとっての大きな罰は、父親に批判されることであるのと丁度同じです。ですから、高位にある者の罰は、繊細なのです。
さてこの青年は、自身とアッラーとの間で罪を犯したため、アッラーから遮られてしまいました。そのために忍耐しきれないほどの苦しみに襲われたので、アッラーに嘆きました。「主よ、私はあなたに背きました。どうかお赦しください。」この青年に対する罰は、物質的なものではありませんでした。神は言います。「しもべよ、わたしはお前が気づかない間に罰する。」これは、ある学者たちが指すように、『しもべよ、わたしに語りかけるときに感じている甘美をお前に許さなかったではないか。』ということです。あなたの前にアッラーとあなたを隔てる幕が現れたということです。
アッラーは英知なるお方ですから、しもべを辱めるような罰を下したりせず、覆いによってしもべを罰します。アル=ハサン アル=バスリーがこう言っています。「礼拝に立っても何も感じない者、クルアーンを読んでも何も感じない者、アッラーを念じても何も感じない者、これらの者は、アッラーに覆いをされた者だ。」
ヒジャーブ(覆い)は、信者にとって一番大きな罰であるどころか、最後の審判の日のうちで一番大きな罰です。【いや、本当にかれらは、その日、主(の御光)から締め出される】(量を減らす者章15節)逆はこうです。【その日、或る者たちの顔は輝き、かれらの主を仰ぎ見る。】(復活章22,23節)信者が現世でアッラーの道を志すとき、アッラーが彼を罰するなかでも一番大きいものは彼をアッラーから覆ってしまうことなのです。人の前で彼は健康で元気ですが、礼拝に立っても、道は閉ざされてしまっているのです。この罪は、高位をゆく信者の罪です。アッラーは、その英知の素晴らしさにより、あなたに教育的懲罰を選んで与えくださいます。ヒジャーブ(覆い)がその中のひとつです。不安、恐怖、心配もそうです。これらすべては、あなたが、あなたとアッラーの間で犯した罪に対する罰です。

信者は何か痛みを感じるたびに、自分が一体何をしたせいで、こうなったかを自問するべきです。そうすれば、正しい道を行くことが出来るでしょう。自分自身を責めるということです。これは、最も進歩し上昇した精神の一つです。その上にあるのは、安心、大悟している魂です。【おお、安心、大悟している魂よ。】(暁章 27節)ですから私は毎フトバ後に、あなたたちが清算される前に自分自身を清算しなさい、あなたたちの行いが量りにかけられる前に自分自身の行いを量っておきなさい、と言っています。誰でも自分自身を現世で厳しく清算した者の来世の清算は楽なものになるでしょう、そして誰でも自分自身を現世で簡単に清算した者の来世の清算は厳いでしょう。

赦される罪は、あなたとアッラーの間でおかされたもので、その中でも代表的なものは、イバーダート(崇拝行為)です。しかし、アッラーの慈悲、赦し、受け入れ、恩恵のようなアッラーの許からのものは、信者が赦しを求めてアッラーに帰らない限り、それらを得ることは出来ません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする