かつてのひまな野球人の記

野球が好きだった医者が書きたいことを書き散らすブログ。今は保健センター教員をしつつ神経内科医と研究者もやっています。

大きな掌

2005年12月18日 21時48分52秒 | 雑談
自分で自分なりに選んで道を進んだつもりだとしよう。しかし、それがすべて予想されたことだったとしたら?
自分で思った通りにやっているつもりでも、知らず知らずのうちに誘導されていたのだとしたら?
もし、透明な壁が自分の動き回る範囲よりも大きい領域を包んでいたら自分では気がつかない。もっと言うと、心に刷り込まれているのかもしれない。もしそうなら、壁など必要ないわけだ。自分で勝手に壁を作るのだから。
実はこれ、猜疑心のなせる業であろう。疑いだすときりがないというのは以前書いたと思う。だからどこかで折り合いをつけなければならないのだが。自分を形作ったのは両親だ。枝葉はともかく、根本のところを作ったのはまちがいなくそうだ。だから、この話は両親を疑う話になってしまう。疑いたくはないが、一度抱いた疑いはなかなか消えないものだ。
ここで一つ。もし疑いが本当だったらどうする?全てを捨てて飛び出すか?そんなことはできない。絶対に。たとえ「見えない檻」の中にいたとしても、そこから抜け出すことはもうできない。だったら疑いはいつまでもそのままに放っておくしかない。
いつまでもお釈迦様の掌の上というわけだ。なかなか素敵なことではないか。