かつてのひまな野球人の記

野球が好きだった医者が書きたいことを書き散らすブログ。今は保健センター教員をしつつ神経内科医と研究者もやっています。

あれから一年

2016年02月16日 22時13分01秒 | 一般
今日2月16日は父の祥月命日である。

1年前のちょうどこの日、父はいつも通りに仕事にでかけていき、そして帰ってくることはなかった。最後の最後まで、多少弱っていたにせよ自分の格好悪い姿は極力見せることなく、駆け足で旅だってしまった。私の記憶の中にはその近辺の弱っていた姿すらほとんどないので、それなりに元気で頼もしい父の姿として残っている。
そう、夕方に急を知らせる連絡があった後のことは今でもありありと思い出せる。時には思い出したくなくともその情景が出てくることもあり、それは今も悩ましいことではある。
大げさな表現をすればそれは一つの時代の曲がり角であり、この日を境に様々なものが変わってしまった。変化は望まざるものであったが確実に起こった。そして、以前が純然たる過去になってしまったことをこれほどまでに厳しく突きつけるものはそうはなかろう。
私は今わの際に立ち会うことはできず(もっとも、本当の今わの際は移動中だっただろう)、納得のいくような別れ方はできなかった。そのことが傷を余計に深くしたのかもしれないが、自分で自分の心の傷を語ることがはたしてどれほどの客観性を持つものかはわからないので、それ以上の言及はなかなか難しい。ただ、1年を過ぎた今なお立ち直りきらずにいて、その意味で父の喪失を受け入れきれていないのはその通りなのではないかと思っている。
なぜ。どうして。そんな思いはもはや永遠に解決することはないだろうが、堂々巡りのようにして頭の中をかけめぐっていて、解決する見込みはないことだとわかっていても考えずにはいられなくなる。
父の思い出は確かに全て過去のものである。ただし、1年前のこの日を境にしてこの過去はある意味で現在とのつながりを切られた「過去」になってしまった。当たり前のことなのだが、これほどまでに悲しく、厳しいものとは想像だにしなかったことだった。

私は何年経とうが、また父と話をしたい。どんなにくだらない話題であろうと真剣な話題であろうと。面と向かって話すのはなんとなくはにかんでしまって話せなかったことは山のようにある。いなくなってしまった今となっては全てが後悔の種でしかない。
まだしばらく時間がかかることだろうが、また会った暁には色々と話したい。

写真の奥にみているもの

2016年02月07日 21時21分11秒 | 一般
昼前に父の実家を出て、旭川空港に向かった。
出る直前にしばらく飾られている父の写真を見ていると、またまたいろいろなものが脳裏をよぎった。話している父の姿だったり、昔一緒に遊んだときの動きだったり、叱られたときのこともあったりと思い出すものにパターンはないのだが、とにかく次から次へと出てきた。
今でも、あの日に急いで向かった救急外来でみた父の顔と、しばらく後の立派に身なりを整え眠っている棺の中の姿は時折フラッシュバックのように頭をよぎることがあるが、写真をみているとそれ以外の生きて動いている姿もありありとよみがえってきた。
それに対して、私が何か言葉を発し得たかというと、何も出て来はしなかった。ただただ胸が熱くなり、涙が出そうになっただけである。
家に帰ってきたとき、どっと疲れが出てきた。はりつめていたものが解けて、体よりも心がしんどく感じた。

父の前で

2016年02月06日 23時53分46秒 | 一般
今日は父の一周忌。町中のホテルが会場で、祭壇もこしらえてもらった。
法事自体は代わり映えのしないものではあるのだが、違いは何よりも父を対象としたものということに尽きる。一周忌と聞いて最初の感慨はもう1年経ってしまったのか、ということなのだが、もちろんそれだけで終わるようなものではない。
祭壇に飾られた父の写真は遺影として用いたもので、それを通して私がみているものは自分の中に納められている父の思い出、あるいは映像のようなものともいえるかもしれないが、単に写真にとどまらない雑多なイメージである。言い換えれば、私の心の中に生きている父の姿をみている、ということだろう。
でも、本心を言えば、こんなことで旭川にこの時期に来たくはなかった。私にとっては旭川というところは生まれたばかりの頃から幾度となく訪れ、それなりに思い入れのある場所である。その私と旭川を結びつけたのは他ならぬ父である。私のこの場所での思い出は全て父が関わっている。そしてそれが至極当たり前であった。ところが、そんな父がいて当たり前の場所に父がいない、存在し得ない、ということ自体が喪失という事実の痛いばかりの投影である。それはかつて行ったことのあるあらゆる場所でそうである。じっと見ているとそこに父の姿を思い起こすことは容易にできてしまう。
法事が終わった後で、お寺の納骨堂に行った。今はゆっくりと眠っている父のもとに行って、短い時間だが会うことができた。まだまだ話したいことがたくさんあった。お礼の言葉も何も伝えていないうちに、あの日、父は突如としていなくなってしまった。もちろん、別れの言葉も何もない。
会って、「なんで死んでしまったのか!」と両手を握って言いたい。そんな日は永遠に来ることはないのだが。
そして、「ありがとう」も「さようなら」も。
あともう一度、話がしたい。

結局、1年経ってもまだまだ私は父の死を受け入れきれていないようである。

肩すかしの寒さ

2016年02月05日 23時44分06秒 | 一般
今日から旭川に出かける。
昨日の一連の流れで今日は研究室に行かなければならない用事がなくなったので、朝に子どもを保育園に送っていった後は出かけるまでの間にひたすら家事労働であった。洗濯物の片付けに、留守中の食事の支度、それに留守中に来ることになっている嫁さんのお母さんの分の布団の用意、というのが代表的なものである。
昼過ぎに羽田空港に車で向かい、実家で母と妹をピックアップ。
空港で簡単に昼を済ませて飛行機で旭川に向かった。
空港のビルを出たときの寒さは意外とたいしたことがなかった。今日は暖かかったらしく(とはいっても常時氷点下ではあるが)、身構えていたこちらとしてはありがたいことであった。
タクシーで父の実家に移動し、一人で家を守っている祖父に久しぶりに会った。子どもも連れてこられたら良かったのだが、嫁さんの都合がどうしてもつかなかったことと、寒さのことを考えて今回は見送りになった。
夕方に買い物に行った。やはり海産物は安くて量が多く、質もいい。何よりもスケールが全体的に大きいのは北海道らしさを感じさせる。
夜は町中の寿司屋で叔父(父の弟)・叔母・従兄弟と会った。少し話したいこともあったのだが、あまり大した話はできなかった。