かつてのひまな野球人の記

野球が好きだった医者が書きたいことを書き散らすブログ。今は保健センター教員をしつつ神経内科医と研究者もやっています。

大混雑

2015年02月28日 23時55分14秒 | 医者仕事
今日は外勤の日である。先週は父の告別式があり、やむなく急遽休診にした影響で30人ほどをさばかなければならなくなり大変なことになった。再診だけでも二十余名いるのだからえらいことで、30分の枠に6人ほど入っていたから単純計算で1人5分で終わらせなければ遅れてしまうことになる。さらに予約外も入ってきたので余計に時間がかかった。
さすがにいつもの時間内に終わることはできなかったが、頑張った甲斐があって1時間ほどの延長で済ますことができた。
家に帰って少し休憩した後で、子供とともに嫁さんの実家へ車で移動した。高速道路はさほど混まずおよそ2時間ほどで到着できた。混雑した外来をこなした後に車の運転はそれなりに疲れたが、私の心中を気遣ってくれたのかとても温かくもてなしてもらい、元気を多少回復できた。明日はまた仕事である。

来週のこと

2015年02月27日 23時20分41秒 | 医者仕事
今日は午後に脳梗塞の入院があった。症状はとても軽そうで、やることもだいたい決まっているのでそれほど大きな心配はいらなそうである。問題は来週のCCの行方であるが、どこまでできているのかが気になる。
明日で月が変わるため、今月の研修医は今日で事実上終わりになった。来月はこのチームには研修医がつかないため、月曜日と火曜日はまた研修医なしチームになってしまう。特に、月曜日はチューベンが午前中外勤でいないため一人チームになる。すこし注意が必要になる。

父の職場

2015年02月26日 23時56分56秒 | 医者仕事
今日は午後に早引きさせてもらい、母とともに父の職場に行ってきた。
思ったよりもこじんまりとした病院で、医局の父の机周りは例によって本でいっぱいになっていた。当の本人もその日に最期を迎えることなどまったく想像していなかったわけで、いつものそのままの様子であらゆるものが主を待っているように見えた。それは実家の中と同じで、いつもとまったく変わらず、父が出勤してきても何の違和感もない光景だった。父だけが唐突に姿を消してしまい、それだけが強烈な違和感を放っていた。
机の棚に麦茶のペットボトルが並んでいて、そのうちの一つは飲みさしだった。ひょっとするとあの日に最後に飲んだものだろうか。医局事務の人の話によると、あの日父は顔色が悪くめまいがすると言って帰って行ったらしい。父が何度となく通り、そしてあの日も通って帰ろうとしたであろう廊下に立って、それはそれでこみ上げてくるものがあった。
ロッカーの中も見せてもらい、予備の白衣や傘がおいてあった。何とも言えない。結局今日一日で母と片付けるのは不可能ということがわかり、後で事務の人に片付けてもらうことになった。だが、まず実家を片付けなければあの大量の本の受け入れ場所はなさそうである。
実家に帰り少し片付けをした。母の背丈では届かない場所の整理が主だったが、父の靴がたくさん出てきた。私と父はほとんど体のサイズが同じで、だいたいのものはそのまま引き継げるので履けるものは全部もらうことにした。中には新品もあり、ストックだったらしい。当分私は革靴を買う必要はなさそうである。

ふとしたときに

2015年02月25日 23時59分08秒 | 医者仕事
職場に戻ってきて、まず1日が過ぎた。昨日はカンファがあって、ほとんど何も仕事はしていないような状態ではあったが、色々な人からお悔やみの言葉や励ましの言葉をもらった。本当にありがたいことである。私の心の中にはぽっかりと大きな穴が開いてしまい、一朝一夕にはふさがるものではないと思ってはいるのだが、悲しみにうちひしがれてばかりいるわけにもいかず、それでも何とかやっていかなければならない。そもそも、来週はまたCCなのでぼやぼやしているとあっという間にそのときが来てしまう。
だが、影響が消えるはずもなくふとしたときに悲しみがこみ上げてくる。そのせいか、無性に疲れが増したような気がする。外勤に行って、表面上はにこやかに話をしていても、心の中ではまだまだ悲しみが強く残っている。これほど辛いこともまたない。

職場復帰

2015年02月24日 23時36分08秒 | 医者仕事
1週間の忌引があけて、今日から仕事にまた戻った。思い返せば、最後にこの病院を出たのは急報を受けて、多少なりとも慌てながら出たときのことであった。それから1週間。あっという間だった。あっけなく父は旅立ってしまい、残された私達はその現実に追いつくので精一杯だった。
さて、1週間も留守にすると病棟のあちこちで少しずつ変化が起こっているもので、その変化に取り残された自分はちょっとした浦島太郎のようなものであった。幸いというのか、カンファでは自分の出番はほとんどなく、多少炎上はしていたようだがそれほど大したことはなく済んだ。
職場に戻ってきたものの、まだ本調子とは言いがたく頭の回転は我ながら鈍いままだった。まだ衝撃からは立ち直れていないらしい。あまり職場でそんな姿をさらしたくないのだが,頭の回転の鈍さは気づかれてしまったかもしれない。早いことまたもとに戻りたいものである。だが、感情面の影響はなかなかすぐには取り去れないのだろう。
医局長選挙があり、その様子を見ながら自己洞察をしていたが、行き着く話は結局父のことになってしまうのだった。「そんなのさっさとやめなさい」と言われてしまいそうだ。

どこから手をつける?

2015年02月23日 23時36分00秒 | 一般
父がいなくなってから今日で1週間になった。やらなければならないことはまだまだ山のようにあって、それを考えるとくらくらとなりそうな気がする。
これから相続の問題も出てくるだろうが、まずは片付けが重要になってくる。
今日は父の机に初めて手をつけた。実家はそこら中本だらけになっており、本の虫だった父にふさわしい家であった。ところが、その本を片付けなければ何もできないような状況になっており、これにはなかなか時間がかかりそうな印象である。ただ、今日は重要な書類をいくつか見つけることができたので、まず小さな目標は達成できたと言えるだろう。

ぬけがら

2015年02月22日 23時18分00秒 | 一般
葬儀も終わり、父の急逝から始まった一連のイベントは一段落ついた。だが、心の中に大きく空いた穴は埋めることもできず私の中にそのまま残っている。疲れているのだが、それ以上に何もやる気が起こらない。寝ていても目を覚ましてしまい、起きていても何かやるでもない。日中は何かをやろうと思っても本当に頭が回らず、何もできなかった。虚脱といえばいいのかもしれないが、ただただ徒に時を過ごしたようなものである。
昨日、父の遺影の小さいサイズにしたものを1枚もらってきて写真立てに入れて家の中に飾った。いつかの座談会か何かで撮った写真を使ったので、生き生きと話しているような写真である。それを見ていると、父と話したことが色々と思い出されて、気がつくと涙を流しそうになっている。
ようやく父がいなくなってしまったことに現実味が伴うようになってはきたが、実家はまだほとんどあの日のままに近く、父だけがいないというおかしな感じは残っている。実家にある膨大な量の本を整理して、ようやく変わってくるような気がする。今日は実家で最後に父が持っていた荷物の中身を整理した。本当は父の机周りの整理もしたかったのだが、少し時間がかかりそうなのでたぶん明日やることになるだろう。
何も考えずに休む時間がとれたので、再び頭を動かすこともできそうである。

永訣

2015年02月21日 23時27分53秒 | 一般
通夜から一晩あけて、今日は告別式である。
朝は比較的ゆっくり目を覚まし、また車で式場に向かった。息子はぱっちりとした目で朝のいつも通りの時間に目を覚ました。嫁さんはしばらく後からの合流の予定で、それまでは家で息子と遊んでいる予定である。
式場に着く直前で渋滞に巻き込まれ、そのせいで予定よりも到着が若干遅くなってしまった。父の棺は前夜と変わらずに安置されていて、小窓が開けられていた。昨日も見たのだが、今日で顔を見ることができるのも最後と思うと何度となく見てしまった。生前の父の表情が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていて、ついつい目頭が熱くなった。
父の秘書さんや指導を受けて研究をしていた先生と話す機会があった。父は本当に家族思いで通っていたようで、母や私や妹の話をうれしそうに、楽しそうにしていたと聞いた。もちろん、面と向かって私たちに言ってくれたことはないのだが、本当に家族が好きな父だった。
告別式が始まり、弔辞を聞いて再び涙がこみ上げてきた。ここしばらくというもの、私の涙腺は緩みっぱなしもいいところで唾液並みに涙が出てくる。
焼香を済ませた後は、昨日と同じようにしてまた参列客に頭を下げ続けた。ありがたいことに、私の同期は昨日の通夜か今日の告別式のどちらかには顔を出してくれた。たまたま今日が土曜日だったこともあり遠方からもわざわざ来てくれた方もいた。このときも涙がこみ上げてきてこらえるのが大変だった。
そして、告別式が終わりいよいよ最後のお別れとして、棺の中に花を入れる時間になった。棺が祭壇から会場の中央付近に動かされ、ふたが外された。棺の中の父は、生前着ていたワイシャツにネクタイを結び、いつも着ていたジャケットをそのまま身につけている。上から最後の日に着用していた白衣を掛け、そして編纂に加わっていた本を副葬品として入れた。そして、その上から次々と花が入れられた。最後に父の頬に軽く触れた。冷やされているので氷のように冷たかったが、それでも父の体であった。棺の中は花でいっぱいになり、そしてふたが閉じられた。
母が喪主として挨拶をした。ところどころ詰まるところはあったが、すばらしい挨拶だった。聞いていて私も涙がこみ上げてたまらなかった。最後のお別れをしてくれた参列客の中にもところどころ涙を流している方がいた。皆に愛されていた父の急逝は多くの人の心を揺り動かすものであった。
その後出棺で、私は妹とともにハイヤーに乗り火葬場へ移動した。そして、火葬場に到着し、炉前で本当に最後のお別れをした。そのときに私は父から眼鏡を外した。その時に髪をなで、いよいよ炉の中に棺が入れられる前に「おつかれさま」と父に声をかけた。照れ屋の父だったので、そんなことを言われてきっと苦笑いをしていたに違いないが、私なりの永訣の挨拶のつもりである。
火葬が終わるのを待つ間、控え室で休憩した。このときは多少落ち着きを取り戻し、住職さんとも談笑して過ごした。
火葬が終わり、収骨をした。以前の祖母の葬式の際とは違って、1人1回拾った後は全部係の人が骨壺に納めてくれ、あわせて父のしていた指輪と眼鏡を納めてもらった。父の遺骨は、最後の最後まで普通に動いていたためか量が多く、大きめの骨壺にしていたのだがぎりぎりのところであった。
火葬が終わった後はハイヤーで再び式場に戻り、初七日の繰り上げ法要を済ませてから精進落とし。献盃の挨拶は叔父がやってくれた。またその挨拶を聞いて胸が熱くなってしまい涙ぐんでしまったが、ちょうど嫁さんと息子が登場して部屋の雰囲気が一気に明るく和やかなものになった。息子は相変わらずの外面のよさで、笑顔を振りまいており親戚に息子をお披露目するような形になった。
あとは荷物を持って引き上げてきて、これで父の弔いは一段落ついた。1週間前にはまだ生きていたと思うと、今は遺骨になっているのが本当に信じられない。しかし、ようやく父も気に入っていた家の中に帰ってくることができた。これからしばらくはここで過ごしてもらい、時期が来たら菩提寺に納骨することになる。
一段落ついたところで、張り詰めていたものもふっと抜けたようで体が急に重く感じられるようになった。これからまた頑張っていかなければならない。
父の急逝から5日。変な形ではあるが父の仕事での側面を垣間見ることができた。これほど人望があるとは思いも寄らなかったが、その点を抜きにしても私にとっては誇りであり、父は偉大なお手本だった。生まれてから常に父の背中を見て追いかけ続けたが、とうとう一回も勝てないままに父はレースから退場してしまった。父がいなくなってしまい、私の心にはぽっかりと穴が空いてしまった。列に並んで待つのが嫌だった父らしく、元気な状態から一足飛びに待つことなく、周りにほとんど心の準備をさせる暇も作ることなく、さっさと旅立ってしまった。傘寿は難しいと思っていたが、還暦までも持たなかったとはいささか早過ぎはしないだろうか。でも、好きなことをして、自分なりの美学を貫いて突き進んだのだからいい人生だったかもしれない。
打ち解けた話はあまりできなかったが、気も合って本当にいい父だった。私も恥ずかしがり屋で面と向かっては言えなかったが、父が大好きだった。いまわの際に「後は任せた」と言ってくれるのかと勝手に思っていたが、あの日救急外来で手を握ったときに聞こえない言葉でそう言ってくれたのだろうか。

最後の最後まで忙しかったみたいだけど、これからはゆっくりと休んでください。もし面倒でなければ、たまには見守っていてください。
私はあなたを父親にもてて本当によかった。ありがとう。そして、さようなら。

仕事での姿

2015年02月20日 23時53分39秒 | 一般
今日は父の通夜である。
入院していた息子はすっかり元気になり、今日めでたく退院の日を迎えた。朝に迎えに行ったときにはすっかりご機嫌で、いつもの息子に戻っていた。病院から嫁さんと一緒に家に連れて帰り、その後は出かけるまでしばらく家で休息をとった。息子が帰ってきて、家の中はいっぺんに明るくなった。子どもの笑い声というのは家の中をどんな照明よりも明るくするもののようである。
さて、夕方になり母と妹とともに式場に入った。父の顔は薄化粧が施されて、より生きているときの表情に近くなった。本当に眠っているかのようである。父が最後に着ていた白衣はハンガーに掛けて祭壇の脇に置かれ、そばにはいつも使っていた診察道具も置かれた。式場内には昨日選んだ、生前の父が好きだったピアノ曲がBGMとして流されていて、父を送り出す舞台はようやく整ってきた。導師は我が家の菩提寺の住職で、個人的なつきあいも昔からあるような間柄で、わざわざ北海道から来てくれた。
供花は予想をはるかに上回り150基ほどにも及んだ。方々の大学や縁のあった病院、勤めていた病院からで、芳名板を見ると錚々たる面々の名前が並んでいた。そして、参列者の数も思った以上に多かった。自分の焼香を済ませ、その後で一般の焼香に移ったところで参列者の方を見るとぎっしりと後ろまで連なっていて、用意した椅子ではおさまりきれないくらいだった。
私の関係の人たちも何人かわざわざ来てくれていたが、もちろんほとんどは父の仕事の関係の人たちで、涙ぐんでいる人も少なからずいて、本当に皆から愛されていたことがうかがえた。通夜が始まる前にも父の職場の人と何人かお話しすることができたのだが、職場での父はとても人当たりが良く何かと色々相談をされていたようだった。診療でも話をよく聞いて患者さんからも慕われていたらしい。さらに、最後の日の様子を聞くこともできた。涙ながらに話してくれたのだが、これだけ皆に愛され、慕われるというのは並大抵ではない。私は残念ながら仕事中の父の様子を見ることはできなかったが、私が普段見ていた父の姿からは想像もつかない姿があったらしいということはよくわかった。
通夜が終わった後は、親族で食事をして思い出を語ったりした。何人かからは私が父にいろいろなところが似ていると言われた。中には父のような立派な神経内科医になりなさい、というようなことも言われた。
私はあまり食欲がなくそれほどたくさんは食べられなかったが、ひとまず今日のところはお開きになり、明日は告別式。名実ともに明日父を送り出すことになる。そして、本当にお別れだ。

疲れと体と

2015年02月19日 23時50分25秒 | 一般
今日は朝から嫁さんのアルバイトの肩代わり。正直なところ忌引中なので肩代わりができたが、そうでなければ頭を抱えていたところだった。今週はいろいろなことが一度に降りかかってきて、考えただけでも嫌になりそうだが起こってしまったことは仕方がない。幸い、まだ体力は残っていて頑張れそうである。
息子は昨日経口摂取を再開して思う存分母乳を飲むことができて、ゆっくりと夜は寝てくれたようである。付き添いの嫁さんも休めたようでうれしかった。
家に帰ってきて、残り物を急いで口の中に押し込んでからすぐに病院に行って息子の付き添いを嫁さんと交代した。息子は点滴も終わりになっていて、だいぶ元気になっていた。顔つきも元通りになっていて、笑顔も見られるようになった。息子の笑顔は疲れた体には何よりであるが、付き添っている間にうつらうつらしてしまった。最近息子は私の腕時計に興味を示すようで、今日も何度となくいじっていたが外れなかったせいかしばらくすると飽きてしまったようだった。経過は順調で、明日退院することになった。
戻ってきた嫁さんと交代した後は、すぐに実家に行った。母と妹は今日の昼間にしっかりと睡眠をとれたようで、だいぶ疲労がとれた様子だった。私が他のことでかかりっきりになっている間にいろいろなところと連絡をとってくれたようで、手続きなどは着々と進んでいるようで一安心であった。
明後日の告別式が終わった後で父を迎え入れるために家の中のごく一部分を片付けた。ようやく家の中もあの日で止まっていた時間が動き出した。だが、整理をつけるにはまだまだ時間がかかるであろう。本人をはじめとして父が急にいなくなることなど誰も想定していなかっただけに、身辺整理などまったくなく、父が好きなように過ごした跡が残っているだけである。でも、それは何よりの幸せの証だったのかもしれない。
明日の通夜で流すBGMも選んだ。父が好きだった曲を何曲か選んで流してもらうようにした。
これでだいたい準備は整った。あとは父をあたたかく送り出してあげるだけである。