グリーンズ・テイブル

ppのピアニッシモな戯言でござ~い☆

母との別れ

2008-02-08 09:17:40 | 生と死

今日は母の命日。

母を見ていると、人間には一生に決められた仕事量があるのかなと思うくらい、いっぱい巻いたゼンマイが事切れるように止まったようだった。
私より体力あると感じるくらい、本当によく動いていた人だったが、認知症が出始めた頃に私の兄が亡くなり、多分そのことが拍車をかけ、家事放棄してしまった。
長い時間をかけた母との別れの始まり。

それから5年後父が亡くなり、その後は自らの発語も殆ど無くなり、自ら食事もしなくなり、一人歩行も難しくなった。父の49日法要の数日前、むくみがひどくなったので病院で診てもらうと、即入院。

状態は悪化の一途。誤燕(食べ物が誤って気管に入ること)からの肺炎を懸念し、口からの栄養摂取を断念しなければならず、胃ろう(お腹に穴を開け、胃に直接流動食を入れる方法)にするかどうかの判断を医者から迫られた。
私は反対だったが、兄と姉がそれを希望したので、非常事態に揉めることを避けるために従った。
が、後で思うとやはりその時が大事な分かれ目だったように思う。

急性期医療の病院は治療が終わると患者を退院させてしまうが、こちらへの説明は「年末年始の急患受け入れのため、ベッドを空けておかなくてはならないので」ということだった。しかし同室4人部屋の二つが空いていたし、他の部屋も既にガラガラだった。
次の病院へ移動するため、ストレッチャーで廊下に出ると、詰め所にいた医者と看護師が全員ずらりと並びお見送り。この人達はどんな心境で頭を下げているのかと思った。経営優先、所詮この人達も雇われ人。

移動の車内、母の位置からも街道沿いのナナカマドの赤い実がよく晴れた空に美しく見えていたので、「綺麗だよ、見える?」と訊くと、うなずいていた。

母を受け入れてくれた新しい病院の先生は「まだこんな状態で出すなんて」と呆れていた。母に病院が替わったことを告げると理解してくれたようだったが、それからは殆ど眠ったままで一ヶ月半が経ち、危篤状態に入ったと知らされたときに私はフルートを持って病室に入った。本当はもっと早くそうしたかったが、4人部屋だったので躊躇していた。入ってきた看護師さんにフルートを吹いても良いか一応尋ねると「どのくらいの大きさ?」「どのくらい響くか、吹いてみないと分からない」「多分大丈夫でしょう」のやりとり。

病室はドアが開けっ放しになっているので廊下を背にして吹いた。クラシックは聴かない人なので、無伴奏でもサマになってしかも喜びそうな数曲を用意し、まずは「小諸馬子唄」。同室で唯一発語する認知症の人が不思議そうに見ている。
直ぐ後ろに人の気配。気にせず最後まで吹き終わると廊下から沢山の拍手。振り返ると真後ろに先生が、その後ろには隣の詰め所から出て来られていた看護師さん達がずらり。先生が直ぐに母と繋がっている計器を見てくださり、「数値が上がっていますよ!」。音楽療法学会で事例発表を目指している人にとってはよだれの出るお言葉、私にとってはどうでも良いこと。「また是非演奏してくださいね」と言われ嬉しかったけれど、そう言われては、あとの曲を続けて演奏出来なくなってしまった。
耳の機能は最後まで残るらしいので、私の演奏をきっと聴いてくれたに違いない。

その二日後、母は旅立った。
父の死後5ヶ月のこと、それほど仲の良い夫婦ではなかったが、父が逝った後、母はもう生きる気力を失っていた。だから「死ねて良かったね」と思った。

最後に交わした言葉はなんだったろうと思い出すと、病院から帰るときに絞り出すように小さな声で「気をつけて帰りなさい」だった。どんな状態にあっても親は親、掛け替えのない存在でした。
もう、4年が経ちます。

向こうでは父と母と兄が再会し、よろしくやっているのではと想像したり…

楽しいこと、美味しいものは……新しい力にかわってくれる☆

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