テレビで、今東京の国立新美術館で行われている「ゴッホ展」に絡めて、日本人のゴッホ好きを取り上げていた。何でも、ゴッホ展は、世界の中でも圧倒的に日本が多いらしい。一番高いのを落札したのも日本の保険会社だし、どうやら日本人のゴッホ好きは間違いないようだ。何故そうなったのかというのも分析していたが、それはまあテレビなのであまり当てにならない。
印象派は特にそうだが、この手の展覧会はいつも凄い人出だ。自然の風景の印象をそのまま描いた、とまず理屈として納得して見られる安心感が印象派にはあるのだろう。そしてそれが絵を見るという、少々高尚と思われる行為の垣根を低くしている、ように思える。秋の枯れ葉が散る風景は、葉っぱ一枚一枚が、まるで点描のそのものだ、何て感じる日本人は多いのではないだろうか。この辺は、四季の映ろいを楽しむ日本人の自然観が(あるという前提で)、境界を曖昧にする印象派の手法と合致していると言えそうだ。つまり、手法からして元々印象派は日本人に合っていたのだ。
ゴッホに関してはどうなのだろう。個人的にはゴーギャンの方が好きだったので、あまりピンと来ないのだが、作品そのものはそれなりに良いとは思う。見に行きたいかというとそれはないが、アルルの「夜のカフェ」のモデルのカフェが今でも同じようにあるのを見ると、そのまんまやないか、というある種の興奮を覚える。じゃあ、記念にちょっとカフェの一杯でもという気にはなる(しなかったが)。
というのは、全く日本人のゴッホ人気と関係ないが、人気に関係するのは絵そのものというより(絵は絵で、ゴッホの情熱がそのまま筆遣いに表れている、何て説明されると納得しちゃうの世界ですが)、ゴッホの生き方なのではないだろうか。極貧生活で、ゴーギャンとの確執、そして悲劇的な最期、その後認められるという貧乏物語が日本人の心にぐっと訴えるように思うのだ。山中貞雄の「人情紙風船」や溝口健二の「西鶴一代女」が強く支持されているように、この手の物語は日本人の感性を心地良く刺激するのである、と如何にもな結論で納得する人は一体どれほどいるのでせうか。