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池内紀「記憶の海辺」~旅心、山心、文学心をくすぐるエッセイ~

私が大切にしている本に「温泉百話」(ちくま文庫)がある。
もう20年以上も前、毎年、年末にひとりで温泉旅に出ていた時に
愛読していた本で、その編集者の一人が、池内紀さんだった。

新聞の書評で、
池内さんが書かれた「記憶の海辺~一つの同時代史~」を見つけ、
図書館で予約して、やっと順番が回ってきた。

前半は、とばし読み、
最後になるにつれ、おもしろくなった。
ギュンター・グラス(「ブリキの太鼓」の著者)や、
レニ・リーフェンシュタール(映画『オリンピア』)へのインタビュー記事、
翻訳の話と、一気に読んだ。

50歳近くになって退職にあたり、三つの予定を立てたそうだ。
1 カフカの小説をひとりで全部訳す。
2 北から南まで好きな山に登る。
3 なるたけモノを持たない生活をする。

翻訳のおもしろみについて語ったくだりは、たとえがうまくて、思わず抜粋して紹介したい。

「原作という相手役ときたら、いたって無口である。黙りこくっている。沈黙している。そんな相手にしゃべらせなくてはならない。当人の言葉はさしおいて、「こちらの言葉」で話してもらわなくてはならない。語るように仕向ける。おだてたり、策を弄して口をひらかせる。

 いちど見つけたきっかけによって、相手が話しだす。少なくとも訳者はそれを希望する。さしあたってはきれぎれの呟きに似ているが、それでもきっかけになってくれる。耳をくっつけて、やっと聴きとれるささやきでもかまわないが、訳がすすみさえしてくれればいいのである。

 やっとのことで訳稿がふえていく。おぼつかない、たよりない、もろい存在であって、吹けば飛びちるしろもの。なにしろ押し黙った相手から、無理やり取り出したまでなのだ。疑念がきざすとタイヘンである。これでいいのか、訳文がズレてはいないか。ほんの少しでもズレぐあいを意識すると、翻訳はピタリと停止して、一歩たりとも動いてくれない。

 秤の針と似ているだろう。原作者と翻訳者のあいだで針がゆれる。ひとしきりフラつき、またひとしきり揺れたのちに、やがて振幅が小さくなり、さらにさらに小さくなって、ハタととまる。

 翻訳にたずさわる者のこよないよろこびの一瞬である。オリジナルと翻訳との平衡が定まった。一人二役が二人一役に思える瞬間であって、変身がいっときに完了した。

 ともあれ、それも一瞬のこと。こんな微妙な状態を、いつまでも固定するなど不可能である。」

「さらに進むためには、計算ではなく本能によって言葉の進路と重さとを決めなくてはならない。」

神西清さんの言葉を引用紹介もしている。
「翻訳という問題は、もともと生木のようにくすぶるのが運命である。もともと自然の法則に反して燃えることを強制されているからである」

いい文章というのは、情景が浮かぶし、
言葉にしにくいことを、うまく言葉にしていると、
苦労も喜びもリアルに伝わり、
作者と同じ体験をしたような気になって、おもしろい。

 「背には嚢、手には杖、一日の王が出発する」尾崎喜八(詩人・翻訳家)の言葉を引用した
ひとり登山の章。
五十代半ばで勤めをやめてから登山の趣味が本格化したそうだ。

新潟県の「仙納(せんのう)」の棚田、(今の十日町市、私がいつか行ってみたい場所!)
朝日連峰縦走、
富山県側から入り、黒部川の水源をたどって岐阜県側に抜ける中旅、
西伊豆の長九郎山、
四国の国見山、祖谷渓、
八甲田のブナ林、飯豊(いいで)の山小屋づたい…
出羽三山の湯殿山、本道寺、岩根沢の出羽三山神社の旧宿坊、
甲州の七面山、
吾野駅から歩いて2時間の風影(ふかげ)、
秩父の御花畑駅から落合の民宿、

書き写しているだけで、どこも行ってみたくなるし、
読みながら、自分のひとり旅のかすかな記憶の風景が
混じりこんでくるからおもしろい。
池内さんは、水と森の関係に興味を持たれたようで、
ただ歩くだけじゃなく、何かしらひとつ、視点をもつと、
より深い体験になるのかもしれない。

ゲーテの「ファウスト」の訳の稿では、
ゲーテの詩才をたたえている。
メフィストいわく、
恋に「煮えたぎっている」ファウストと町娘。

町娘が糸車をまわしながら歌った恋ごころの歌の訳は、

「おだやかなときは消え
こころは重い
やすらぎはもう
どこにもない

あの人がいないと
そこは墓場
この世はすっかり
荒れはてた」

「窓からいつも
あの人を見ている
家から走り出し
あの人を追いかける」

「はてしなく堂々巡りする胸の思い」と、
「ゆっくりとまわりつづける糸車の動き」が交錯する…。

あのゲーテさんが、
こんな恋の悩みを詩にしているなんて、
いつの時代も、どこの国でも、
恋の悩みは変わらぬものだと、感慨深い。

最終章では、自分の最近の暮らしについて。
朝4時には起きて、椅子しかない空間で、音楽を聴く。
6時から10時まで仕事して、食事。

私は全くの夜型で、2時までは平気で起きているけれど、
いつかこんな暮らしをしてみたい。

眠りという空白がはさまって新しい局面が訪れる、
少なくとも眠っているあいだは忘れていられる、
いつのまにか、記憶がすっかり風化しているという話は、
少し勇気づけられる。

2017年12月に発行された本で、
最近、書評を読んだつもりでしたが、
随分昔の新聞だったかもしれません(笑)

物を捨てられないのも、池内さんとは対照的な私でありました。

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