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短歌や詩集や、言葉との新たな出会い~山積みの新聞から4~

〇「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」

「栃咲きぬ巴里は遠くて行く気なし」
「夕月やしっかりするとくたびれる」

「まず、諧謔。それからやさしみ。皮肉でもある。自己憐憫からはもっとも遠い。そしてまた一句の中に、ものすごく複雑な気分がある」

「フルーツポンチのチェリー可愛いや先ずよける」
「この先に泉があると言って帰る」

「チェリーの句、可愛いと思いながらその可愛さにいらいらしている。(略)美しい泉があるのに、行かない(たぶん)」

「目覚めるといつも私が居て遺憾」
「人が人を愛したりして青菜に虫」

「『遺憾』という言葉の妙味。そして、『愛したりして』の忸怩たる感じ」

池田澄子著「句集 たましいの話」について、
作家川上弘美さんが書かれた、読売新聞掲載の書評の一節。
句を抜粋して、ご自分のコメントを書き加えている。
川上さんが指摘しているとおり、
「対象をとらえる心の新しさ」が、今まで見たことがない世界に連れていってくれるようで新鮮。

〇「古池は/騒ぐことなく/自己満足」(ボーランド)

「世界俳句」という雑誌の2015年第十一号を紹介した記事で紹介されていた俳句。
芭蕉の「古池や/蛙飛び込む/水の音」との対比で、
「古池」の立場から読まれた俳句でありつつ、「自己満足」で、階段踏み外したような楽しさ。

〇先日ご紹介した読売新聞の待田晋哉記者が詩人の新川和江さんから
「生老病死の旅路」と題してインタビューした記事がありました(2014.3.24)。

「わたし、先輩にも恵まれましたの。
『神様がどもるように書け』
『詩は、鈍刀で書け』。
さらっと書いたものでは、人の心を打たないことを教わりました」

新しい詩集『ブック・エンド』の後書きの代わりにつけられた短い詩。

「<鳥だった日がある
ちいさな魚だったことも
遠い日のわたしの声に
はい、とへんじをする>

年を取りますとね、幼いころの記憶と現在の意識が行き来するようになる
それは母のお腹の羊水に浮かんでいた胎児だったころまで遡って、鳥にもなって、魚にもなって……」
「あの世に『はい』って元気に手を挙げて、立っていきたいの」

〇読売新聞の「時代の証言者」シリーズでは、
厚生労働省のキャリア官僚で、冤罪事件に巻き込まれた村木厚子さんが連載中。
拘置所にいた時、差し入れの本の中に、
比叡山の延暦寺で、千日回峰行をされた酒井雄哉・大阿闍梨さんの
「一日一生」があったそうだ。

「一日が一生、と思って生きる」
「身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返す」というのを読んで、

今日一日を頑張ればいいんだと思えるようになったそうです。
くるくる繰り返す、という表現があたたかいです。

〇こんなふうに、心にひっかかった言葉を、何年ぶりか、何日ぶりかで再会して、
紹介させていただくのも、なにかのご縁なのかもしれません。 

 

 

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