映画の感想をざっくばらんに、パラパラ読めるよう綴っています。最近は映画だけでなく音楽などなど、心に印象に残ったことも。
パラパラ映画手帖
No794阪本順治監督のトーク【前半】
7月30日(土)大阪九条のシネ・ヌーヴォでの浪花の映画大特集で
『どついたるねん』(‘89)、『王手』(’91)『ビリケン』(’96)と
阪本順治監督の新世界三部作の一挙上映があり、
阪本監督のトークショーが開催されました。
その概要を2回に分けてご紹介します。
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◎『どついたるねん』のこと
『どついたるねん』『王手』はそれぞれ
監督が30歳、32歳の頃に撮った作品。
今から思えば、怖いもの知らずだった。
30歳を目途にデビューしたいとは思っていて、
何かしら暴力性を伴ったものをやりたい、
かといって、組織暴力は今さらという気がして
ボクシング、定められたルールの中で暴れるものにしよう、
充電してきたものを放電し、暴れてしまいたいと思った。
脚本もないまま、とにかく赤井英和さんに取材。
最初に書き上げた脚本は、
タイや韓国のボクサー、プロモーターが登場するアジア色の強いもの。
赤井さんに会って、シナリオを読んでもらい、
意見を聞いたところ、
遠慮しながらも「このシーンは要らないと思う」、
「このシーンも」と幾つも続き、
要は自分の出てないシーンは要らないということだった(笑)。
それなら、いっそ赤井さんに絞り込もうということで
脚本は全然違うものになった。
減量しなければカメラは絶対回さないと手紙を送ったりして
かなりの減量はしてもらった。
ポスター撮影しているときに、急激な減量で倒れたこともあった。
ボクサーにとって、試合のための減量は、試合当日の1日だけでいいが、
映画撮影の場合は、撮影期間中ずっとになるから、大変。
減量してくれ、と言っておきながら、
映画の途中で、減量が上手くいかずに太るシーンがあるため、
「明日、5キロ増やしてきてくれる?」と勝手なお願いもした。
完成して最初に大阪で上映を始めたが、評判が悪く、観客も集まらず、
「赤井が“地”でやっているだけ」という噂も流れたようで
それがすごく悔しかった。
◎『王手』のこと
「王手」のシナリオを書いた。
これを基に、今度は、
赤井を将棋板に張りつけて、件の噂を払拭したいと決意した。
当時、荒戸源次郎プロデューサーのところにいた豊田利晃が
東尋坊の旅館の、海に面したところに
通天閣のワンフロアー分(展望台)をつくって、撮影した。
(通天閣のバックに街でなく、海が広がっているというシーン!)
今ならCGで簡単にできるところだが、
わずかワンカットのために、わざわざセットをつくった。
特に、荒戸プロデューサーから、反対もなかった。
(このとき、CGはよくわかりません、と
監督がにっこり微笑んでいたのも印象的)
将棋というのは、勝負の大局を自分で見定めて、
自ら「負けました」と頭を下げる勝負もので独特。
盤上の勝負事を、映画的にいかにスリリングに描くかが課題だった。
◎原田芳雄さんのこと
原田芳雄さんについては
子どもの頃『野良猫ロック』を観て、
この野蛮な感じは、何なんだろうなあと思っていた。
原田さんには、荒っぽさと同時に、どこか茶目っ気があった。
学生の頃、原田さんを想定して脚本を書いたこともあったし
助監督になってからも、思いはずっとつながっていた。
『どついたるねん』のときに、
荒戸プロデューサーに紹介してもらった。
脚本もできてないまま出演を快諾してくれ、
実際に13、14キロ減量もしてくれた。
ボクサーは、相手にパンチを当てない練習なんて
普段していないから、つい当たってしまう。
それでも、原田さんは、
庭にサンドバッグがあるほど、ボクシングが大好きで、
元プロのボクサーとの共演を喜んでくれていた。
監督は、現場では、ずっと赤井さんしか見ておらず
まだ素人に近い赤井さんには、何回も演技を繰り返してもらった。
原田さんは、相手役のプロの役者として、
何回でも“同じ演技”ができ、すごいと思った。
赤井の演技を受け止めて、何度でも返せる、それがプロの技術だと思った。
原田さんは、赤井のことを「将来の三船敏郎になる」とまで言っていた。
監督が思うに、存在感というより「ぞんざい感」!
ざらっとした役者。
打ち上げのジャズバーで
原田さんに、撮影中、赤井しか見てなかったと言われ、
冗談で、首をしめられた(笑)。
【続く】
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