日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

ブログとロック、ブロガーとロッカー、似てません?

2013-01-11 | 経営
ブログと電子書籍はこれからの時代のコミュニケーションの鍵握るツールになるであろうと考え、個人的にはこれに積極的に取り組んでいます。年明けでもあるので、この両ツールの今後のあり方についてちょっと考えてみたいと思います。今日はまずメディアとしてのブログの可能性について、考えてみます。

私はコミュニケーション界(という考え方が成立するのかどうか分かりませんが、あるとすれば)におけるブログとブロガーの存在は、音楽界におけるロックとロッカーの立ち位置の歴史に似ているように思ぅています。ロックはハミ出し者の音楽としてスタートし、先人たるクラシックやジャズにはないやや過激とも思える主張性やアウトロー性を帯びたまま成長し、誕生から約半世紀を経てようやく市民権を得てきた感があります。

ちなみに私が洋楽のロックを聴き始めて今年でちょうど40年になります。当時は1950年代半ばにロックが誕生してまだ20年足らず、60年代に創生期を受けロックのバトンを確実につないだビートルズが解散して3年、ロックは形を変えながらも存続し受け入れてもらえる層を広げながら徐々に市民権を得る階段を登り始めたばかりでありました。

そうは言いつつも当時の日本国内はどうだったのかと言えば、まだまだ「ロックなんかエレキギターをかき鳴らすイカれた連中の音楽で、エレキを弾くヤツ、バンドをやるヤツは不良」という穿ったレッテルがまかり通っていた時代でありました。「ロックは騒音、音楽じゃない」、「ロッカーなんていうのは破壊者であり、プロ・アマ問わずろくな者じゃない」、そんな意識が一般的であったのかもしれません。

それと言うのも、「ロックな生き方」と聞けば荒くれでアウトローなイメージが基本であり、当時の大人たちから見れば、従来の常識や既成概念を破って言いたい事を言ってやりたいようにやる、そんな無秩序な若者文化が生み出した学生運動にも似た一過性の病気ぐらいに思われていたからなのかもしれません。

一方ブログの発祥は、web情報によれば今から16年前の97年にweblogとして登場し、自由で無制限な表現の場は個人の遊び場としてごく限られた人たちに利用されていたものが、01年の9・11テロの発生という悲劇をきっかけに、一気に「個人メディア」という公的色彩を帯びることとなります。ここらがロックにおける60年代のビートルズの登場にあたるのかもしれません。

その後、ツイッターやSNSなどとの連動を深めつつ、「個人メディア」というものの存在感を徐々に高めて現在に至っています。ロックの歴史で言うなら今の状況は、ビートルズの登場で一般にも受け入れられ始めた流が太くなりつつあった、ちょうど私がロックを聞き始めた70年代前半あたりの状況に立っているのかなという印象です。

現状ブログメディアの存在は、社会的に地位を認められた人たちのブログも増え、その存在自体は大きくなってはいるものの、信頼感や安定感の点ではまだまだメディアとしての地位は低いと思います。70年代前半のロック音楽やロッカーたちと同じく、確固たる市民権を得るには至っていないと言えるでしょう。

その理由として、当時のロックがレッテルを貼られていた“不良感”と同じものが、ブログにもあるのではないかと。ひとつは、有象無象がひしめくブログに掲載される「情報の質」のバラツキに関する問題。もうひとつは、ブログ「炎上」という事件性にその暴力的なイメージが印象付けられてしまいがちであるようにも思います。

これらの問題点に時間をかけて何らかの変化が及ぼされるのなら、ブログだからこそなし得る既存メディアのタブーへの挑戦や恣意的な情報操作を排除する自浄作用が正しい目を持ってクローズアップされ、ブログのメディアとしての市民権確立に向かわせるのではないかと。ちょうどロック界における原理主義的存在としてのパンクロックの登場を期に70年代後半以降のロックが成長期に入り、周辺のビジネス領域にまで及ぶ影響力の行使を通じて次第に市民権を得ていったようにです(単純に産業ロック化の流れの肯定は意図していません)。

ブログの「情報の質」に関しては、ある程度選別を経たブログを集めると言う新たな試みとして09年にスタートしたBLOGOSに代表されるやり方が、似たようなサイトが次々と立ち上げられている昨今の動きを見るに、ようやくその有効性を感じさせる段階に入ったのかなと。この傾向の一層の進展とツイッター利用やフェイスブックをはじめとしたSNSの広がりと併せて、ブログ系メディアの色分けが徐々に進んで確固たる市民権の獲得に向けていい流れがつくられるのではないかなと思っています。

一方の「炎上」問題。双方向のコミュニケーションが可能である点、誰もが議論に参加できる点はブログメディアの既存メディアにない利点であり、ネット上の意見におけるモラル上の自浄作用の観点含めて、「炎上」を暴力的行為と片付けてしまうのは違うとは思います。ただ、常識的な議論を逸脱する“見せしめ”や行き過ぎた“社会的制裁”は非難されてしかるべきであり、こういった便乗犯的行為の抑制はブログメディアが今後信頼に足るメディアとして確固たる市民権を得るために、越えるべきハードルではないかと思うところです。

ロックが音楽ジャンルとして誰からも後ろ指を指されることなく、確固たる市民権を得るのに費やした時間は約半世紀。ブログメディアは登場からまだ15年ほどに過ぎません。ブログメディアが既存メディアと同様に確固たる市民権を得て、対等のあるいはそれ以上の力を持つコミュニケーションツールになるのには多くの時間を要するのかもしれません。しかし、これからも既存のメディアに刺激を与えつつ、確実にその存在感を増していくことは間違いないという考えの下、私は引き続きブログを大切にしてまいります。今年に関して言うなら、まずは夏の参院選に向け選挙運動のネット解禁。国はそこいらから確実に取り組んで欲しいものです。

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