日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

みずほ銀行事件に見る、いまだ護送船団文化から抜けきれない銀行界の闇

2013-10-09 | 経営
みずほ銀行の反社会的勢力に向けられた融資が2年以上放置されていた件が、新たな局面に入りました。前回の副頭取の会見で、「担当役員止まり」とされていていたコンプライアンス違反の事実認識が、頭取にまで及んでいたことが判明し、昨日佐藤頭取がようやく重たい腰をあげて会見に臨みました。

この事件の背景について私は先週のエントリで、「問題の根底にあるのは保身文化であり、その保身文化を育ててきたものは減点主義人事である」と書きましたが、昨日の会見でこの問題の全容が徐々に明らかになるにつけ、私の主張はまずます説得力を持ってきたと感じるところです。

みずほ銀行がオリコの反社会的勢力向け融資の存在を知ったのは、西堀利頭取時代の10年12月。その後、11年2月から12年1月にかけて、みずほ銀とみずほFGそれぞれの取締役会とコンプライアンス委員会で4回ずつ報告されており、トップを含めた役員クラスは全員、当然コンプライアンス違反の事実は知っていたと言うことになります。では、なぜその問題が昨年12月に金融庁検査で指摘されるまで、放置され続けたのか。

原因は確実に「保身」です。「自分が引き起こした問題ではない」という「保身」です。ヤバいものに手を突っ込むことで、自分も当事者に巻き込まれるからそれをしないという「保身」です。「保身」と「無責任」は表裏一体なのです。「保身」的発想から当事者になることを忌避し、臭いものにフタならぬ、臭いものに気づかぬフリを決め込んだのでしょう。トップが見て見ぬフリを続ければ、下は自らの身を危うくするようなことはしないわけで、「保身」の連鎖がそこには生まれ、組織の自浄作用は、完全に失われてしまうのです。

組織における役職は役割であり、自分が巻いたタネであろうとなかろうと、自己の役職に置いて管理すべき問題は何事も当事者意識をもって解決に望むのが役割の正しい遂行であります。しかしながら、銀行のような一度の失敗により挽回が難しくなる「減点主義人事」の組織風土においては、「保身」は役職と役割を分離させ役職を守らんがためにリスクの高い役割を放棄するという愚行に出させてしまうのです。

「減点主義人事」をはびこらせた最大の原因は、旧大蔵省による護送船団方式の金融行政でしょう。官僚の完全管理の下、信用第一を掲げ、ほめることなくむしろ出る杭を打ち続け、足並みをそろえさせてきた金融行政は、いつしか日本の銀行に“お上に怒られることが一番いけないこと”という、顧客二の次の保守的な体質を生みその流れが「減点主義人事」を生みだしたと捉えています。この「減点主義人事」こそが、銀行に「保身」体質を蔓延させ、今回のような無責任対応を生む元凶になったと思うのです。

みずほ銀行がこの問題での会見をしぶり続け、最初の段階で佐藤頭取が会見に登場しなかったのも、私は頭取の「保身」以外のなにものでもないと思っています。そして、みずほ銀行において他の銀行以上に「保身」分化を強くさせているのは「合併行気質」に他なりません。旧富士、第一勧業、日本興業の三行の合併により誕生したみずほ銀行は、表向き三行横並びをイメージさせながらも、裏を返せば主導権なき足の引っ張り合いがあったことは想像に難くなく、ひとつの失態が対二派閥に対する劣勢を生みかねないと言う「保身」が働き臭いものに見て見ぬフリがまかり通っていたのではないかと思うのです。

第三者委員会における原因究明に着手するとの報道ですが、再発防止は「保身」体質にメスを入れないことにはなしえないであろうと思っています。そのために必要なことは、「減点主義人事」から失敗を恐れずチャレンジしその姿勢と実績を評価する「加点主義人事」への転換です。その実現に向けては、金融庁の銀行への指導方針の転換も不可欠であろうと思うことろです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿