日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方33」~ハードロック 5

2011-02-12 | 洋楽
ジェフ・ベックとレッド・ツェッペリンによって開かれた70年代ハードロックの扉は、ディープ・パープルによってルーツ的な音楽要素を排することでより明快で分かりやすい形に変貌を遂げ、新しい音楽スタイルのプロトタイプが出来上がったのでした。では、ディープ・パープルを70年代型ハードロックの誕生と位置づけた場合、一般的に元祖“ハードロックの雄”とされるレッド・ツェッペリンはどのようなポジショニングになるのでしょうか、少し考えてみようと思います。

ツェッペリンはその前身がヤードバーズであり、カバーを含めブルースの影響を強く受けているのは当然のことでありましたが、それと同時にギタリストでバンド結成の主導権を握っていたジミー・ペイジの特異な音楽嗜好が大きく反映されたバンドでもあったのです。ジミー・ペイジの特異な音楽嗜好とは、英国トラッド・フォークに代表される民族音楽的嗜好であり、彼はその音楽性を新バンドで反映させつつメンバーであるボーカルのロバート・プラントやドラムのジョン・ボーナムの個性をもっとも上手に生かす方法として、ジェフ・ベック・グループのハードロック的手法を取り入れツェッペリンをスタートさせたのでした。デビュー作「レッド・ツェッペリン」でも、A2「ゴナ・リーブ・ユー」やA4「幻惑されて」などトラッド・フォークをロック的に展開した曲が際立っており、ハードロックというよりはむしろ“ハードフォーク”と言ったほうがシックリくるのではないかと思えるほどなのです。

60年代にトラッド・フォークに根ざしたアコースティック・サウンドで独自の呪術的な音楽を展開していたマーク・ボラン率いるティラノサウルス・レックスが、70年代初頭にギターをエレクトリックに持ち替えてTレックスの名の下「ゲット・イット・オン」の大ヒットを皮切りとしたグラムロックの一大ムーブメントを起こしています。デビュー作~「ツェッペリンⅡ」を通じて、ツェッペリンがディープ・パープルによる70年代型ハードロックの成立に与えた影響の大きさは誰もが認めるところではありますが、Tレックスのケースも同じトラッドフォークを基調としたペイジ=ツェッペリンの“ハード化戦略”に影響をされてものと考えることができるのです。すなわち、ツェッペリンは単にハードロック誕生の起爆剤的役割を果たしだけでなく、70年代初頭においてすでに広く70年代ブリティッシュロックの流れに大きな影響を及ぼす存在であったと言えるのです。

ツェッペリンというと、A1「胸いっぱいの愛を」やB1「ハートブレイカー」に代表されるハードロック・アルバム「レッド・ツェッペリンⅡ」や、「Ⅳ」におけるロックの教典的扱いを受けたA1「ブラック・ドック」やA2「ロックンロール」の印象が強く、どうも“ブリティュシュ・ハードロック・バンド”として通り一遍の扱われ方をされがちです。しかしながら、音楽的リーダーであったジミー・ペイジの嗜好を考えるならむしろアルバム「Ⅲ」におけるトラッドフォーク的アプローチこそが彼らのオリジナリティの真骨頂であり、これが「Ⅳ」におけるロック史に燦然と輝く歴史的名曲「天国への階段」の誕生にもつながっているのです(この曲すらも単なるハードロックバンドの“箸休め的”ロックバラードのハシリ的に受け取られるといった誤った認識もいまだに多く存在してます)。アルバム「聖なる館」では「デジャー・メイク・ハー」でスカリズムを取り入れたり、アルバム「フィジカル・グラフィティ」の「カシミール」では遠く旧英国領であるインドに思いを馳せた名曲を作り上げるなど、その後もハードロックの枠組だけではくくりきれない独自性を確実に提示し続けたのです。

こうしてレッド・ツェッペリンは、ハードな一面を輝かせつつもトラッド・フォークに端を発した独自の音楽ミクスチュアを実現し、単なる「ハードロックの雄」という表現では語り尽くせない偉大なる「ツェッペリン伝説」を展開したのです。日本では、一時期人気を二分したツェッペリンとパープルですが、単なるハードロックで終わったかそうでなかったかかが、その後の評価を大きく左右したように思います。

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