日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方9」~アフター・ザ・ビートルズ9

2010-05-02 | 洋楽
アフター・ザ・ビートルズの最後は、いつも後回しにされがちなリンゴです。彼が“大いなる凡才”であったが故にビートルズは天才集団特有のとっつきにくさを免れ得たのかもしれません。ソロとしての彼の活動もまた、天才の知り合いを周囲に多く持つ“大いなる凡才”ぶりを大いに発揮しています。

彼がビートルズ時代に本名リチャード・スターキー単独クレジットで書いた曲はわずかに2曲。「ホワイト・アルバム」収録の「ドント・パス・ミー・バイ」と「アビーロード」の「オクトパス・ガーデン」です。クレジットは単独ですが、映画「レット・イット・ビー」でのジョージのアシストで「オクトパス…」が作られていくシーンからも分かるように、他のメンバーに助けられて実際には“共作”的作品であったようです。ソロ・アーティストとしてのリンゴの全盛期はまさしくそのままの路線が花開いたものでした。そんな代表作が73年リリースの「リンゴ」。このアルバムにはビートルズの3人が別々ではありながら、全員曲提供と演奏で参加するというまんま「オクトパス・ガーデン」的アルバムな訳です。

この路線はビートルズ・ファンにとって、ビートルズ解散後もっとも安心して聞ける「ワン・オブ・ザ・ビートルズ」アルバムであったのか、最高位全米№2、ジョージと共作のシングル「想い出のフォトグラフ」は全米№1に輝きます。この成功に気を良くした彼は、70年代はこの後しばらくこの路線を続けていきます。74年の「グッドナイト・ウィーン」(タイトル・トラックはジョンの作)、76年の「リンゴズ・ロートグラビア」(再び3人が曲を提供)はそこそこのヒットを記録しますが、ビートルズ再結成の現実味が薄くなっていくに比例するようにヒットの規模は徐々に縮小。そして、77年の「ウイングス」78年の「バッド・ボーイ」では、局面打開をはかったのか、“オクトパス路線”からややカバー路線に方向転換しつつもほとんど注目をされなくなっていくのです。まぁこの注目されなくなった時代こそ、リンゴの「アフター・ザ・ビートルズ」のスタートであると言っていいでいょう。ビートルズの手助けなしにはヒットしないというのも情けない話ですが、「ワン・オブ・ザ・ビートルズ」でなければ売れないというのがアーティストとしてのリンゴの現実であった訳です。

実はリンゴは74年の「リンゴ」以前にも2枚のソロ・アルバムをリリースしてます。70年の「センチメンタル・ジャーニー」と「ボークー・オブ・ブルース」がそれです。前者はリンゴによるスタンダード・ナンバーのカバー集。後者は彼の趣味趣味音楽であるカントリー・ナンバーをその道の腕利きたちを集めて本場ナッシュビルで制作されたものでした。この2作には、当然のことながら驚くほどビートルズ臭はありません。その意味では、この2作こそ完璧な「アフター・ザ・ビートルズ」な訳で、ビートルズ解散後ビートルズの幻影に苛やまされることもなく、実に自然体でソロ活動をスタートさせているのです。この2作が売れなかった彼の場合、その後再び「ホワイト・アルバム」~「アビーロード」期を彷彿とさせる「ワン・オブ・ザ・ビートルズ」路線に戻るのは、あくまで商業的戦略の観点からだったのでしょう。他の3人とは解散後の流れが一人だけ異なっていたのです。“ビートルズの幻影”に悩まされぬ“大いなる凡人”リンゴだったのです。

★リンゴ・スター「ワン・オブ・ザ・ビートルズ」路線作品
「リンゴ」(ビートルズの3人が作、演奏で参加)
「グッドナイト・ウィーン」(“失われた週末”期のジョンが全面的にフォロー)
「リンゴズ・ロートグラビア」(ビートルズの3人が楽曲提供)

★リンゴ・スター「アフター・ザ・ビートルズ」路線作品
「センチメンタル・ジャーニー」(スタンダード・ナンバーのカバー集)
「ボークー・オブ・ブルース」(カントリー・ナンバーのカバー集)
「ウイングス」(カバーも含めやや独自色を強めた77年作品)
「バッド・ボーイ」(明らかな路線転換を示す78年のカバー集)