日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方10」~アフター・ザ・ビートルズ10

2010-05-09 | 洋楽
ここまでビートルズ解散後の4人の70年代を縦割りで紹介してきましたが、最後に4人がそろって活躍をしていた時期を横串にしして「アフター・ザ・ビートルズ」を〆たいと思います。

70年代においてそんな横串が可能なのは、70~71年と73~75年にかけてのふたつの時期です。ある意味この二つの時期が、世間の評価はともかくソロとしての4人が足並みをそろえて活躍した“黄金時代”であったとも言えるでしょう。前者はビートルズ解散直後、果たして4人がソロとしてどのような作品を世に問うのか、世間はそんな彼らに大注目の時代でした。後者は4人のソロ活動が安定し新たなビートルズの音を求めて“ビートルズ再結成”が囁かれ、世の音楽ファンがその実現を切望した時期でした。いずれの時期も、4人のアルバムは好セールスを記録したのでした。

★70~71年ビートルズ関連作品
①「マッカートニー/ポール&リンダ・マッカートニー」(70年)
②「センチメンタル・ジャーニー/リンゴ・スター」(70年)
③「ジョンの魂/ジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンド」(70年)
④「オール・シングス・マスト・パス/ジョージ・ハリスン」(70年)
⑤「カントリー・アルバム/リンゴ・スター」(70年)
⑥「ラム/ポール&リンダ・マッカートニー」(71年)
⑦「イマジン/ジョン・レノン」(71年)

70年に関して言えば、まずリンゴの②⑤はほとんどお遊びでしたから論外として・・・(②はジョージ・マーチンのプロデュースであり、ホワイトアルバムの「グッド・ナイト」の路線で1枚作ったと言えなくもありませんが・・・)。今では確固たる評価を得ているポールの①やジョンの③も、当時はビートルズのラスト作品「アビーロード」の素晴らしい録音技術の影響もあってか「生録りっぽく音が薄いモノはダメ」的な傾向が強く、世間からは全く好意的に受け止められていませんでした。ジョージの④が絶賛を持って受け入れられたのは、「アビーロード」収録の名曲「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」の流れに沿った方向性が「音楽的成長」として受け止められるとともに、フィル・スペクターのプロデュースにより期待された音の厚い“ビートルズらしい作品”が出た、ということであったと思われるのです。ホーム・レコーディングの域を脱しない「マッカートニー」はともかくとしても、あの名作「ジョンの魂」が受けなかった(「マザー」の絶叫は気持ち悪いとさえ言われていたのです)というのは本当に今の時代の感性では理解しがたいところでもあります。

71年ポールの⑥はなおも①の延長路線で酷評を浴びます(今では最高傑作との呼び声すらあるのですが、やはり音の薄さは当時は致命傷だったようです)。一方のジョンの⑦は、ジョージの成功を目の当たりにして、フィル・スペクターにプロデュースを依頼したのは見え見えの売れセン狙いだったと思われます。ジョン曰くの「なーにオブラートにくるめば売れるのさ」という「オブラート」は、“ウォール・オブ・サウンド”だったと言う訳です。


★73~75年ビートルズ関連作品
⑧「レッドローズ・スピードウェイ/ポール・マッカートニー&ウイングス」(73年シングル「マイ・ラブ」)
⑨「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド/ジョージ・ハリスン」(73年シングル「ギブ・ミー・ラブ」)
⑩「リンゴ/リンゴ・スター」(73年シングル「フォトグラフ」「ユア・シックスティーン」「オー・マイ・マイ」)
⑪「マインド・ゲームス/ジョン・レノン」(73年)
⑫「バンド・オン・ザ・ラン/ポール・マッカートニー&ウイングス」(73年シングル「ジェット」)
⑬「ダーク・ホース/ジョージ・ハリスン」(74年シングル「ディン・ドン」)
⑭「グッドナイト・ウィーン/リンゴ・スター」(74年シングル「オンリー・ユー」「ノー・ノー・ソング」)
⑮「心の橋愛の壁/ジョン・レノン」(74年シングル「真夜中を突っ走れ」「夢の夢」)
⑯「ヴィーナス&マース/ウイングス」(75年シングル「あの娘におせっかい」「ワインカラーの少女」)
⑰「ロックンロール/ジョン・レノン」(75年シングル「スタンド・バイ・ミー」)
⑱「ジョージ・ハリスン帝国/ジョージ・ハリスン」(75年シングル「二人はアイ・ラブ・ユー」「ギターは泣いている」)

4人がそれぞれ2枚以上のアルバムをリリースしていて、いやぁ並べてみると壮観ですね。どれもこれも善し悪しは別問題として、売れに売れたアルバムばかりです。“ビートルズ再結成ブーム”の火付け役は⑩でしょう。リンゴのアルバムに他の3人が曲を提供してレコーディングまで参加していると。⑭は完璧な“2匹目のドジョウ”です。ポールとジョンですが、自身のバンド、ウイングスを結成後ツアーも開始し、いよいよフル・スロットル状態に移行といった感じで絶好調のポールに対して、プライベートの不調が作品にも影を落としやや集中力を欠いているジョンといった感じです。ジョージはと言えば、④の大ヒットのプレッシャーからか、ようやく3年弱のブランクを経て出された⑨、傷心の全米ツアー後の⑬、そしてアップル・レーベル最後の作品となった⑱と、徐々に影が薄くなっていく様がなんとも切ないです(中身はともかく⑱「ジョージ・ハリスン帝国」では、レーベル面のアップル・マークがこれが最後ということで「芯」だけになったと言うのは(=写真)、ジョージ一流のジョークのセンスとして感心させられました)。

こうして見てみると、ポールとリンゴ、ジョンとジョージの創作バイオリズムが近いように思えます。ジョンとジョージはすでにこの世になく、というもの単なる偶然ではないような・・・。76年以降はジョンがハウスハズバンド生活に入り音楽活動を休止したため、横串はありません。最後にもうひとつ、押さえておくべき流れがあります。それはビートルズ自身の編集盤のリリースです。73年にビートルズ初のベスト盤「赤盤」「青盤」が、76年に「ロックンロール・ミュージック」が出されています。ともに「ビートルズ再結成」待望論が盛り上がっていた時代故の出来事なのです。この「ビートルズ再結成」待望論はジョンの活動休止とともに下火になり、80年ジョンの死とともに永遠に封印されたのでした。