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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

今再び硫黄島の平和利用を強く望む

2012-06-25 | その他あれこれ
先週の土曜日に、高校の同級生で写真家の田中正文氏の個展「女子学徒たちのウムイ」に足を運び、氏と三十数年ぶりの再会を果たしました。氏は大戦で海に沈んだ戦艦や戦闘機などを自ら潜水して撮影する「鎮魂の写真家」といて知られる写真家です。今回の「女子学徒たちのウムイ」は、今や80歳を越す高齢になった沖縄戦で駆り出された女子学徒の方々から語られる戦争の真実を語り継ぐことの重要さを、ファインダーを通して撮った彼女たちの姿と氏のキャプションによって訴えかけるという、とても意義深い個展でありました。

私が足を運んだ理由も、長年ぶりに旧友に会いたいと言う想いと共に、まさしく“勝者なき戦争”の愚かさを語り継ぐことに力を注ぐ友と手を携えて志を共有したいと思えばこそでもありました。くしくも土曜日は沖縄慰霊の日。すなわち、第二次大戦において日本国土である沖縄がアメリカ軍の上陸攻撃によって多くの犠牲者を出し占領を余儀なくされた、決して忘れてはならない日であります。前日に田中氏の個展の話を友人から聞き、偶然にもちょうどこの日に足を運ぶことになり氏と再会して話ができたことは、なんとも不思議な縁を感じさせられもしたものです。

私はこれまで仕事の中で、クライアント先の企業のトップヒアリングの際に、起業のきっかけや経営理念形成に直結するような経営者(主には先代経営者)自身の戦争体験談をうかがう機会が多数ありました。亡き戦友たちの無念の思いをしょって起業された経営者や、戦場で尊い命を見殺しにしてきた後ろめたさへの償いの想いで日々社会貢献に取り組む経営者など、それらは決まって重苦しい話でした。生々しくもおぞましい戦場の真実を聞くにつけ、微力ながらもこの聞いた話を決して無駄にしてはならない、「戦争に勝者なし」を訴え広く世界の人々に呼び掛けることを機会あるごとにしていきたい、そんな思いから当ブログでも毎年終戦記念日と相前後する時期を選んでこのテーマを取り上げているのです。

私が聞いた体験談の中でも特に忘れ難いのが、硫黄島の悲劇。一人またひとり戦友が息絶えていく中、負傷を負い食料もなく何週間にも及んだ洞窟内での地獄のような日々の体験談を私は決して忘れません。そしてこの島がいまだに自衛隊の基地として占拠され、遺骨の収集作業はおろか地雷の撤去作業すら進んでいないという事実に、日本政府に対して強い怒りを感じてもいます。なぜこんな愚行が、終戦後70年近くが経とうとしている今も許されているのかです。それは、もともと住民の絶対数が少なく異を唱える声が世論を形成しにくいという環境を巧みに利用し、一切の民間人の許可なき上陸を禁止した自衛隊の基地利用を貫き通しているからなのです。

硫黄島は近年クリント・イーストウッド指揮の下、日米双方の立場からまったく異なる2本の映画が作られたように、日米両国の兵士が共に多くの犠牲者を出しながら死力を尽くして戦ったという、まさに「戦争に勝者なし」を象徴する場所でもあるのです。そんな人類史に残る愚行を語り継いでいく必要性を感じればこそ、今の硫黄島の利用法は間違っている、一刻も早く自衛隊は撤退し国をあげて平和モニュメント化をすすめ、戦争の愚かさを世界に向けて訴えるべきであると思うのです。

先日の田中氏との語らいを通じ、彼が自己のミッションに突き動かされ行動する姿を眼前にして、私もまた同種のミッションを感じる同志として(同志などというとやけに思想的な匂いがてしまいますが)、戦争の悲劇を繰り返させないためにその愚かさを語り継いでいくための力になっていきたいと、改めて心に強く誓った次第です。

※「女子学徒たちのウムイ」は、東京国際フォーラム内相田みつを美術館で7月1日まで開催されています(入場無料)。

週刊誌・政治家・テレビ、“やってはいけない”三つ巴の居心地悪さ

2012-06-20 | その他あれこれ
先週政治家小沢一郎氏の週刊文春記事に端を発したスキャンダルは、そのスキャンダルそのものは当然のことその後もおかしな展開に推移し、あらゆる部分に納得のしどころがない稀に見る居心地の悪さを我々に提供しているように感じています。

まずはその発端である文春の反小沢ネガティブキャンペーン、今更ですが卑劣の極みであると思います(文春WEBページは、http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1442)。野田政権が、増税に向けて自民、公明と三党合意に一気に走り出した段階で計ったように世に出たスキャンダル。誰が見ても、小沢失脚と三党合意路線進行を狙ったものであることは明らかで、しかもネタがおよそお下劣な「下半身スキャンダル」ですから、ちょうど小説「運命の人」のモデルとなった昭和47年に起きた西山事件を思わせる、今の時代としてはあまりに古臭いしかも卑劣なやり方であり、小沢氏の肩をもつ訳ではありませんが本当に気分が悪いものでありました。

週刊文春はご存じ“名門”文芸春秋社の週刊誌ですが、先の山崎豊子著の西山事件をモデルにした「運命の人」も同社の看板月刊誌「文芸春秋」に連載され世に出された作品であり、まさしく“運命”を感じるところではあります。西山事件は、沖縄返還協定での佐藤内閣と米国間での密約の存在を暴いた毎日新聞西山太吉記者が、機密情報入手に関する国家公務員法違反で起訴され、当初世論は“国民の知る権利”を主張する西山氏寄りであったものが、情報入手元である女性事務韓とのセックス・スキャンダルが週刊新潮に暴かれたことにより一転、世論の集中砲火を浴びて“極悪人”に仕立て上げられたという事件。要するに昭和の古来より日本では、世論を動かすには女性蔑視を感じさせるセックス・スキャンダルをばらまくいことで世の女性陣を味方につけるという手法が効果的であると、されてきた訳です。まぁ実に古臭いやり口。

週刊文春の小沢夫人の夫の支持者に宛て手紙の内容を掲載するなんぞも、女性事務官の手記を週刊誌が掲載した西山事件とイメージがダブります。西山事件のセックス・スキャンダルにまだ救いがあるのは、スキャンダルと焦点の情報漏えいが直接かかわっていた点。しかし今回の小沢氏の件は、別に何の事件にも絡んでいるお話ではなく、余りに唐突にこのタイミングで政治家とはいえ一個人のプライバシーを暴いてイメージダウンをはかろうなどというもので、やり口の卑劣さも含め出版メディアが政局運営に加担した出すぎた“やってはいけない”であります。週刊文春ならびに文芸春秋社は、出版メディアとして大いに責めを負うべきであると考えます。

次に、気になるのは毎日新聞18日朝刊紙面掲載の山田記者のこの一件を扱った記事(http://mainichi.jp/opinion/news/20120618ddm002070050000c.html 毎日新聞は、先の西山事件における西山記者の所属新聞社。またまた“運命”を感じます)。「文春編集部は、発売寸前、東京のほぼすべての民放テレビの取材に応じていた。ところが、オンエアされない。調べてみると、小沢系の国会議員からプレッシャーがかかったらしいことが分かった。「取り上げるなら、もうオタクの番組には出ませんよ」と」。これが事実なら、これまたゆゆしき“やってはいけない”です。ここで責めを負うべきは小沢一郎氏。仮に文春のスキャンダルが事実でないのなら、正々堂々と出るところに出て言えばいい。何か言えない事情があるのならダンマリを通すこともいけないとは言いません。しかし小沢系の国会議員がプレッシャーをかけたと書かれたなら、直接小沢氏が関与していなかったとしても、当事者としてまた派閥の長として真偽のほども含め明確に弁明するべきであろうと思います。もちろん、小沢氏または秘書が配下の議員に言わせたのだとしたら言語道断。それこそ“やってはいけない”の極みでありますが。

さらにさらに、確かに今回のテレビの対応のおかしさは言わずもがなでしょう。テレビで週刊誌発の“下半身ネタ”をそのままとりあげることが望ましいとは申しませんが、少なくともテレビ番組が連日好んで取り上げている増税議論の行方に大きく影響を与えかねないスキャンダルであり、文春の報道姿勢の是非を含めてしっかりとフォローすべき問題ではあるはずです。それが一切ダンマリとは。小沢氏ルートからのプレッシャーであるか否かはともかく、何がしかの好ましからざる“政治的配慮”はあってのことでしょう。いろいろな場面で信頼性を欠く場面も多いテレビメディアではありますが、報道機関としてあるまじきだらしなさであり、誰かの利益誘導に平気で加担する己のなさはメディアとして万死に値する“やってはいけない”であるでしょう(言い添えておきますと、毎日新聞山田記者の記事の書き様も、どこか意図的なものを感じさせる新聞らしからぬ実に週刊誌的な居心地の悪さを感じるところでもあります)。

このように小沢氏の週刊文春スキャンダルがどこか得体のしれない極度の居心地の悪さを感じさせる背景には、週刊誌・政治家・テレビ、三つ巴(毎日新聞も加えるなら四竦み)の“やってはいけない”が絡み合った、稀に見る気持ちの悪さに起因するものであるのかと、つくづく感じる次第です。

BLOGOSの“やってはいけない”?

2012-05-09 | その他あれこれ
一昨日夜のエントリー「告発!アマゾンの“やってはいけない”~隠ぺいはダメよ!」(http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/3b9e8e8caef5167ff045b81edbd2c695)に関して続きです。

当ブログはBLOGOS(http://blogos.com/)との転載契約により、日々のエントリーがBLOGOSサイトでも読めるようになっており、お陰様で多くのネット利用者により拙原稿は読まれております。もちろん、個人的なエントリーや何らかの理由で転載がふさわしくないとBLOGOSサイドが判断したものは転載が見合わされることがあります。実は一昨日の上記エントリーがまさしくその転載見合わせ原稿となっています。理由は分かりません。あくまで「BLOGOS独自の判断」と言うことなのでしょう。

何が転載にふさわしくなかったのか考えました。私が一昨日のエントリーを拙ブログにアップさせたのが夜9時過ぎのことです。内容としては、通販サイトアマゾンで発生した「100倍請求」について私の友人から事件発生の報をもらい、アマゾンおよびアメックスという「当事者」が、事故発生確認からある程度の時間が経過していながら全く事故発生に関するアナウンスをしてないことを知り、利用者への注意喚起と通販サイト運営者の責任における“やってはいけない”を指摘すべきと思いこのエントリーを書いたのです。

この時点で、ネットニュースサイトでもこの件は未報道。後から分かったことですが、この時点までにツイッターでは一部で話題になっており、私のエントリーアップ数十分前に大手メディアでは唯一NHKが事故発生の事実のみ簡単に伝えたようでした。一方私のニュースソースは実際に「100倍請求」を受けた事故の当事者で、私の情報入手はさかのぼること8時間ほど前の一昨日昼過ぎでした。新聞・テレビ・ネットいずれでも本件の報道が見当たらなかったため、彼のメール文面を転載し事の経緯と「当事者」の対応の良し悪しを紹介しつつ、その時点までに入手できた情報をもとに論評を加えたのでした。「当事者」が口をつぐんで詳しいことを明らかにしていなかったその段階では、かなりニュースバリューのある情報を提供できたと思い書きあげました。

翌朝、日経新聞が本件を報道、朝9時過ぎあたりからネットニュースサイトにも“追っかけ記事”が出始めてきました。私のエントリーアップが夜9時でしたので、通常ですとこの時間の原稿のBLOGOSへの転載は翌朝9時以降。私が知る限り、前日夜間アップのエントリーはスタッフが8時台ぐらいからチェック・準備を進めるのか、通常9~10時台に転載アップされているようです。私の原稿はその時点では一般に知られていない事実を述べた“被害者”生の声も盛り込まれており、「当事者」からの正式説明がなされていない9~10時台に転載アップされれば、その時点ではそこそこ有益な情報としてニュースバリューは十分あると考えてもおりました。

しかし私の一昨日エントリーは、結局BLOGOSにはアップされることはありませんでした。原因は不明。前日もしくは当日早朝段階で、「当事者」からの事故に関する説明が利用者に対してされていたのなら「ニュースバリューなし」とされることも分かるのですが、まだ「当事者」から何ら説明がなされていなかった9時の段階で「ニュースバリューなし」と判断されたと考えるのは、どうにも腑に落ちなかったのです。しかし、個人的に転載オミットの理由と思える事実がほどなく判明しました。

私は朝9~10時代に何度かBLOGSのトップページにアクセスし、都度自己の原稿が転載されたか否かを確認しました。するとその何度目かに「アッ!」と思わず声を出してあることに気がついたのでした。BLOGSのトップページになんと、アメックスのゴールドカードの広告がデカデカと掲載されていたのです。アメックスは今回の事件におけるまさしく一方の「当事者」。納得です。要するにBLOGOSにとって大口の広告クライアントが、公式に発表していないマイナス報道に関するエントリーを、クライアントの利益擁護目的およびその広告を掲載している広告媒体としての自己防衛目的から、意図的に関連エントリーをオミットしたということではないのかと。よくよく見れば、ネットネタ大歓迎のハズのBLOGOS上でこの「100倍請求」関連のエントリーがひとつも見当たらないのも違和感があり、これが単なる偶然とは思えません。

もちろんBLOGOSから正式コメントをいただいているわけではないので、現時点では一応“推測”の域を出ない、とはしておきますが、「黒」は濃厚に思えています。もしそうだとしても、報道機関ではなく中立を義務付けられているわけでもないBLOGOSが、自社の広告クライアント擁護の目的で特定のエントリーの掲載を排除することは法的にも倫理的にも問題はないのかもしれません。しかし、どうも納得がいきません。BLOGOSは、「規制されない自由な意見」「制約の少ないネットだから出せる情報」という看板を自らが掲げ、既得権益に縛られたテレビ・新聞などの既成メディアに対するアンチテーゼとして、ネット言論の純粋性や有効性を広く認知させることを旨としていたのではないのでしょうか。

私の“推測”が正しいのなら、この特定エントリー排除はまさしくBLOGOSの“やってはいけない”であると思います。編集部として、本件に関してご意見・コメントをいただけるのであれば、ぜひともコメント欄に寄せていただきたく思います。「BLOGOSの、広告クライアント擁護でのエントリーオミットは許せる?」という議論を立ち上げていただくのもいいかもしれません。

※余談ですが、友人のところにアマゾンから本事故に関する事情説明のメールが届いたのは、昨日午後2時前とのこと。遅すぎます。一昨日のエントリーにも書きましたが、アマゾンは本当に顧客のことを思ったサービス提供など、これっぽちも考えていないと改めて思わされました。

忌野清志郎の予言~命日に思う

2012-05-02 | その他あれこれ
本日5月2日はロックシンガー忌野清志郎氏の命日です。

早いもので、あれから3年。昨年の東日本大震災による福島第一原発の事故により、今またクローズアップされている彼の反原発ソング。改めてその歌詞を読んでみるに、24年も前に原発における地震リスクに触れ、放射能漏れの懸念を指摘して、政府や電力会社が言い続けてきた「日本の原発は安全です」を「根拠がない」と一刀両断しています。この、福島第一の事故の予言ともとれる、あるいは当時における未来への警鐘とも言えるあまりに鋭い指摘には、心底驚かされます。

いまだに避難民の帰宅のメドすら立たない福島を尻目に、確固たる安全性が確認されることなく再稼働ありきで動き出している大飯原発。またこの問題と裏で連動し、やはり安全確認を前提としない柏崎刈羽原発の再稼働を盛り込んだ再建計画を提出した東電。政府は今、愚かな過ちを繰り返しかねない、国民生活にとって大変危険な選択をしようとしています。関係者は今一度、清志郎氏の命日に氏の歌を聞き、歌詞をよく読んで、正しい選択をして欲しいと切に願うものです。

★「サマータイム・ブルース」動画★
http://protestsongs.michikusa.jp/japanese/summertime.htm

◆Summer Time Bluse(E. Cochran & J. Capehart 日本語歌詞:忌野清志郎)
(「プロテストソング・トピカルソングの傑作集」http://protestsongs.michikusa.jp/japanese/summertime.htm
より転載)

暑い夏がそこまで来てる
みんなが海へくり出していく
人気のない所で泳いだら
原子力発電所が建っていた
さっぱりわかんねえ、何のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い (悪かったな、何だよ)
それでもテレビは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ、根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルース

(原発という言い方も改めましょう。
何でも縮めるのは日本人の悪い癖です
正確に原子力発電所と呼ぼうではありませんか。
心配は要りません)

あくせく稼いで税金取られ
たまのバカンス田舎へ行けば
37個も建っている
原子力発電所がまだ増える
知らねえ内に漏れていた
あきれたもんだなサマータイム・ブルース

電力は余ってる、
要らねえ、もう要らねえ

電力は余ってる、
要らねえ、欲しくない

原子力は要らねえ、
危ねえ、欲しくない

要らねえ、要らねえ、欲しくない
要らねえ、要らねえ、

電力は余っているよ
要らねえ、危ねえ

橋下市長が主張する「政治と行政の違い」こそ、政治は問われるべき

2012-04-10 | その他あれこれ
BLOGOS掲載の橋下大阪市長と池田信夫氏の激論を、大変興味深く読ませていただいています。両者のやり取りの中で、私が先週書き留めた「立法府・行政府」について思うところに関するポイントを、橋下市長がとても分かりやすい表現で述べているので、抜粋・転載させていただきます。

「やれることはやるのは行政だ。目の前のカネが足りないからとりあえず消費税アップと言うのは、国のかたち論、地方分権論、道州制論の本質論を踏まえないいかにも行政的な思考。これは行政マンのやること。政治家のやることではない。国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める。その上で、喫緊の課題への対応策からとりあえずこうさせて欲しいと説明をする。これが政治だ。(BLOGOS掲載4月9日の橋下市長ツイートより抜粋)」

たまたま私は先週、「レバ刺禁止令」の話にからめて政治と行政の役割の違いの話を書かせていただきました。レバ刺を食べる習慣のない私がその禁止令に噛みついたわけでは決してなく、原発再稼働問題にも共通する問題として、行政的判断に流されたまま国民生活に係るような物事を決めるべきではなく、あるべき「政治的判断」をしっかりと働かせるのが政治の役割であるという趣旨で、立法府と行政府の役割の違いを再認識する重要性を述べたつもりでありました(レバ刺と政治の役割を結びつける違和感が一部読み手にはあったのか、レバ刺禁止令そのものをけしからんと言っているかに受け取られたお門違いなコメントまで頂戴して、正直面食らいました)。

レバ刺の問題は誤解を生むのでこれ以上触れませんが、前エントリーも含め私が今の政治に欠けているものとして常々申し上げているところは、橋下氏が語るこの部分であります。例えば被災地復興や原発再稼働の問題について政治は、「政治的判断」の意味を正しく理解した判断をしっかりと行うべきであると思うのです。すなわち、被災地復興の具体策を検討する前に、原発再稼働の是非を戦わせるその前に、必要な「政治的判断」とはいかなるもので「行政的判断」とどう区分けされるのかというしっかりした定義付けをおこなった上で、政権はあらゆる国民生活に係る重要事項に関して確固たる「政治的判断」を提示するべきであるということです。

「政治的判断」が立脚すべきは、橋下氏が述べる「国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める」ことであり、これはまさにビジョンの提示に他なりません。企業経営においても自社の将来をどうしたいのかを、トップが社員に対して提示することは、企業を正しい成長過程に導く必須条件であります。今の政権にはこの部分が全く抜け落ちてしまっている。震災復興の問題に関してなら、復興後の日本をどうしたいのか、原発再稼働の問題に関してなら日本のエネルギー政策の将来像をどうしたいのか、そういった各国民生活に係るビジョンを明確に提示した上で下す判断こそが「政治的判断」であり、それこそがまた国民を引っ張っていく政治の在り様であるはずです。

今の政治は、ビジョンが抜け落ちた行政の延長に他ならず、このことがまさしく「官僚の言いなり」と言われる所以でもあるのです。橋下市長の個々のビジョンが正しいが否かの問題は別として、氏のコメントは政治と行政の違いを全国民が強く認識し政治に何を求めるべきかを十分理解した上で厳しい目を向けるべきであるということを強く訴えるものとして、とても意義深いものであると感じた次第です。

官僚の応対マナーが“中国並み”では悲しすぎないか

2012-04-03 | その他あれこれ
日曜日の夜のこと、例によってTVつけっぱの我が家のリビングで雑誌やら書籍やらを広げつつ拾い読みをしていると、経済産業省が力を入れている海外で評価される日本文化育成「クールジャパン」戦略の話をワイドショー的な番組が取り上ているのが耳に入りました(後で調べたところ「Mrサンデー」という番組だったようです)。

特に目新しさも感じることなく聞き流しつつ雑誌を読んでいたのですが、途中やけに耳障りなやり取りがあり、雑誌記事を読む目が止まりました。それは、聞き手の滝川クリステルさんの質問に「ウン、ウン」とアゴで応える経産省の女性官僚と思しき人物。私の耳が妙に違和感を覚えたのは、この「ウン、ウン」の受け答えです。別にあげ足取りでもなんでもないのですが、普通テレビの取材で聞き手から質問を投げられた人物は、カメラが回っている状況であればなおのこと、聞き手が誰であろうがそれは視聴者に対する態度として対応をとるのではないかと思うのです。それが「ウンウン」?

なんかちょっと、すごく、やっぱり…嫌な感じですよね。普通は「ハイ、ハイ」じゃないのかと。一部の方からは、「つまらん言いがかりだ」と言われるかもしれませんが、私の耳は確実に違和感を覚え「官僚の上から目線って自然に出てしまうのだなぁ」とつくづく思わされたわけです。この女性官僚さんが、例えば上司から同じように質問をされても質問をなぞるあいの手は「ウン、ウン」なのでしょうか。それはないですよね。部下から質問されたなら、きっと「ウン、ウン」なのでしょうけど。だからやっぱり上から目線。聞き手の滝川クリステルさんに対してというよりも、テレビの向こうの視聴者に対して、完全に「上」意識丸出しなのだなぁと、悲しくなりました。

しかもその後、この「クールジャパン」特集の流れの中で、いま中国でウケている“日本的接客サービス”の話が出てきて、お客様を敬って自身が「下」にへりくだった対応が「上から目線対応が当たり前な中国の接客」にあって、「とても心地よい」と大変人気を集めていると取り上げられていたのです。つまりは、日本の官僚の応対は中国の応対マナー並みってことかと。どうもテレビ局は、わざとその対比を際立たせようと番組の流れを仕組んだのではないかと思えたのです(決して、考えすぎじゃないと思いますが…)。

私自身、10数年前に金融マンとして大蔵省廻りをしたことがありますが、まぁその当時の大蔵官僚の皆さんの対応や口のきき方の横柄なことと言ったら、それはそれはびっくりで、やはり悲しい思いをしたものです。完ぺきなまでの上から目線の対応に、「人間、天下国家を動かしているという自負を持つと、こんなにもエラくなっちゃうのかなぁ」と不思議な気がしたものですが、「なんだ全然変わっていないのか」とこのテレビを見てあの時の悲しい気持ちを思い出し、またまた悲しくなってしまったのです。

テレビの収録取材ですから広報担当だって同席しているハズなのに、こんな受け答えが平気で収録されてしまうというのは、この女性官僚一人の問題でないことは明らかです(私も昔広報担当を経験していますが、マズイ受け答えがあればやり取りをを止めます)。必要性が叫ばれて久しい官僚改革ですが、こういうことろから始めないことには結局表面的なものに終始してしまうのだと思います。「クールジャパン」よりも前に早急クールにご対応をご検討いただきたいのは、官僚の皆さまの国民に対する姿勢の方ではないのかなと、思った次第です。

話題の霊感師ネタから無理無理学んでみた

2012-03-06 | その他あれこれ
件の女芸人の話、相変わらずテレビは大騒ぎで週末の週刊フラッシュバック的番組もこの話題で持ち切りのようでした。以前も書いたように取るに足らない芸能ネタですが、相変わらずの電波の垂れ流し状態なので、これだけ続くということはせめてブログネタとして屁の役ぐらいに立つものはあるんじゃないかと、週末のテレビを眺めながら無理無理考えてみました。

本件よくよく聞けば、よくある有名人“寄生虫”のタカリ話のようで。この手の“寄生虫”にまとわりつかれやすいのは、浮き沈みの激しいいわゆる“水商売”の方々、特に芸能人なんていうのはその最たる存在なわけです。特に、急激に頂点を極めた人ほど不安ストレスが大きく“寄生”されやすいという特長もありそうで、ある程度ブレイクして売れた後に近寄ってきた“専門家”としての言葉に“転落”の恐怖を煽られて重用し、結果骨の髄までしゃぶりつくされてしまう、というのが昔からよく聞くこの手の話の常套な流れなのです。

実はこの手の似た話は芸能界ばかりではなくて、実業界にもゴロゴロしています。ターゲットになりやすいのは企業経営者、それも一般的に自身で事業を立ち上げあるいは大きくした“成功者”と言われるオーナー系の経営者の方々です。考えてみれば、確固たる基盤を持つ大企業以外の企業経営者は「今日は天国、明日は地獄」を地で行く知られざる過酷な“水商売”環境にあるわけで、芸能人と同じく成功をすればしただけ転落への不安も大きいのです。そんなところにスキを見つけては食いつく“寄生虫”はたくさん存在するのです。

例えば、順調に行っていた会社がキャッシュフロー経営を省みなかったがために突如資金繰りに行き詰まる「黒字倒産」の危機、そこを助ける経理・会計の専門家。降って湧いた訴訟問題に突如わき起こる予期せぬビジネスモデル崩壊の危機、そこを助ける法律の専門家等々。もちろん皆が皆悪い人たちばかりではありませんが、中には一難去って状況が安定したなら専門知識を駆使して再度不安をあおり商売ネタを広げていく、資格の看板をぶら下げて恐怖を煽り頼らせるように仕向けながらうまみがなくなるまで甘い汁を吸い尽くしては企業を渡り歩く、そんな“寄生虫”を数多く見てきました。

女芸人と霊感師のケースも、企業経営者と専門家のケースも、落ち着いて考えれば一対一の人間関係のバランスが一方的な依存に移行することが生み出した不幸であるわけです。件の霊感師や私が目にした悪い企業専門家のような明らかな悪意に基づかなくとも、ウイン=ウインの関係が時間経過とともに緊張感を失い一方的なウイン=ルーズの形に変形してしまうことも間々あるわけで、お互いに注意が必要ということになるのでしょう。

というわけで、特に士業の皆さんはじめ我々企業のお手伝いをする立場にある人間は、今回のネタを自戒の念を持って受け止め自己の仕事を省みる機会としなくてはいけないということかなと。さらによくよく考えれば友達関係も夫婦も同じ、人間関係は一方的に依存しすぎない適度な緊張感を保つことが、お互いを不幸にしない秘訣であると教えられるかなと。話題の下世話な芸能ネタから無理無理学べるのはこの程度のようで。お粗末さまでした。

“女芸人報道”に思う、低俗なテレビ番組にリビングを占拠される恐ろしさ

2012-02-23 | その他あれこれ
どうでもいいっちゃ、どうでもいいことですが、テレビのワイドショー番組でちょっと目に余る事態が…。

私は毎朝我が家のリビングで、新聞各紙に目を通したり雑誌を斜め読みしたり、その間テレビは民放のワイド番組がかかっているわけで、面白そうなネタが耳に入るとそっちを見るという感じで情報チェックをしています。そんな生活の中、ここ数日気になってはいたのですが、とある女芸人の家賃滞納がどうとか霊感師の催眠作用がどうとか、まぁ東電やら原発問題やらと同レベルかあるいはそれ以上の力の入れようで連日流されているのが何の意味があるのかと、ややイラっとしてきておりました。ワイドショーですから、芸能ネタを流してはいかんとは申しませんが、たいした内容でもなさそうな(と私には思えます)ものを大事件が起きているかのような扱いにはどう考えてもおかしいと思ってはいました。

今日に至っていよいよこのエントリーに書こうと思ったのは、遂に本日「ここが以前Nさん(女芸人)と霊感師が一緒に来ていたカラオケボックスの部屋です」という意味不明なロケ取材まで登場するに至り、これはさすがにイカンでしょうと思った訳です。何なんですかね、いくら話題の渦中の人たち動向を取り上げるとしても、以前訪れていたカラオケボックスの誰もいない部屋を映してなんの意味があるのでしょうか。この現場で殺人事件でも起きたかのような取り上げ方には、ホント呆れさせられました(こんなものを我が家のリビングで流していること自体知られたくないほど恥ずかしさを覚えるレベルでした)。

「公共の電波を使ってけしからん!」というありきたりの物言いで非難する価値すら感じさせない、それほどにまでひどい番組作りだなと思わずにいられません。「文句があるなら見なきゃいい」に尽きるのかもしれませんが、仮にそうであっても制作側は少し考えて欲しいと思います。ワイドショーと言うものの低俗さは今に始まったことではありませんが、こんなひどいネタと一緒に政治ネタも社会事件ネタも扱われたのでは、いくらワイドショーでも番組内の他の報道ネタに対する信頼感や出演者の信頼感、ひいてはそのテレビ局自体の信頼感が著しく損なわれることになると思いますけど、どうなんでしょうか。

ねつ造やらヤラセやらで過去に悪名を積み重ねてきたテレビのワイドショーですが、そのたびごとに非難のポイントとなってきた「電波の公共性」という問題に関して、制作サイドは結局その本質を分かっていないということになるのだと思います。「電波の公共性」という問題は、ねつ造やヤラセをやらなきゃなんでもいいってわけじゃないのは、まともな大人が少し考えれば分かることだと思うのです。そこまでテレビ番組を作る人間が堕落しているのかと思うと、テレビがどこの家庭でもリビングを占拠し少なからず国民の思想形成に影響を及ぼしている我が国の現状には、そこはかとない恐ろしさを感じずにはいられません。

“松井世代”と“ダルビッシュ世代”、育った時代でこんなに違う?

2012-01-27 | その他あれこれ
札幌ドームでファンを集めて開催されたダルビッシュ投手の大リーグ移籍会見は、本当にカッコよかったですね。感動的ですらありました。ファンを大切に思い、ファンの気持ちを考えて語る。「今ここにあるのもファンの皆さんのおかげ」「またいつかここに帰ってこれたら嬉しい」等の発言は、ややもすれば人気におぼれ人気に胡坐をかき、ファンあってのプロスポーツであるという原点を忘れてしまっている球団や選手も間々見受けられる昨今、若いのに本当に素晴らしいプロスポーツ選手であると感心させられました。

ダルビッシュ投手は「大リーグでの活躍を見てみたい」という周囲の声にも押され、自らは憧れではなく戦う場所を求めて挑む大リーグ。その上で、「できればまたいずれ地元のファンの皆さんの前に帰って来たい」とファン歓喜の言葉を残しての渡米です。どうしても比較をしたくなってしまうのが松井秀喜選手。以前から「もう日本ではプレーをすることはありません」と言ってはばからない彼。ピークを過ぎた今、「ヤンキース以外は考えられな」かったハズが、拾ってくれるチームを転々として年々年俸を下げながらDHで雇われる形でも大リーグ残留の道を探し続け、なおも「日本に戻ってプレーはしない」と大リーグでの現役全うにこだわる。多くのファンが日本球界復帰を望もうとも、まさに自己のプライド重視の生き様の様に映ります。これほどまでに明確なダルビッシュ投手との考え方の違いの根底には、単なる個人差以上に育った世代間の違いがあるように思えてなりません。

松井選手が74年生まれで今年38歳。ダルビッシュ有投手は86年生まれの今年26歳。ちょうどひと回り年齢が違います。この12年の生まれの違いの背景に何があるのでしょう。少し勝手な推測をしてみます。バブル経済ピークは平成元年、89年前後と言われています。戦後高度成長を続けてきた日本は、一時期オイルショックやドル=円為替の変動相場移行後の為替変動などによる景気の波こそあったものの、基本的には地価の右肩上がり神話に支えられた“土地本位制”の下での経済成長は膨張を続け、遂に天井を打ったのがこの時でした。以降はバブル崩壊後と名づけられ、合間合間にミニバブルは織り込みながらも地価は下落を続け“土地本位制”崩壊による低成長時代に突入した訳です。その後は90年代には金融危機が、00年代にはリーマンショックが襲いかかるという、気の抜けない経済情勢が人々の生活感にも大きな影響を及ぼしてきたと思います。一般的に人格形成期における世相背景の違いは、世代ごとの物の考え方の違いとして現れると言います。松井選手、ダルビッシュ投手それぞれが育った時代背景と心理的影響を順にみてみましょう。

松井選手の場合、バブルピーク時は中~高生。この時代には物心もついて、自分で稼いでこそなかったものの世間や家庭の雰囲気から、十分バブル景気を感じ取ってもいたのではないでしょうか。この環境下で育った現30代後半世代は、社会人デビュー当時に「昭和入社世代とは明らかに違う要注意世代」と言われました。高度成長期とは異なるバブル景気時に育った彼らは、「自分さえ頑張れば何でもできる」が根付いたのでしょうか「上下関係に縛られない」「社会性に乏しく自己中」などと評され、当時私ら昭和組の管理者は「世代の違いを十分理解し、“飲みニケーション”を押し付けるようなやり方はダメ」などと組織内教育上の注意事項として人事セクションからお達しを受けたものです。松井選手はまさにその時代の新人社員なのです。なるほど、彼が今も大リーグにこだわり続ける理由は、こんな世代的背景もあるのかもしれないと妙に納得させられます。

一方のダルビッシュ投手。物心がつく頃は、既にバブル崩壊後の金融危機の真っただ中。誰も予想もしなかった都市銀行、大手証券の倒産と不景気風が吹き荒れた暗い世間のムードは、少なからずその人格形成期の心理状況に大きく影響を及ぼしたハズです。バブル崩壊後の慢性的な長期的沈滞ムードの中で「無駄は悪」を叩き込まれた今の20代は、自己中ではなく、どちらかと言えば仲間や地域を重視しつつ無駄を排して苦しい状況を協力姿勢で抜け出す等、仲間を大切にする傾向が強い。すなわち「形」よりも「実」を取り、家も事務所もあらゆるものを「シェア」という協力体制で乗り切る考え方も抵抗もなく受け入れられる世代であります。そんな彼らには一例をあげるなら、「海外旅行には関心ない」「見栄で車は持たない」「可能なら買わずに貸し借りで済ます」などの特徴があります。ダルビッシュ選手の「大リーグ行きは、憧れではなく実力試し」という渡米動機や、自分を育ててくれた地元を何より大切にする気持ちは、そんな今様の若者気質に端を発した正直なものであるのだろうなと思わされます。不況が育てた若者気質の代表例と言えるのかもしれません。

こうしてみてくると、松井選手とダルビッシュ投手の言動には大きく異なる世代特有の考え方がその行動の裏側に脈々と生きているように思えておもしろいです。そのどちらもが、また松井世代のひとまわり上にあたる我々世代が二十代、三十代だった頃とも全然違ったりもするわけで、人格形成期の世の中の動向が影響を与えるその後の世代感覚の違いというのは確かにあるのでしょう。次代を背負う若手世代の代表として会見で垣間見たダルビッシュ選手の堅実で優しい物の考え方を受け取るなら、閉塞感満載の今の時代に一筋の光明を見る思いです。

松井秀喜よ、日本に戻って復興“希望の星”となれ!

2012-01-23 | その他あれこれ
ダルビッシュ投手のレンジャース入団が決まって、スポーツメディアの報道はダル一色の様相です。年俸は6年契約で約46億円。単純計算なら1年あたり8億円弱(実際には1年目5億円台からスタートする複雑な契約のようです)といいますから、円高のあおりで円ベースでは過去最高には届かなかったものの、ドルベースでは松坂投手を抜いて日本人初年度契約の最高額を更新したそうです。個人的には、筋金入りの日ハムファンでもありもろ手を挙げて応援という気持ちでありますし、恐らくは並みいる大リーガーたちを前にバッタバッタと三振の山を築きあげてくれると確信してもいます。がんばれ、ダルビッシュ!

ところで時を同じくして、ここ一週間ばかりのこの派手な扱いのダルビッシュに比べていささか地味に報じられているのが、日本製の大砲ゴジラ松井クンの去就であります。2年前にヤンキースを出されエンゼルスに。さらに昨年エンゼルスを追われるも日本球界に戻ることなく私の反対を押し切って(って別に本人に声は届いていないでしょうが)アスレチックス入りをした松井クン。あの時も、また一年でお払い箱になってDM屋として転々とすることになりはしないか、と日本の至宝の行く末を心配をして日本球界への復帰を強く訴えました。果たして、予想違わず今年もFAを通告され(FAって言い方はいいですが、要は「お好きにどうぞ」の自由契約)、三年連続して行き先の決まらない宙ぶらりんなオフシーズンを過ごしているのです。

ON以来と言われた松井クンほどの選手がこんな状況に甘んじていて本当にいいのかと、さびしい気持ちにさせられもします。日本に逃げ帰るような形になることが本人のプライドから許せないのでしょうか。いいじゃないですか、古くは日ハムの新庄クンや阪神城島捕手だって、日本球界に戻って大いに日本の野球ファンを沸かせてくれています。聞けば今年どこの球団と再契約をしてもらうことになっても、大リーグでの年俸はせいぜい100万ドル程度とか。日本円で1億円いかないんですね。それってさびしくないですか。DH稼業も悪くはないですが、大リーガーってあちらでは攻・走・守の三拍子そろってこそ一流選手として評価される風潮が根強くあり、DHで中途半端な大リーグ生活を続け食いつなぐような状態が松井クン程の大選手にいかほどの価値があるのでしょう。これ以上大リーグに居残っても、年々自身の価値を下げることにしかならないのではないかなと…。

昨年も、「お払い箱→移籍」を繰り返すみじめな姿を晒す前に、日本球界が生んだ至宝として最後の何年かは日本に戻ってあなたを育ててくれた日本の野球ファンに“恩返し”をしたらどうかと提案しました。今年は昨年同様の理由に加えて、松井クンにできることとして東日本大震災からの復興支援というさらに大きなテーマがあるように思っています。もちろん、大リーグで全盛期のような活躍が期待できるのなら海の向こうから復興を支援をプレーで伝えることも可能でしょう。でも38歳になるDH稼業の今の松井クンに、それを期待しろというのは酷というものです。国内に戻って各地を回りながら、大リーグから戻って不屈の精神でがんばる松井選手のプレーを目の前で見せ感動を与えることで、大きな復興支援ができるのではないかと思うのです。

新生横浜ベスターズの新監督に就任した中畑氏も、「松井よ日本に戻ってうちでやらないか」とラブコールを送っていると聞きます。日本に戻る意思を表明するなら、多くの球団が契約交渉に乗り出すことは間違いないでしょう。それは松井クンが、今でも変わらず日本球界の至宝だからなのです。和製大リーガーたちもそろそろ世代代わりの時を迎えています。ダルビッシュ投手の大リーグ移籍はその大きな象徴でもあるのでしょう。まだ遅くありません。交流戦がある今、国内球団ならどこでプレーをしても全国を回ることができます。一日も早く国内復帰を宣言して、ぜひとも4月には日本でプレーをし日本を元気づけて欲しいと願っています。松井クン、4月に日本で会いましょう!日本の野球ファンは待っています。