石原慎太郎都知事が知事職を辞任して新党を結成すると発表し、世間は大騒ぎになっています。石原氏の実績評価や今回の行動に関する是非については、専門の政治評論家の方々のエントリに譲るとして、ここでは石原新党の立ち上げを機に総選挙に向けた政党の“あるべき”を、組織戦略の観点から少し考えてみたいと思います。
昨日の石原氏の会見で氏は現状の国の問題点として、「財務諸表がない」と論じていました。企業であるならば必要不可欠なB/SやP/Lといった財務諸表を国もつくり、専門家の手によって分析させることで管理会計の手法を積極的に導入して財政の健全化をめざすべきであるとの意なのでしょう。この点は確かに言い得ているとは思うのですが、政治が企業運営に学ぶべきを石原氏が論ずるのであるなら、日本の政党には財務諸表以前に取り組むべき根本的問題があると思っています。
それは「ビジョン」の明確化です。「ビジョン」とは何か。一般的に企業運営において、一番上位に来るものが「ミッション=理念」であり、それを受けて「○年後までに、どうなっていたいか」をより具体的に明示する「ビジョン=めざす姿」があってはじめて、当面の方向感が見え社員が道に迷うことなく組織についていくことができるのです。付け加えるなら、「ビジョン」を受けて現状と「めざす姿」のギャップを埋めるためのものが「戦略」であり、その「戦略」をシナリオ的に成立させるためのものが個別の「戦術」であるわけなのです。
現状の政党にあるものは「理念」と「戦術」のみであり、どこに行こうとしているのかを明示すべき「ビジョン」がないのです。言ってみれば中身のない空洞化した“政党もどき”の選挙互助会なのです。民主党が失敗した理由もまさにそこ。「ビジョン」なき状況下で国民にとって喰いつきのいいおいしいことばかりを並べた「戦術」の寄せ集めであるマニフェストをいきなり作成したがために、マニフェストはいとも簡単に破棄され“嘘つき”呼ばわりをされるに至ったのです。「ビジョン」のない企業が報酬アップを餌に社員を引きとめていたものの、報酬アップができないことが分かり社員は軒並み退社して企業が存続の窮地に陥った、そんな感じです。
過去の歴史を振り返るなら、政治家としての良し悪しや個別政策の結果論はともかく、例えば池田勇人首相は「所得倍増計画」を、田中角栄元首相は「日本列島改造論」をぶち上げ明確な「ビジョン」を国民に提示することで政治に対する絶対的な信頼感を得てきたのです(それによって、付随する多々の問題発生はありましたが)。自民党の一党支配状況の崩壊からでしょうか、我が国の政治は国民に耳障りの良いことを並べ立てれば政権に近づけるという意識から、小手先の「戦術」提示ばかりに気を奪われるようになり、目的地はどこで到着予定はいつなのかという“時刻表” が全く見えないミステリー・ツアー状態になっているのです。
昨日の石原氏も含めて、“第三局”と言われる政党の皆さんから出てくるものは、細々(こまごま)とした「戦術」ばかり。何年後までに日本をどうしたいのか、国民生活をどのように改善してくれるのか、「ビジョン」は全くと言っていいほど見えてこないのです。これではダメな中小企業の経営と同じです。何かと言えば、「政策のすり合わせ次第では、連携、連合もありうる」という言い方をされていますが、連携・連合に一番必要なものは個別戦術のすり合わせではなく、「ビジョン」の一致でなくてはならないはずなのです。
石原氏が「最後のご奉公」と言って身を投げうつ覚悟で国政改革に乗り出すと言うのなら、現行政府の「財務」「外行」「憲法」の問題点ばかりをいたずらにあげつらって終わりでは、都政を投げ出したとの批判は免れ得ないでしょう。“選挙互助会”的政党こそ真っ先に批判の対象とすべきであり、国民に民主党政権を信頼してだまされた轍を再び踏ませぬためにも、まずなすべきは時間軸と共に自らの「ビジョン=めざす姿」を “第三局”の代表として率先して明示し、各党のビジョン的共通点・相違点を国民に対して詳らかにすることです。そしてそれがあって初めて、連携・連合の正当性の判断を有権者に委ねることができるのです。
組織において「ビジョン」の存在が社員に迷いを生じさせることなく導くのと同様、各党の「ビジョン」の明確化のより支持者を迷いなくその政党に追随させるものでなくてはいけないはずなのです。石原新党の登場により政局はより一層混迷を深め、有権者は何を判断基準として来るべき投票に臨むべきなのかがさらに見えにくくなることでしょう。石原氏は首都のリーダと言う職を投げうってまで一層の混乱に身を投じる以上、新たに立ち上げる新党で政党の“あるべき”を国民にしっかりと提示して欲しいと思います。
昨日の石原氏の会見で氏は現状の国の問題点として、「財務諸表がない」と論じていました。企業であるならば必要不可欠なB/SやP/Lといった財務諸表を国もつくり、専門家の手によって分析させることで管理会計の手法を積極的に導入して財政の健全化をめざすべきであるとの意なのでしょう。この点は確かに言い得ているとは思うのですが、政治が企業運営に学ぶべきを石原氏が論ずるのであるなら、日本の政党には財務諸表以前に取り組むべき根本的問題があると思っています。
それは「ビジョン」の明確化です。「ビジョン」とは何か。一般的に企業運営において、一番上位に来るものが「ミッション=理念」であり、それを受けて「○年後までに、どうなっていたいか」をより具体的に明示する「ビジョン=めざす姿」があってはじめて、当面の方向感が見え社員が道に迷うことなく組織についていくことができるのです。付け加えるなら、「ビジョン」を受けて現状と「めざす姿」のギャップを埋めるためのものが「戦略」であり、その「戦略」をシナリオ的に成立させるためのものが個別の「戦術」であるわけなのです。
現状の政党にあるものは「理念」と「戦術」のみであり、どこに行こうとしているのかを明示すべき「ビジョン」がないのです。言ってみれば中身のない空洞化した“政党もどき”の選挙互助会なのです。民主党が失敗した理由もまさにそこ。「ビジョン」なき状況下で国民にとって喰いつきのいいおいしいことばかりを並べた「戦術」の寄せ集めであるマニフェストをいきなり作成したがために、マニフェストはいとも簡単に破棄され“嘘つき”呼ばわりをされるに至ったのです。「ビジョン」のない企業が報酬アップを餌に社員を引きとめていたものの、報酬アップができないことが分かり社員は軒並み退社して企業が存続の窮地に陥った、そんな感じです。
過去の歴史を振り返るなら、政治家としての良し悪しや個別政策の結果論はともかく、例えば池田勇人首相は「所得倍増計画」を、田中角栄元首相は「日本列島改造論」をぶち上げ明確な「ビジョン」を国民に提示することで政治に対する絶対的な信頼感を得てきたのです(それによって、付随する多々の問題発生はありましたが)。自民党の一党支配状況の崩壊からでしょうか、我が国の政治は国民に耳障りの良いことを並べ立てれば政権に近づけるという意識から、小手先の「戦術」提示ばかりに気を奪われるようになり、目的地はどこで到着予定はいつなのかという“時刻表” が全く見えないミステリー・ツアー状態になっているのです。
昨日の石原氏も含めて、“第三局”と言われる政党の皆さんから出てくるものは、細々(こまごま)とした「戦術」ばかり。何年後までに日本をどうしたいのか、国民生活をどのように改善してくれるのか、「ビジョン」は全くと言っていいほど見えてこないのです。これではダメな中小企業の経営と同じです。何かと言えば、「政策のすり合わせ次第では、連携、連合もありうる」という言い方をされていますが、連携・連合に一番必要なものは個別戦術のすり合わせではなく、「ビジョン」の一致でなくてはならないはずなのです。
石原氏が「最後のご奉公」と言って身を投げうつ覚悟で国政改革に乗り出すと言うのなら、現行政府の「財務」「外行」「憲法」の問題点ばかりをいたずらにあげつらって終わりでは、都政を投げ出したとの批判は免れ得ないでしょう。“選挙互助会”的政党こそ真っ先に批判の対象とすべきであり、国民に民主党政権を信頼してだまされた轍を再び踏ませぬためにも、まずなすべきは時間軸と共に自らの「ビジョン=めざす姿」を “第三局”の代表として率先して明示し、各党のビジョン的共通点・相違点を国民に対して詳らかにすることです。そしてそれがあって初めて、連携・連合の正当性の判断を有権者に委ねることができるのです。
組織において「ビジョン」の存在が社員に迷いを生じさせることなく導くのと同様、各党の「ビジョン」の明確化のより支持者を迷いなくその政党に追随させるものでなくてはいけないはずなのです。石原新党の登場により政局はより一層混迷を深め、有権者は何を判断基準として来るべき投票に臨むべきなのかがさらに見えにくくなることでしょう。石原氏は首都のリーダと言う職を投げうってまで一層の混乱に身を投じる以上、新たに立ち上げる新党で政党の“あるべき”を国民にしっかりと提示して欲しいと思います。