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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

石原新党に望むたった一つのこと

2012-10-26 | ニュース雑感
石原慎太郎都知事が知事職を辞任して新党を結成すると発表し、世間は大騒ぎになっています。石原氏の実績評価や今回の行動に関する是非については、専門の政治評論家の方々のエントリに譲るとして、ここでは石原新党の立ち上げを機に総選挙に向けた政党の“あるべき”を、組織戦略の観点から少し考えてみたいと思います。

昨日の石原氏の会見で氏は現状の国の問題点として、「財務諸表がない」と論じていました。企業であるならば必要不可欠なB/SやP/Lといった財務諸表を国もつくり、専門家の手によって分析させることで管理会計の手法を積極的に導入して財政の健全化をめざすべきであるとの意なのでしょう。この点は確かに言い得ているとは思うのですが、政治が企業運営に学ぶべきを石原氏が論ずるのであるなら、日本の政党には財務諸表以前に取り組むべき根本的問題があると思っています。

それは「ビジョン」の明確化です。「ビジョン」とは何か。一般的に企業運営において、一番上位に来るものが「ミッション=理念」であり、それを受けて「○年後までに、どうなっていたいか」をより具体的に明示する「ビジョン=めざす姿」があってはじめて、当面の方向感が見え社員が道に迷うことなく組織についていくことができるのです。付け加えるなら、「ビジョン」を受けて現状と「めざす姿」のギャップを埋めるためのものが「戦略」であり、その「戦略」をシナリオ的に成立させるためのものが個別の「戦術」であるわけなのです。

現状の政党にあるものは「理念」と「戦術」のみであり、どこに行こうとしているのかを明示すべき「ビジョン」がないのです。言ってみれば中身のない空洞化した“政党もどき”の選挙互助会なのです。民主党が失敗した理由もまさにそこ。「ビジョン」なき状況下で国民にとって喰いつきのいいおいしいことばかりを並べた「戦術」の寄せ集めであるマニフェストをいきなり作成したがために、マニフェストはいとも簡単に破棄され“嘘つき”呼ばわりをされるに至ったのです。「ビジョン」のない企業が報酬アップを餌に社員を引きとめていたものの、報酬アップができないことが分かり社員は軒並み退社して企業が存続の窮地に陥った、そんな感じです。

過去の歴史を振り返るなら、政治家としての良し悪しや個別政策の結果論はともかく、例えば池田勇人首相は「所得倍増計画」を、田中角栄元首相は「日本列島改造論」をぶち上げ明確な「ビジョン」を国民に提示することで政治に対する絶対的な信頼感を得てきたのです(それによって、付随する多々の問題発生はありましたが)。自民党の一党支配状況の崩壊からでしょうか、我が国の政治は国民に耳障りの良いことを並べ立てれば政権に近づけるという意識から、小手先の「戦術」提示ばかりに気を奪われるようになり、目的地はどこで到着予定はいつなのかという“時刻表” が全く見えないミステリー・ツアー状態になっているのです。

昨日の石原氏も含めて、“第三局”と言われる政党の皆さんから出てくるものは、細々(こまごま)とした「戦術」ばかり。何年後までに日本をどうしたいのか、国民生活をどのように改善してくれるのか、「ビジョン」は全くと言っていいほど見えてこないのです。これではダメな中小企業の経営と同じです。何かと言えば、「政策のすり合わせ次第では、連携、連合もありうる」という言い方をされていますが、連携・連合に一番必要なものは個別戦術のすり合わせではなく、「ビジョン」の一致でなくてはならないはずなのです。

石原氏が「最後のご奉公」と言って身を投げうつ覚悟で国政改革に乗り出すと言うのなら、現行政府の「財務」「外行」「憲法」の問題点ばかりをいたずらにあげつらって終わりでは、都政を投げ出したとの批判は免れ得ないでしょう。“選挙互助会”的政党こそ真っ先に批判の対象とすべきであり、国民に民主党政権を信頼してだまされた轍を再び踏ませぬためにも、まずなすべきは時間軸と共に自らの「ビジョン=めざす姿」を “第三局”の代表として率先して明示し、各党のビジョン的共通点・相違点を国民に対して詳らかにすることです。そしてそれがあって初めて、連携・連合の正当性の判断を有権者に委ねることができるのです。

組織において「ビジョン」の存在が社員に迷いを生じさせることなく導くのと同様、各党の「ビジョン」の明確化のより支持者を迷いなくその政党に追随させるものでなくてはいけないはずなのです。石原新党の登場により政局はより一層混迷を深め、有権者は何を判断基準として来るべき投票に臨むべきなのかがさらに見えにくくなることでしょう。石原氏は首都のリーダと言う職を投げうってまで一層の混乱に身を投じる以上、新たに立ち上げる新党で政党の“あるべき”を国民にしっかりと提示して欲しいと思います。

大臣と政府の「嘘」を見過ごしてはならない!

2012-10-24 | ニュース雑感
外国人からの献金、暴力団との交際が明るみに出た田中慶秋法務大臣が、“体調不良”を理由に大臣職を辞任しました。

これまでの経緯から氏が言うところの“体調不良”が、でっち上げの言い訳にすぎないことは誰の目にも明らかです。国民のほぼ100%の人が、辞任理由は「嘘」だと思っているでしょう。しかも、こんな白々しい「嘘」に関して、“ぶらさがり”をやらない首相の代りに記者団の質問に答えた藤村官房長官は、「体調の問題だ。いかんともし難い」と平気で言い放つ始末。

大臣の「嘘」も官房長官のシラキリも、首相の任命責任回避を目的とした組織ぐるみであることはあることは明らかなわけですが、国民に対してこんなにも平気で「嘘」をつき通すというのは許されざることです。大臣と言う“偉い人”が「嘘をついたり」「シラをきったり」することが許されるたのでは、子供の教育上よろしくないのはもとより、大げさに言うなら法治国家としてこの上なく由々しき問題であると思うからです。

メディア各社は、今回の大臣と政府の「嘘」を徹底的に糾弾すべきなのではないでしょうか。慣れっこになってはいけません。「あー、よくある政治家の嘘ね。まぁ“実質更迭”ということで書いておくからいいよ」で済ませていては、日本の三流政治改革などその根本の所から一歩たりとも前に進むはずがないのです。

「嘘とメディアの追求」の話というと、つい先日の山中伸弥教授ノーベル賞受賞に関連して、森口尚史氏なる人物が人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った世界初の治療をしたと主張した問題も、同じように国民の誰もが「嘘」だと確信をした問題でした。この時メディア各社は、森口氏を執拗に責め立てそこまでやる必要あるのかと思われるほど、何度も何度も会見やらインタビューやらを繰り返し「いい加減「嘘でした」と言え」と迫っていました。

それをやるなら、むしろ今回なんじゃないのでしょうか。田中慶秋氏は「嘘」の辞任理由を書面で公表しただけで辞任の会見すら開かない、首相の女房役である官房長官は「嘘」を真実であるかの如き前提で国民に対してシラをきる。首相の任命責任うんぬん以前の問題として、大臣が「嘘」をつきそれをよしとする政府を見過ごしてはなりません。メディアは国民の代弁者として断固たる態度で首相を引っ張り出し、これら一連の政府ぐるみの「嘘」に徹底的に糾弾すべきじゃないのでしょうか。

政府の“嘘つき体質”を目の当たりにして、「仕方ない」で通り過ぎるなんてあり得ません。これは大臣の違法献金問題や黒い交際問題なんかよりもはるかに重大な問題であると思うのです。私は怒っています。

鳩山元首相の外交顧問就任は、民主政権の“脱対米従属”宣言?

2012-10-18 | ニュース雑感
民主党の鳩山由紀夫元首相が外交担当の党最高顧問に復帰したとか。これに対して自民党の高村正彦副総裁が、「日本には1億人以上も人がいるので、鳩山氏みたいな人がいることはそれほど驚くことではないが、政権与党の外交担当最高顧問に復帰するのは大いに驚くべきことだ」と皮肉ったと言います。さらに付け加えて、「これは野田佳彦首相が外交を国益と考えていないか、国益そのものが大事ではないと考えているのか、そのどちらかだ」と批判したと。

鳩山元首相と言えば沖縄の普天間基地辺野古移転問題で、「最低でも県外」の発言に端を発して国内世論を迷走させ、あげくにオバマ米大統領に対しての「Trust Me」発言でできもしない空手形を切り日米の信頼関係を考えうる最悪の状態にまで陥れた張本人です。その人物を同じ政権下で外交担当最高顧問に座らせるという事は、野田首相は鳩山外交に対する肯定姿勢を示したことになるわけです。

とすれば、「近いうちに」と約した総選挙に向かうにあたり何か現政権の目玉実績はないかと、鳩山外交が期せずして引き起こした「脱対米従属」を苦し紛れに民主党政権の“成果”として掲げ、高らかに宣言しておこうというものなのではないのかと。考えてみれば、鳩山外交による結果的「脱対米従属」路線化が、韓国李大統領の竹島上陸とそれに刺激された香港漁船の尖閣上陸に端を発した領有権問題再燃化を巡る日中関係の緊張を呼び込んだわけで、その後の外交はフルボッコ状態。「脱対米従属」を党の旗頭として掲げる覚悟でもないなら、今あえて鳩山氏を外交担当最高顧問に就任させる理由が見当たらないのです。

米国の後ろ盾なき状況下のあのタイミングで国有化の暴挙に出た“外交音痴”の象徴と言える尖閣問題への対応も、「脱対米従属」を内外に宣言する“旗揚げ興行”だったと考えるなら辻褄が合います。ならば、冒頭の自民党高村副総裁の発言を明らかな「対米従属」肯定発言と捉え、沖縄で米兵の婦女暴行事件も発生したこのタイミングで、野田首相が「国益を損なうのはむしろそちらの考えの方だ!」と反論して「脱対米従属」を明確に打ち出すに違いないとか、さらには当面の日米関係維持を重視し肯定姿勢を見せているTPP加盟やオスプレイ受け入れについても、一転TPP離脱、オスプレイ拒否への転身をはかるなんてことまであり得るのじゃないかとか、妄想させられもするのです。

どう見ても、国民をバカにしているとしか思えない今回の鳩山氏の外交担当最高顧問就任。「脱対米従属」を本気で次期衆院選の争点にする気でもない限り、いたずらに支持率を落とすばかりの納得性ゼロの施策であるとしか私には思えませんが、果たして首相の真意は…。

日本維新の会の戦略的誤りを示唆する「ランチェスターの法則」

2012-10-15 | ニュース雑感
日本維新の会の代表を務める橋下大阪市長が、13日に急きょ上京し石原慎太郎東京都知事と会談をもったそうです。以下記事の抜粋です。

 日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は13日、東京都内のホテルで石原慎太郎東京都知事と極秘会談した。次期衆院選での連携などについて協議したとみられる。石原氏は会談後、記者団に対し「いろいろな話をした」と語った。
 橋下氏は、報道各社の世論調査での維新の支持率低下などを受け、いったんは決別したみんなの党も含む第三極勢力と連携する方針を示している。石原氏との連携で、既成政党への対抗勢力をさらに拡大する狙いがあるとみられる。石原氏も自身を党首とする新党結成について「(近く出る健康診断の)結果をみて判断する」と、あらためて意欲を示しており、連携話が一気に進む可能性もある。(「Sponichi Annex」http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/10/14/kiji/K20121014004326400.html
より抜粋)

この記事の見出し「橋下氏、石原都知事にすがった!?支持率低下に焦り」というのは、けっこう言い得ているように思います。個人的な見解としては、拙ブログ11日のエントリ(「日本維新の会は桶狭間に学ぶべき?」http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/4ab88e74776e515e3e07dbabae83a29c)でも書きましたが、昨今の支持率の思わぬ低下をみて長老の力を借りるのではなく、今一度自身の選挙戦略の見直しをする方が先なのではないかと思っています。前回のエントリで触れた「ランチェスター戦略」の法則と選挙戦のかかわりについて、もう少し詳しく知りたいと言うお問い合わせもいただいておりますので、そのあたりから再度現状の維新の会の戦略的問題点を掘り下げてみます。

ランチェスターの法則は、第一次世界大戦時に英国のエンジニアであったFWランチェスター氏が発見した戦いの法則で、第二次大戦下ではアメリカによって利用され、近年ではこれがビジネス戦略に応用が可能であるとの考えから企業戦略向けにカスタマイズされて、競争戦略のバイブル的に扱われてもいます。政治における選挙選はまさに勢力争いを繰り広げる戦いそのものであり、企業戦略以上にランチェスターの法則が有効に機能する環境にあると考えられます。

ランチェスターの基本戦略において、何よりもまず心得なくていけないものに次の法則があります。
★「戦闘力=武器効率×兵力数」★
すなわち、軍の強さは「武器効力=武器の性能」を兵の数で乗じたものであり、正面勝負をしたならば、その数値の大小で戦の勝敗は決してしまう、というものです。実例をあげれば、戦国時代の織田信長が長篠の合戦で当時無敵と言われた武田騎馬軍を一蹴した背景には、鉄砲と言う最新鋭の“飛び道具”を使用することで「武器効力」を一気に高めたことが最大の勝因とされている、そんなところが分かりやすいでしょう。

選挙に置き換えるなら、「武器効力」は候補者一人ひとりの選挙戦を戦う力(選挙区における人脈等地盤、財力、政治経験、本人と所属政党の風評や人気等)であり、「兵力」は立候補者の数でしょう。すなわち2つの政党が同じ数の候補者を立てたなら、どちらが多くの議席数を確保できるかという勝負は候補者人ひとりが持っている「武器効力」の平均値の大小で勝負が決まると言うわけです。

となれば、現状全国で350~400という数の候補者(=「兵力」)を立てようと目論んでいる日本維新の会ですが、「武器効率」はどうなのかという点が、選挙戦と言う競争戦略を吟味する上で大変重要になってくる訳なのです。維新の会の「武器効率」はと言えば、既存政党に比べてまず候補者の基盤は弱い、個々の財力は「?」ですが既存政党の派閥から軍資金をもらっている候補者との比較では苦しい感じはします。政治経験から言えば素人が大半を占める候補者軍団が上位にあるとは言い難いでしょう。素人が大半の候補者本人の知名度や人気もまた同じ。要は、維新の会の「武器効率」は様々な要素を補って余りある政党の人気が支えきれるなら、「戦闘力」で他政党を凌駕し数でライバルに正面からぶつかっていく「強者の戦略」が通用するという“人気頼み”の状況なのです。

その肝心の政党としての人気ですが、各メディアの最新の世論調査では政党支持率2~4%台とここにきて凋落の一途と言う感じでして、その原因は「大量の素人軍団+既存政党の落ちこぼれ」という次第に明らかになってきた候補者の質の問題にも起因しているという厳然たる事実もあるわけです。ならばとばかりに、この期に及んでの動きが冒頭の他者連合。石原新党、立ちあがれ日本、みんなの党・・・これらとの連合が果たして人気回復による「武器効率」を凋落人気をV字回復させることにつながるのでしょうか。答えはノーです。橋下氏個人の人気に支えられてきたこれまでの維新の会人気を見るに、橋下氏の人気回復なくして党の人気回復はないとみるのがセオリーなのです。

とするならば、他者連合を組んででも数の論理で正面突破をはかろうという現状の「強者の戦略」は、今後選挙戦までに劇的な人気回復が見込まれない限りは、戦時の日本軍と変わらぬ無謀な戦いに足を踏み入れることになるのではないかと思われるのです。今なら間に合う日本維新の会の戦略的方向転換は、「ランチェスター弱者の戦略」以外にありません。まず自党の強み分析に基づいて選挙区を絞り、候補者を絞って、「局地戦」「一点集中戦」で来るべき選挙戦は確実に勝てる戦いに徹するべきなのです。大量候補者の無駄死にによるイメージダウンは、今後の政党の運営にも大きな影響を及ぼすことでしょう。戦略面で「強者の戦略」に転じれるか否かは、今回の選挙で当選した所属議員一人ひとりの活躍による「武器効率」の向上がはかれた後のその次の選挙戦で判断すべきことであると、歴史が実証した戦いの法則は教えてくれているのです。

ノーベル賞受賞に3つの意義

2012-10-09 | ニュース雑感
iPS細胞による人工卵子生成の話を拙ブログで取り上げた直後に、京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞作製でノーベル生理学・医学賞を受賞したとの報が入ってまいりました。この受賞日本人としてとても喜ばしいことであるのは間違いありませんが、それと同時に3つの点で大きな意義があると受け止めています。

新聞等報道でも触れられていることですが、今回の受賞の大きな特徴として、iPS細胞は製作には成功しているものの、現時点では実際の医療に具体的な形では役立てられてはいないということがあります。この点は、これまで理論の発明やものの発見そのものを受賞対象とせず実社会での貢献を受賞基準としてきた感が強いノーベル賞にあっては、勇気ある英断であろうと思えます。もちろん見方を変えれば、医療の世界において役立つことが確実であると誰の目にも明らかなほど、iPSは大変な偉業であるとも言えるのかもしれません。いずれにせよ、この早期の栄誉授与の英断にこそ大きな意義があると思っています。

まず第一に、実用化に向けた重要なタイミングでノーベル賞と言う誰もがその価値を認める国際的に大きな賞を受賞することで、国を挙げての支援体制が今まで以上に確保されやすくなります。ならば、iPSの早期実用化による医療現場で劇的な治療の改革への期待も大きく、多くの難病患者たちにとって予想以上に早い朗報にもなりうるであろうという点です。この点に関して言えば、民主党政権の事業仕分けの弊害的に続いている、「今必要のないものはすべてカット」ともとれる単視眼的予算運用の犠牲となって、十分な国家支援が得られなかったかもしれないリスクは確実に回避できたと思われます。

第二に前回のエントリでも触れた、革新技術の倫理面に配慮した健全な利用ルートの確保面へのメリットです。ノーベル賞と言う世界の誰もが知りうる栄誉を与えられることで、嫌が上も陽が当らざるを得ない状況になり、技術の健全な実用化に関してもこれまで以上に多くの場面で議論がなされる環境が整ってくると思われるからです。悪意をもって革新技術の利用を考える人間は、どんなことをしてでも仕掛けてくる可能性は否定できませんが、iPS細胞の技術が公になればなるほど悪意ある企みも闇から外に出る可能性も高くなり、革新技術は確実に人類の共有財産として世界的に平和利用される道につながると考えます。

そして第三に、早期受賞による若い技術者のさらなる飛躍を後押しできるという点。これまでのノーベル賞受賞基準では、革新的な技術であっても十分な実社会での貢献実績が現れ受賞対象となるまでにあまりに多くの時間が費やされることもあり、技術者自身が研究者として肉体的にも精神的にもピークを過ぎた年齢での受賞と言うことも多くあったように思います。今回の山中さんの50歳という若さをもってすれば、これから今までをはるかに超える官民問わぬ多くの支援が集まることで、技術者としてのさらに一層の飛躍も期待できるわけで、ノーベル賞を叙勲的な位置づけに終わらせない大きな意義がそこにはあると思うのです。

いずれにいましても本当に喜ばしい今回のノーベル賞受賞。医学と言う我々一般人の生活に直結する分野における受賞であるだけに、ノーベル賞受賞と言う事実だけに終わらない、これを機にした今後の一層の発展的展開に期待が高まります。

尖閣問題と“不当要求”対応のセオリー

2012-09-26 | ニュース雑感
尖閣問題が長引いて、公船だ漁船だが島の海域でアピール行動をしているだとか、中韓連合でに日本に立ち向かうだとか、いろいろ日本に圧力を感じさせるような動きがますます目立ってきました。

日中の次官級会合が開かれてその席で、中国の尖閣問題に対する要求が明確に出されました。主張および要求の概要はこうです。「反ファシズム戦争の成果を公然と否定するものだ。行動で誤りを正すべきだ」と。本日は両国の外相対談がおこなわれたようですが、全く同じ主張・要求が繰り返されたとか。まず大きなポイントはこの主張・要求が正当なのか、不当なのかです。日本は尖閣に対して明確な根拠を持って、「領土問題は存在しない」と言えるわけですから、この要求は「不当」であると判断してよいと考えます。

ならば、「不当要求」に対しては明確な対処の仕方があるはずです。コンプライアンスの一環として、警察当局の指導に基づいて作成された倫理基準準拠的な「不当要求対応マニュアル」という類のものが各市町村や大抵の大手企業には存在します。これは、役所や企業が出先機関を含め反社会的勢力から「不当要求」を受けた場合にどう対処するかについて記されたものです。中国が反社会的勢力にあたるとまでは申しませんが(暴動・略奪の容認等それに近いものはかなり感じますが)、「不当要求」には変わりないわけですから、ここはひとつ「不当要求対応マニュアル」に沿ったセオリー通りの対応をお願いしたいところです。

とある市町村の「不当要求対応マニュアル」には、不当要求の例として「市街化調整区域及び市街化区域の線引き変更の強要」というものが挙げられていますが、まさしく今回の中国のケースと同じものです。こういったケースでの対応の原則は、何よりもまず「毅然とした態度で断り、要求には一切応じないこと」。少しでも譲歩を見せたなら、「必ず次なる要求を出してくるようになり、要求は次第に大きくなる」ともあります。日本政府はとにかく、現時点での国有化の是非は置いておくとして、国有化した以上相手のいかなる要求も毅然とした態度ではねのけ、一切譲歩をにおわせる態度を見せないことです。

そして、理由を明確に述べること。例えば、「そもそも日本は1895年に、いずれの国にも属していないことを確認したうえで尖閣諸島を沖縄県に編入したものであります。1969年および70年に国連が行った海洋調査で、大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、それを受けて71年から中国、台湾が領有権を主張し始めたものでありますが、それ以前には両国より一切の領有権に関する主張はなされておりません。従い歴史的に見て尖閣諸島に関する領有権問題は存在致しません故、本件に関する一切の要求にはお答えいたしません」と、ハッキリ具体的な表現で伝えるべきと考えます。要するに「お宝が眠っていると言われたから、急に欲しくなったんでしょ」と痛いところを突いて、国際世論に厳然たる歴史的事実を訴えかけるべきです。

さらに「不当要求対応マニュアル」に必ず記載があるものとして、「敵地での交渉は呼び出されても一切しないこと、あくまでこちらの陣地で交渉をすること」。そもそもが「不当要求」なのですから当たり前のことです。事務方ベースであろうとも、こちらがノコノコと北京くんだりまで出かけて行って相手の「不当要求」の内容など聞く必要はないのです。来るなら聞きましょうと言う態度を貫くことです。加えてマニュアルにある、「挑発に乗らない」。これも大切です。尖閣周辺海域の中国船に対しても粛々と対処するのみで、必要以上に相手を刺激するようことはしない。とにかく相手のペースでかき回されないことです。

先に記したような理由をより具体的に述べることは、先方が万が一武力行使を考えた際にも国際世論の批判は免れ得ないものになるので、相手への抑止力としての効果も期待できます。とにかく政府はしつこいぐらいに「領有権問題が存在しない」その根拠を具体的に述べ、「不当要求」であることを訴え続けるべきです。その上で「一切の要求はお受けできません」と毅然たる態度を貫くという、「不当要求」に対するセオリーを忠実に守って欲しい。中国がガタガタ騒がしくすればするほど、日本政府には一切動じることなく論理的かつ毅然とした対応をお願いしたいと思います。

教育現場に蔓延する「隠ぺい体質」

2012-09-19 | ニュース雑感
兵庫県川西市の高校生自殺事件では、学校側が遺族に対して事件を「不慮の事故」として公表することの打診をしていたとして、その「隠ぺい体質」が問題化しています。学校の言い分は、「自殺と公表することによる生徒への動揺と連鎖防止を考えた」とのことですが、隠ぺい云々の前に、自殺を事故と公表することは明らかな「嘘」であり、教育の場を預かる立場の人間の行動として大問題であろうと思います。

ではなぜ「嘘」をつこうとしたのか、それはもう誰もが思う通り「イジメ」があった言う事実、それを見て見ぬふりをしてきたことの隠ぺいが目的でしょう。自殺が表に出れば当然「なぜ」となり、このご時世ですから「イジメがあったのではないか」と大騒ぎになることは、関係者は自殺直後にピンときたのでしょう。だから「事故」として公表し、「不幸な出来事でありました」で済ませるつもりだったのだろうと。世の中舐めています。仮に遺族が「嘘」を了解したとしても、「自殺」の事実は曲げられるものではなく、早晩事実が明るみに出て大問題化するとなぜ思わないのでしょうか。「マズイことが起きたら迷わず隠す」という「隠ぺい体質」が身についているからこそ、即断で「嘘」をつくことを選択したのだと思われます。

教師の隠ぺい問題と言えば、大津の中学生イジメ自殺事件が記憶に新しいところです。あの事件でも散々“隠ぺい”は叩かれ、挙句には暴漢による暴力事件まで発生しているというのに(もちろん暴力行為を肯定するものではありません)、これです。こうなってくると個別の学校や教育員会の問題ではなく、日本の教育現場そのものが「隠ぺい体質」に染まっていると考えざるを得ないのではないかと。

川西市や大津市の件だけでなく、学校側のイジメに関する事実認識隠ぺいにからむトラブルが全国で多発している現状を見るに、政府、文科省は教育現場における「隠ぺい体質」の改善に向けた指導を強化する必要があるのではないでしょうか。ビジネス界においては、大抵の企業で「個人情報保護」と「見える化」はしっかりと両立し、「守るべきは守る、見せるべきは見せる」が明確に守られる時代になっているように思うのです。それだけに教育現場における「隠ぺい体質」の蔓延は、突出して異常に映るのです。

では、この異常な「隠ぺい体質」は何に起因するものなのか。もしかすると、個人情報保護が叫ばれ、少子化の影響もあり必要以上に我が子の教育にナーバスになる親が増えているということもその背景にあるのかもしれません。個人情報の保護の観点からは、ちょっとした個別の子供に絡む出来事でも、公にすることがプライバシー保護の点から責めを受けるリスクがあり、学校側はあらゆる子供がらみの出来事に関して神経質になるが故、「保護」と「隠ぺい」の境が分からなくなっているのではないかとか。それに輪を掛けているのが、一部の親の教育現場に対する異常とも言えるナーバス度の高まりもあるのではないかとか。少しそんなことも思ったりもしています。

政府、文科省には、教育現場の「隠ぺい体質」蔓延という異常な状況を理解した上で早急な抜本対策を求めたく思います。抜本対策とは、対処療法に終わらない根本原因を究明した上での対策です。組織において風土を変えるためには、まず根本原因を究明しそれを正すことが必要なのです。その過程において、先に挙げたような親の側の学校に対する接し方の問題も存在するとの判断に至るのであれば、親に対する学校と親の役割の明確化や学校に求めうるものの範囲等の基準を示したマニュアルの配布や親の教育も含めた双方向での改革、指導を検討して欲しいと思います。イジメの撲滅に向けては、何よりもまず教育現場の「隠ぺい体質」を正すことが第一であると思えるからです。

Ozeki

言わんこっちゃない尖閣問題

2012-09-17 | ニュース雑感
「中国、反日デモ最大級」(日経新聞16日1面)―。
だから言わんこっちゃない。尖閣問題は今はほっておけって言ったんです。今は竹島を優先すべきだって言ったんです(拙ブログ9月1日「尖閣はさておき、今は竹島に集中すべき」http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/36ed90853f19a7fba07db6b55e68d3b9)。ゴタゴタの最中いきなり国有化なんかするから。これで李大統領自らの愚行により国際問題化および主権主張のチャンスを得た竹島問題は、完全にかすんでしまいました。

尖閣問題は騒ぎを大きくすればするほど竹島問題とは逆に、ありもしない日本の不法領土占拠でもあるかの如く国際的に印象付けることになって、この印象は竹島問題にまで波及しかねないと思うのです。現実に中国は国連の韓国人事務総長宛尖閣諸島の自国の主権を裏付ける文書を提出したそうで、これではまるで竹島問題における韓国と同じに見えてしまいます。個人的には想定された中での最悪の展開になってしまったと思います。

やはり外交音痴の民主党政権が引き起こした勇み足に他なりません。石原都知事が何をしようが、どう吠えようがどこまで行っても一地方自治体トップの言動にすぎず、国にとってはかえって隠れ蓑に使うメリットさえあったのに、このガタガタが続いていたタイミングで東京都を出し抜いての国有化は相手を無視するどころか、「領有権問題は存在しない」という日本の主張さえも打ち消してしまったように思われます。

尖閣を国有化をするのなら、少なくとも外交の経験も現政権よりはパイプもある自民党政権に戻ってから、かつ竹島に端を発し波及した状況が一段落したタイミングで進めるべきだったのではないかと。尖閣諸島の東京都購入発言以降の世論的石原人気を見て、総選挙に向けた人気回復策を目論んだ野田政権の安易な選択だったのではないかと思っています。何の裏付けもなく唐突に2030年代「原発ゼロ」をぶち上げたあれと一緒かなと。大局的な視点はゼロ、どうせ政権陥落は見えているのだから先のことは関係ないよとばかりに選挙だけを念頭にした人気取り策であったのなら大問題です。

中国国内の反日行動はいずれ収束を迎えるでしょうから現象面自体は大した問題にはならないでしょうが、新体制発足を控えた中国政府との友好関係への亀裂は、多くの中国進出日本企業へのマイナス効果を通じた産業経済への悪影響さえも噴出しかねない大問題かとも思います。米国との関係改善もままならぬままの中国との友好亀裂という世界の2大大国との関係悪化は、日本経済の立て直しにも暗い影を落とします。

冒頭にも述べましたが、これで竹島問題の不法占拠解消に向けた進展は白紙。尖閣、竹島問題は、国際世論には極東3蛮国三つ巴の領土強奪合戦ぐらいにしか映らないでしょうし、むしろ世界2大大国との関係悪化は、国際世論から過去の侵略戦争を引き合いにしての“アジア平和の敵”的な極悪国家に仕立て上げられかねないリスクさえはらんでいるように思います。

“死に体政権”を延命させても何の得もないどころか、人気取り目的の悪あがきによるこんな弊害が増すばかり。メディアも世論も、国益を損なうような政権運営に一日も早く引導を渡し、早期の解散総選挙実施を訴えるべきではないかと思うのですが。

ルーマニアで女子大生が殺害された件とアイセックという団体について

2012-08-20 | ニュース雑感
海外インターンシップで訪問した東欧のルーマニアで、聖心女子大学に在学中の女子大生が殺害されるという悲劇が起きています。彼女はアイセックという100%学生が運営するNPO法人のあっせんで今回の渡航をアレンジしたといいます。この手の事件では、本人の油断と言う問題も指摘されるところではありますが、今回の件では仲立ち役のアイセックのアレンジに甘さはなかったのかという点も焦点になりそうです。

と言いますのも、彼女がルーマニアのブカレストに飛行機で到着したのは深夜で、かつそこから目的地までは、夜行の電車で約3時間、距離にして240キロほどあったと。彼女はなぜか電車に乗らずに犯人の誘いに乗って車での移動を選択して今回の事件に巻き込まれた模様です。女性の一人旅は国内でもそれなりの注意が必要ですが、ましてや海外、治安面で不安の大きい東欧諸国へのインターンシップ・アレンジをしたアイセックに落ち度はなかったのでしょうか。

本人の希望がどうであれ、ルーマニアという国への女子大生単身でのインターンシップアレンジが果たして適当であったのか否か。さらには現地での深夜移動というあまりにも危険極まりないスケジュールはなぜ組まれてしまったのか。これらの点を焦点として、学生が運営する海外インターンシップ事業における運営上の問題点やその是非については、今後十分な検証がなされる必要があると思います。

大きなリスクが伴う恐れがある事業を、学生と言うビジネス素人が手掛けることが本当にいいのか。ネットの書き込みを見る限りにおいては、これまでにもアイセックのアレンジによる海外インターンシップ先で「行ってはみたものの、ろくな仕事が得られなかった」「大学を休学手続きをした後で、突然キャンセルになり困った」などのクレームも聞かれ、その運営に不安を感じさせるものが見受けられもするのです。

そしてなにより今回の対応。事件発生と共にいきなりのホームページ閉鎖(ネットユーザーの発言では「落ちている」と表現されています)。これが意図的なものなのか、アクシデントによるものなのか現時点では分かりかねますが、事件当事者として全くのノーコメント状態が続いており、少なくとも「インターンシップのアレンジ組織として、現在事実関係を鋭意調査中です。分かり次第公表します」ぐらいのコメントは発する義務があろうかと思われるのです。

まずいことが起きてしまい、「ヤバイ、隠せるものはすべて隠せ!」「黙って嵐が過ぎるのを待とう」ととれる今回の対応では、最悪のリスク管理体制であると言わざるを得ません。やはり子供の“ビジネスごっこ”に過ぎなかったか、と言われても仕方のない状況ではないでしょうか。大人のマネをしてビジネスまがいのことをしてはみたものの、リスク管理が甘く事件が発生。挙句にこれはまずいとダンマリでは、全く子供の仕業です。

大人と子供の一番の違いは、「リスク管理」ができるか否か。「リスク管理」とは自己の事業におけるリスクの最小化を図りつつ、万が一最悪の事態に陥った際の対処を想定することです。それができていないと思える今回のアイセックの一連の活動は、まさしく子供の遊び半分状態です。尊い若い命が、子供の遊び半分に犠牲になったのかと思うに、ご家族の思いを察するにいたたまれない気持ちにさせられます。

収益目的であるか否かにかかわらず、学生のビジネス活動については、利用者等第三者に大きなリスクが及ぶ危険性のあるものについては、リスク管理ができないのならばやるべきではないでしょう。これらの活動には政府関係機関をはじめ“大人”が、改めて監視の目を光らせる必要があると感じた次第です。

大津の事件と「タブー」という存在

2012-07-17 | ニュース雑感
大津市の中学2年生自殺の事件、問題の根本原因、再発防止のポイントを考えれば考えるほど、何か得体のしれない深い闇に引きづり込まれていくかのような、スッキリしない嫌な感じを覚えるのは私だけでしょうか。もちろんその一旦は、先週拙ブログでも取り上げた「隠ぺい」の構図にあることは間違いないのですが、何かそれだけではない不透明感が一連の事件の流れ、事件報道、関係者の発言等々から漂っているように思えてならないのです。

いじめはその度合いの違いはあるにせよ、ストレス社会が生む必然的人間行動としてある程度は避けられないものなのではないか、とは私の思うところです。大人社会にもある種のいじめ行動と受けとめられるパワーハラスメントとうものも存在しています。しかし、社会経験未熟な子供社会では、行き過ぎたいじめや回避のすべを知らない被害者の存在が、自殺と言う悲劇を生んでしまっているわけです。

子供社会におけるこのような悲劇防止には、いじめの芽を経験豊富な大人が摘むことでレスキューの役割を果たす必要があるわけなのですが、今回の事件ではそれが全く機能しなかった。ここに来てまたぞろ噴出する大人たち特に学校教師の明らかな「見て見ぬフリ」はなぜ起きてしまったのか。さらに一連の報道は学校や教育関係者の責任追求こそすれども、そこに対して明快な回答が得られない。これらがために私のモヤモヤ感は高まる一方になっているのではないか感じています。

ではいったい何がそうさせているのでしょうか。このようなモヤモヤ感が感じられるような場合、そこに「タブー」と言うものが存在していることが往々にしてあります。「タブー」とは。最近あまり耳にしなくなった言葉ですが、この場合の辞書的な意味合いは、「禁止された事物や言動。それについて極力、言及しないこと。禁忌。禁制」。特定の地域や特定の集団においては、様の古今東西を問わず、この「タブー」というものが厳然と存在してます。

今回の事件に関して、どう考えても納得のいかない事件に至った関係者の動きや、その後の歯切れの悪い報道内容等からは、この地域に由来するある種の「タブー」の存在があるのではないかと思えてなりません(実際、真偽のほどは定かではありませが、一部ネット情報では、事件発生地域周辺における「タブー」的存在を具体的に指摘をしているものもあるようです。裏付けのとれていない情報なので、ここには取り上げません)。「タブー」が人の正義的行動を抑制させることが悲劇を生み、「タブー」が報道にブレーキをかけることで問題の根本的解決や真の再発防止に向けた行動を鈍らせているのではないかと。私のモヤモヤ感はそんなところに原因を求めている感じです。

「タブー」はそれを口にすることが「差別」につながるものとして、公言することが不適とされる正当な理由に裏付けられる場合もありますが、相手方の「差別」行為等過去の負い目を逆手に取り歪曲した既得権として、それに触れさせないことから発展して悪意を持って強大な力を行使し理不尽がまかり通るケースも間々あるのです。後者のような場合でも、善意の「タブー」関係者になんらかの被害が及ぶ可能性も否定できず、歪曲した既得権をなかなか排除できないというケースもあると聞きます。

また「既得権とタブー」という観点で申し上げるなら、原発の問題もオスプレイの問題も、要は「政治的タブー」が政治家の言動を不透明にさせ、問題の本質を見えにくくさせているとも言えるのではないでしょうか。現代において「タブー」とは一体何なぜ存在するのか。なぜ「タブー」はなくならないのか。過去の体制が臭いものに蓋をしてきたことの積み重ねが「既得権」とそれを脅かす「タブー」を生み、そのことが新たな悲劇を生みだしているということもまたある種の真実なのではないかと思うのです。「タブー」は、実にいろいろな問題の陰に存在しているものなのです。

大津の事件の陰に、もし本当に「タブー」の存在があるのなら、正義の第三者であるべき報道メディアはその「タブー」から反射的な回避をするのではなく、「タブー」とどう向き合うのかを考えその考えを国民に提示する機会としてもらえないものかと思うところです。ひとつの尊い命が失われた事件を、単なる関係者の責任追及で終わらせるのでなく、過去の過ちを正しこれからの社会づくり資することもメディアの使命でもあるはずだと思うからです。