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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

景気回復本当のカギは、脱「iPhone不況」

2013-03-05 | ニュース雑感
ローソンの賞与引き上げに続いて、今度はイトーヨーカドー、セブンイレブンを配するセブン・アンド・アイ・ホールディングスが給与引き上げを宣言しました。まだまだ実態の伴わないアベノミクス効果の実現に向けて、民間として後押ししようということのようです。

確かに流通各社は、所得増、景気回復によって消費者の財布のヒモが緩むことが期待でき、それによって大手流通特に食品・雑貨等の日用品を扱う業種は直接的な恩恵が期待できるだけに、真っ先に先頭を切って景気浮揚策に賛同するのは十分理解のできるところでもあります。

しかし問題は流通ばかりが脱デフレ・景気回復に向けた所得増加にがんばってみても、それだけでは本格的な景気回復には心もとない感じが拭いきれません。問題はやはり製造業。厚労省の労働力調査によれば、全就業者数に占める製造業労働人口は約16%を占めており、小売流通業とほぼ肩を並べて全産業中2位にある巨大集団です。

流通がいくらがんばろうとも、ここが好転しないことにはなんとも、本当に景気が回復するのは難しい状況であることが否めません。しかも製造業は大手企業をピラミッドの頂点にいただく伝統的な垂直連携業種であり、大手の業績が好転しない限りはとてもとてもすそ野の広い下請けにまではその影響は及ばないのですから。

さらに言えば、仮に流通業中心での頑張りで消費者の可処分所得が増え小売業の客足が増えたとしても、今の国内製造業の体たらくぶりでは、果たして国内製造業の製品が消費者に選ばれる商品になれるか否か、非常に疑問でもあります。製品の水準で海外と互角以上に戦える自動車産業あたりは、円安効果の影響での輸出伸展である程度の回復基調が見込めるかもしれませんから、やはり一番の問題は家電・IT機器製造各社ということになるでしょう。

家電・IT機器製造各社を中心とした日本製造業の大不振を、私は「iPhone不況」と呼んでいます。ここは誤解をされがちな部分ですが、別にアップルやiPhoneを敵対視しているわけではなく、あくまでこれに一方的にやられてしまっている日本企業の実情にこそ問題があるわけです。ただiPhoneはやはり歴史的に見ても日本の市場を変えた商品として、カギを握る存在なので、こんな言い方をさせてもらっているのです。
◆「iPhoneが日本の景気を悪くした」
http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/f3d2e1e664bd42ef92ff1fa0e79a3437

理屈はこうです。戦後復興の時代から高度成長にかけての日本は、やはり製造業が力強く経済成長をリードし引っ張り上げてきたという印象が強くあります。これまでの私たちの生活において、国民一人一個、あるいは一家にひとつづつ購入するような製品で、国内ブランドでない製品がマーケットをリードしてきたものがあったでしょうか。テレビ、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫、自家用車、エアコン、腕時計…、思いつく全てモノは国内製品が基本的には国内市場を大きく占有してきたと思います。

そこに登場したiPhone。アメリカ産の製品でありながら、スマートフォンとして、携帯電話として、携帯音楽プレーヤーとして、今の存在感たるやおよそ日本の製造業各社が経験をしたことがないほどの強さを持って、市場をけん引しているといっていいでしょう。リード役を奪われたことで、日本の製造業完敗の象徴になってしまったのではないかと。いかに国際化の時代であろうとも、国内で勝てないものが海外で勝てるのかと、なるわけです。繰り返しますが、問題があるのは日本の製造業の側であって、アップルでもiPhoneでもありません。

しかしここをなんとか乗り越えないことには、下に膨大な中小企業がぶら下がるすそ野の広い日本の製造業の業況回復は到底見込めないのではないかと思うのです。決して携帯電話、スマートフォン市場のシェア奪還がすべてという話をしているのではなく、この領域で決定的なリカバリー策が打てないのなら、テレビやPC/タブレットをはじめとした海外勢にいいようにやられまっくている他の分野でも言わずもがなではないかということです(テレビ製造の回復は問題がさらに複雑で難しそうですが)。

ここに来てiPhoneも生産計画が大幅な下方修正に入るなど、いよいよ本格到来した“ジョブズ後”を迎えて正念場への段階入りを感じさせる様相でもあります。そんな状況も踏まえて、私は家電およびIT機器各社による“打倒iPhone”に向けた一手こそが、脱「iPhone不況」による我が国製造業復活の大きな旗印になるように思えますし、それなくして製造業の本格回復、ひいては日本経済の完全景気回復はあり得ないのではないかとさえ思っております。

流通・小売業と共に、日本の就業人口の大きな部分を支える製造業。流通業の積極果敢な景気回復支援策は称賛に値しますが、これを無にしないためには、我が国の産業の両翼を担う大手製造業各社のがんばりが不可欠なのです。果たして、その“狼煙(のろし)上げとしての”脱「iPhone不況」策の登場はあるのか。我が国の景気回復の本当のカギは、アベノミクスの成否ではなくそこにあるではないかと見ています。

「就活人気企業ベスト10」がすべて金融機関って、日本は大丈夫かぁ?

2013-02-28 | ニュース雑感
昨日の日経新聞別刷で特集されていた、恒例大学生の就職先人気ランキング。1位から10位まで金融機関がズラリって、私あたりの世代から見ると「何よ?」って感じで、非常に違和感を覚えずにはいられません。

1位 日本生命保険
2位 東京海上日動火災保険
3位 第一生命保険
4位 三菱東京UFJ銀行
5位 三井住友海上火災保険
6位 三菱UFJ信託銀行
7位 みずほファイナンシャルグループ
8位 三井住友銀行
9位 三井住友信託銀行
10位 明治安田生命保険
(日本経済新聞社調べ)

昨年12月から今年1月にかけての調査とのことなので、衆院の解散→総選挙→自民党政権に移ってアベノミクスが実態はないながらも効果を発揮し始め、民主党政権時代よりは少しは先行きが明るく感じられ始めたであろう時期の調査なのですが、学生は依然として先行き不安で安定志向であるということなのでしょうか。

確かにここ2~3年は長引く不況下の安定志向もあって、就活における金融機関人気は高まってはいたものの、トップ10がすべて金融機関と言うのは、恐らく史上初でしょう。金融機関志望が悪いとは申しませんが、考えようによってはあまりに「夢」がなさすぎる気もしてきます。元金融機関勤務の私が言うのもなんなのですが、「夢」のなさを儚んで銀行を「イチ抜け」した身からすれば、学生の皆さんは金融機関に入って一体何を望んでいるのだろうか、などと思ったりもするわけです。

別に聞きたくもないでしょうが、言い訳的に申し上げておきますと、30年ほど前の私の就活は、第一志望群であった出版業界就職に夢破れ(話せば長い事情があるのですが…)ならばいっそ大学時代に勉強をしなかった埋め合わせ的意味合いも含めて銀行にでも行って5年ぐらい勉強するかと就職先を決めました(5年と思いつつ、これまたいろいろあって22年お世話になったわけですが)。そんな経緯もあり、もともと「夢」はたくさん持っていて、ハナから金融機関を上位志望など全くしていなかったので、どうも今の就活人気状況は腑に落ちないものを感じるのです。

30年も前の私の就活時代と比べても意味はあまりないのかもしれませんが、確か当時の上位にはサントリーとか、ソニーとか、物産・商事とか、日航・全日空とか、JTBとか…、けっこう就職後の「夢」を感じさせる企業が名を連ねていたように記憶しています。今年の一覧を見てみるとANAグループが11位、サントリー・ホールディングス15位、JTBが19位、三菱商事がやっと20位に入っている程度。ホント、様変わりの様相です。

ちなみにその昔は人気上位常連だった日本を代表する大所企業では、トヨタ自動車が41位、NTTドコモが43位、三井物産29位、ソニー、キリンビールが共に60位、富士フィルム75位、パナソニック77位、ホンダとNTT東日本は83位、富士通95位、日産自動車などは135位です。

私の時代の人気上位企業は、広告イメージが光っていたサントリー以外は、高度成長下で急激に進展していた国際化の流れに乗って「世界で羽ばたきたい!」という理由で他の上位企業は人気を集めていたのかもしれません。そんな時代背景はあったものの、当時は「給与がいい」ということ以外にあまり積極的な人気要素を見出しにくかった金融機関は、なかなか上位には入れない存在だったのです。

金融機関って所詮はお金を扱う経済界におけるバイプレイヤーであって、経済の血液としてなくてはならない重要な存在ではありながらも、決して主役には成り得ないそんな業界であると思うのです。すなわち、一概には言い切れないとは思いますが、昔の若者が就職先に求めたものは「お金」より「夢」優先の傾向が強かったものが、見事に逆転してしまったのかなとも思えるのです。

それが今や金融機関がトップ10独占って、しかもベスト3は、その昔“オバチャン管理”“代理店管理”が疎まれて不人気だった保険屋さんですからね(当時から東京海上火災だけは、「給与がよくて仕事が楽」と噂され常に人気上位ではありましたが)。ものづくり大国日本の学生としてメーカーで活躍したいとか、有望産業で会社と共に成長したいとか、マーケティング上手の企業で世界の市場を動かしたいとか、初老のオヤジ的にはなんかそういう気概を少しぐらいは感じさせる順位であって欲しいような気がしたりもするのです。

さらに驚くべきことにこの就活人気ランキング記事をよく読むと、志望理由のナンバーワンは「仕事の面白さ」だとあります。「え~っ、それなのに志望が金融機関?」ってことになって、今の人にとっての「面白い仕事」って何なのだろうかと、ますます不可解な気分になってくるのです。もしかすると、小さい頃から好景気を知らずに育ってきた環境が、「まずはお金がなければ、何をやっても面白くない」と思わせているのかもしれません。

金融機関に「夢」を感じないのは長年その中にいた人間の戯言にすぎないかもしれませんし、社会人を30年もやっているオヤジが今の時代にとやかく言うことでもないのでしょうが、家電業界に代表される昔では考えられないような負け状況に加えてTPP参加だなんだでますます世界と対等に対峙していく機会が増えるであろう日本企業を支える世代が、これから仕事に立ち向かおうという今の段階ではせめて、我々世代から見てもう少しばかり“日本復権”に向けた「夢」を感じさせる姿勢であって欲しいなと、思った次第です。オヤジの説教臭くて申し訳ございません。

TDKリコール製品火災に思う、メディアと経済団体の役割

2013-02-25 | ニュース雑感
TDKのリコール中の加湿器が、長崎老人施設の死亡火災事故の原因になったのではないかという問題について、企業と関係団体の社会的責任あり方の観点から少し考えてみます。

問題の製品は98年9月から販売を開始、その後発火の危険性が判明したため99年1月にリコールを届け製造・販売を中止したと言います。リコール後のアナウンス活動は、新聞告知、折り込みチラシなどでおこない(これがどの程度のものであったのか詳細は把握しておりません)、その後はホームページでの呼びかけに専念する形となったとか。

この対応が果たして十分なものであったのかが問題の焦点となっているようですが、企業の製品リスク管理の中でもかなり難しい危機対応であると思われます。一方で製品事故の防止はモノづくり企業の果たすべき責任としてその最上位に位置するものでありながら、他方で同時に自社製品のリコールを継続的に大きく世間にアナウンスすることは大きなコスト負担と企業イメージの著しい低下リスクを確実に負うことであり、TDKの判断もその狭間で揺れていたのではないかと推測されるところです。

同じような死亡事につながったリコール製品であるリンナイのガス給湯器やパナソニックの石油ファンヒーターの場合には、一酸化炭素中毒という人命直結のリスクの高さを感じさせるものでありますが、製品の「発火の恐れ」を果たしてどうとらえるべきなのか、も判断の難しいところではあります。TDKの擁護をするわけではないのですが、「発火」も大きなリスクであることには違いないとはいえ、イコール「死に至るリスク」であると捉えた対応まではしにくかったのも偽らざる事実ではないでしょうか。

実際にネットで「発火、リコール」で検索をかけるとかなりの数の製品情報があがってきますし、その中で耳にしたことのあるものはほんの一握りに過ぎないということにも驚かされるところであります。私も検索で上がってきた全部のリコール製品をチェックしたわけではありませんが、この中のひとつやふたつが我が家に存在してもおかしくはないのかなとも思え、潜在的な事故リスクはどこの家庭にも潜んでいると感じさせられるところです。

もちろん製品を製造したメーカーには、企業イメージよりも事故リスク回避を優先した最大限のリコールアナウンスの努力は当然に求められることであるとは思いますが、十分な効果を得る行動をとるためにはメディア広告費等莫大なコストが必要になるのであり、一企業の限界を補てんする意味で社会的役割を担っている関係機関には積極的な協力を要請したいところであります。その最たる先が、大手メディアと経済団体でしょう。

大手メディアはその社会的な役割から考え、製品リコール告知については1回の記事掲載のみではなく専用紙面を作る等無償での継続アナウンス協力をしてはどうでしょうか。欠陥製品を製造したことは当該企業の責任ではありますが、この製品によって最終的に被害を被るのは国民であり、大手メディアは国民生活を守るという観点から、自己の広告ビジネスを離れて紙面提供する姿勢があってもいいのではないかと思うのです。また、これに先立って経済産業省がリコール製品リスク・ランクを決め、ランクによって掲載頻度を変えた対応を大手メディアに要請する等の国としての支援があってもいいかもしれません。

もうひとつは経済団体の協力です。経団連のような大手企業がメンバーに名を連ねる経済団体は、加盟企業のリコール問題についてメンバーの不祥事対応につき積極的な対応をすべきなのではないかと思うのです。具体的に何をするのかですが、先の大手メディアスペースを使ったアナウンス素材の制作や定期的な専門折り込み資料の制作と全国民への配布など、一企業レベルでは継続が難しい施策に取り組むなどやれることはたくさんあると思います。経済団体はメンバー企業の既得権擁護活動に腐心するのはもはや時代遅れであると早く気がつくべきであり、その存在価値を示すためには消費者視点での活動に軸足を移していくべき時代になっていると思うのです。

リコール製品の回収漏れによる事件は本当に痛ましい限りですが、いかに大企業と言えども一企業にできることにはおのずと限界があり、当事者企業がいかに反省の弁を述べ再発防止を宣言しようとも、他の企業への大きな波及効果まではおよそ期待できないでしょう。メディア、業界団体、官僚等々、個別企業と消費者の間に入って我々の生活を守るべき立場にある人たちが、利益度外視でその社会的役割を再認識して、できる限りの対応を前向きに考えて欲しいと切に願うところです。

国民栄誉賞、長嶋茂雄氏への授与はいつ?

2013-02-15 | ニュース雑感
先日亡くなられた元横綱大鵬関への国民栄誉賞の授与が正式に決定したそうです。国民の大半が思っていることをあえてここで言っておきます。なぜ本人が生きているうちにあげなかったのかと。

この国民栄誉賞という宙ぶらりんな“総理大臣杯”をめぐっては、これまでもたびたび物議をかもしてきていています。最近時では全く同じ議論が、黒澤明さん、遠藤実さん、森繁久彌さんが亡くなられた際にも一部で投げかけられていました。

この賞の発端は、77年に王貞治氏がホームランの世界記録を樹立した時に、時の福田赳夫内閣が何か国として表彰できないものかと無理矢理創設した栄誉賞で、目的として「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」とかなりアバウトな規定がされているのみなのです。その後も、明確な授与基準など作られることはなく、その時々の内閣の人気取りに利用されているのみとの陰口もここ最近では聞かれるようになってきていました。

そもそも、故人のことを国として本当に評価しているのならなぜ、亡くなる前にこの賞を授与することができなかったのかです。今回の授与理由を見ても、「多くの国民があこがれ、愛される国民的な英雄として、社会に明るい夢と希望と勇気を与えた」と言っていますが、これ亡くなられて分かった話じゃないですよね。私が遺族なら、「何をいまさら。本気でそう思うならなぜ本人の生前にいただくことができなかったのか。その方がどれだけ故人が喜んだことか。その理由に関し明確な説明がなされないなら、特定の政治家および政党の人気取りに利用されることになりかねないので、ご辞退申し上げる」と突っぱねるところです。

何事でもそうです。企業の経営判断においても「基準が明確でないこと」は特定の人間の思惑を意図させるモノ以外の何ものでもなく、組織運営においては可能な限り排除するべきものでもあります。人事評価などはその最たるもので、基準の見えない人事運用は組織内不協和音を生ませるもっとも大きな原因になったりします。もし裏で国民栄誉賞の「基準」として「何か機会がある折に」が存在し、その中に「本人の死去」という項目があるとするなら、それはそれで総理大臣の顕彰としてあまりに悲しすぎる話ではありますが。

国民栄誉賞、これを今後も継続するつもりなら、少なくとも過去の功労者に対する顕彰のあるべきかは、一度しっかりと議論し基準を明確にし公言する必要があろうかと思います。例えば、有識者によりピックアップされた各界における過去の功労者をまとめて表彰するとか、誰かが受賞した際に同じ業界でその受賞者と同等もしくはそれ以上の功績があった過去の功労者を併せて表彰するとか、何らかの工夫があっていいのではないでしょうか。後者の考え方で行くなら、大鵬関は89年の千代の富士関受賞の際に授与対象者になっていたはずなのです。

なんかこうスッキリしない故人への国民栄誉賞の授与。たいした意義のある賞ではないとしても、国民の前に功労者を総理大臣名で顕彰する以上は、明確な基準がないことにはどうも時の内閣の人気取りに利用されているだけという印象が拭いきれないのではないでしょうか。いっそノーベル賞と同じく、故人は対象としないとするならそれはそれである程度スッキリするのかもしれませんが。

個人的に一番気になっているのは、長嶋茂雄氏の存在です。「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」という趣旨からするなら、この方が未だ受賞されていないのはおかしな話です。まさか、政治家の先生方が、人気取り材料のストックとして長嶋氏が亡くなられるのを待っているわけではないでしょうね。このところ本賞の故人顕彰について毎度毎度同じ議論がされている以上、少なくとも長嶋氏が存命のうちに何とかしてもらいたいものです。

「体罰」撲滅は文科省の本気度次第

2013-01-17 | ニュース雑感
大阪市立桜宮高校の体罰自殺問題が波紋を広げています。

体罰は憎むべきものであり絶対にいけませんし、今回の事件が体罰以外の何物でもないことは確かです。しかし、こういった事件が起きると、必ず先生の側も生徒の側も、また親の側も必要以上に神経質になり、健全な教育環境を維持していく上で多々問題が噴出する件がぬぐいきれません。

例えば、先生が「体罰」と言われることを恐れて生徒に対してのあるべき指導を怠るとか、逆に生徒が「体罰」を楯に先生の言うことを聞かなくなるとか。あるいは、親がちょっとしたことでも「体罰ではないか」と過敏な反応をすることで、本来の指導趣旨が全うされなくなるとか、です。「体罰」そのものの問題共に、ある意味教育現場の危機につながる問題でもあります。

文部科学省はこの機会に、「体罰」に関する明確な定義づけと責任官庁としてリーダーシップあるスタンスを明示しておく必要があるのではないかと思うのです。定義がなされていない、されていても徹底されていないから事件が起きた、「体罰」がなくならない、とまでは申しませんが、何事においても問題事象の再発をさせないためには、どこからが問題となるのかを明確に定義づけし、抜け道をつくらないよう定義にはまらないものの例外対応を責任者が責任感持って対応することが大切なのです。これは企業の組織運営においては常識なのです。

文科省のこれまでの「体罰」に関する見解は、平成19年に出された「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」の別紙「学校教育法第11条に規定する学童生徒に対する懲戒・体罰に関する考え方」中で、一応定義らしきものが以下のように記載されています。
( http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm より引用。 )

◆「体罰」となるもの
懲戒の内容が身体的性質のもの、
・身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)
・被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)
に当たると判断された場合
◆「体罰」とならないもの
・放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を過ぎても長く留め置く等肉体的苦痛を与えるものは体罰に当たる)。
・授業中、教室内に起立させる。
・学習課題や清掃活動を課す。
・学校当番を多く割り当てる。
・立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。

なんだちゃんと定義がされているじゃないかと思われるのは早計でして、これだけでは不十分であるのは当然のことなのですが、驚くことにこの文科省「通知」では具体例が書かれた別紙に移る前の本文においていきなり、
「体罰がどのような行為なのか、児童生徒への懲戒がどの程度まで認められるかについては、機械的に判定することが困難である」
と書かれているのです。

なんとも心もとない。官僚的な責任回避、逃げの一文です。解釈すると、「はじめに言っておくけど、俺が決める話じゃないからね。一応、参考程度に実例は挙げておくけどあとは現場で判断してね」ってことです。この通知が、各都道府県教育委員会教育長、各指定都市教育委員会教育長、各都道府県知事、附属学校を置く各国立大学法人学長宛に出されているということは、あとは現場と各地域の教育委員会でうまくやってくれ、という非常に官僚らしいきれいな現場押し付け的責任回避体質がみてとれます。

事の判断がケース・バイ・ケースであるのは当然のことですが、監督官庁たるもの「体罰相談窓口」を設置してでも、「この通知で分からないケースはいつでも俺んところに聞いて来い!文科省がルールブックだ!」というぐらいのリーダーシップを発揮してもらわなければ、問題の根本的な解決には至らないのです。今回のような事件により、社会問題化したのであればなおさら、国の責任において本気で取り組んでもらわなくてはいけないのです。「そこまでは俺の仕事じゃない」とか「そんな対応したら仕事にならない」とか言っているうちはダメ。要するに、本気度です、本気度。

キツイ言い方をするなら、責任回避行為は責任官庁の管理放棄でもあるのです。例えば民間企業で現場の判断ミスによる事故が起きたときに、再発防止を本気で考えるなら、本社サイドが判断ミスが起きないよう相談窓口を設置して対応しあらゆるケース情報を収集することで、より精緻なルールブック作りにつなげるというのがセオリーです。責任部署が「最終的には現場の問題ですから」と逃げていたのでは、生きた情報の収集すらままならず何の改善にもつながらないのです。

今のままでは、「体罰」を桜宮高校レベル、あるいは大阪市レベルで再発防止することはできても、全国レベルで実現することはできないでしょう。今回の社会問題化した事件を機に、「体罰」の国レベルでの撲滅に向けた文科省の責任官庁としての本気の対応に期待します。

軽減税率議論よりも先にすべきことと新聞の思惑

2013-01-15 | ニュース雑感
来年4月に予定されている消費税増税に関する議論が盛り上がりを見せてきました。昨日は自民、公明両党が休日返上で軽減税率の実施に関する議論をおこなったとか。政権奪取後早くもアベノミクス効果が株価上昇、円安傾向を生み出したと自信を深めた安倍政権は、「来年の実施」を前提に着々と外堀固めをすすめているようです。

ただちょっと待ってくださいよ。増税に関しては確かに、現行5%の消費税を14年4月から8%、15年9月から10%に引き上げる法案が昨夏成立していますが、ここには「景気条項」というものが一応設けられていていたはずです。ところがこのところの報道は、どうも予定のスケジュールどおりでの実施がすでに決まったかのような報道姿勢に思えてなりません。

今一度、復習しましょう。増税のスケジュールどおりの実施を前に、13年度4~6月の経済回復状況を見て、実施の可否を判断するとなっていたはずです。ただ問題点は、この法案には、「2011年度から20年度までの平均で名目3%、実質2%」を目指すという中長期での経済状況の好転が政策の努力目標として盛り込まれているに過ぎず、増税前の経済状況を具体的な数字を提示した実施条件とはなっていない点です。要は首相のさじ加減ひとつでこの条項はいかようにもなるわけです。

法案内容の詰めの段階で、経済回復を判断する明確な指標を条件として入れるか否かの議論があったものの、最終的には政府が「景気好転が確認された」と判断すればGOが出せるというモノに落ち着いてしまったのでした。この点は、財務官僚に操られた野田政権と政権交代が視野に入っていた官僚寄り自民党の利害が一致したことで二大政党の相互牽制が効かず、片手落ち法案の感が強くなってしまったわけです。あの当時から、十分嫌な予感は感じさせられてはいたのですが、結局景気動向に関係なく実施できる“増税ありき”法案であるという懸念がぬぐえないのです。

問題はメディアの対応にもあります。それは冒頭でも触れたように、現段階で新聞各社がこの点を全く振り返えることもなく、増税の施行細則詰めの議論報道にばかりに走っている点です。税負担の公平の原則の立場からも、軽減税率等の問題は確かに重要ですが、事の順序から言えば新聞各社が今なすべきことはこう言った実施細則の詰めよりはむしろ、実施スケジュールを左右する「経済状況好転の判断」を何の数字を持っておこなうかを決めさせることなのではないのでしょうか。

ここを決めないことには国民の増税のスケジュールどおりでの実施に関する最終的な納得は得られないわけであり、私は夏の参院選における最大の争点をそこに持っていくべきなのではないかとさえ思うのです。結局このまま、「首相の政治的決断に増税実施の可否をゆだねます」となってしまったのでは、専門家の意見を無視した野田政権下での原発再稼動となんら変わりないのではないかとさえ思えます。

現段階で経済の専門家による判断指標の策定を急ぎ、秋になってからの“後出しじゃんけん”をさせないために、「この指標は○○以上なら実施、未満なら実施延期」という誰の目にも明らかな増税の実施可否のルールを今国民に提示した上で、実施の可否決定は明快にすすめられるべきだと思うのです。

本題からはややそれますが、新聞がこの点にことさら言及しないのには、理由がある気もしています。そのヒントは、公明党が主張する軽減税率対象品目に新聞が入っていた点です。「コメ」「みそ」「新聞」という並びに違和感を覚えない人はいないでしょう。なぜ「新聞」が?当然公明党の思惑は、同党支持団体の主要財源が新聞購読料であるという理由なのは想像に難くないのですが。

大手新聞社サイドはどうか。軽減税率の対象品目になるかならないかは、ビジネス上においては増税の影響を回避する意味でとても重要な問題であり、どの業界も「うちを軽減税率対象にして欲しい」と政府財務省に働きかける等、業界をあげて軽減税率対象品目化をめざすのが至極当然な動きでもあるわけです。現に新聞協会も、「新聞を含む知識への課税強化は民主主義の維持・発展を損なう」との公式コメントを出してもいますから(言っていることはよく分かりませんが)、新聞は業界あげて軽減税率対象の座を虎視眈々狙っているのです。

これは政府財務省にとってみれば、格好のメディア言論操作のチャンスです。新聞の軽減税率化をちらつかせつつ、計画通りの増税実施を既定路線姿勢で報道をさせ、国民に景気条項の存在など忘れさせてスムーズに増税実施になだれ込むことできれば御の字な訳ですから。若干なりとも言論統制のにおいを感じさせられることは、非常に不安な心持にさせられます。ここ2~3日の新聞報道では、軽減税率の対象として「新聞」の名は各紙とも引っ込めているようで、世間の批判を浴びないよう細心の注意が払われているようにも思えるのです。

本題に戻ります。今なすべきは「経済状況の好転」を判断する数値の決定です。企業経営においても、事業の成否を判断する際に目標となる数値の達否をもっておこなわないなら、すなわちそれは“どんぶり勘定”以外の何物でもないのです。判断指標としてGDPがよいのか、消費者物価指数がよいのか、あるいは様々な指標をミックして出される新たな指標が必要であるのか、論理的に増税実施の可否を国民に説明できる指標を今決めるべきだと思うのです。いずれにしても、“後出しじゃんけん”だけは絶対に許してはいけません。

増税が単に増税にとどまらずに、景気の先行きに大きく影響を及ぼす重大な問題だけに今黙っていてはいけないのだと思うのです。財政再建の観点から消費増税の必要性は認めつつも、不況下での増税実施には最大限の慎重さもって臨む必要があるのです。官僚や政治家や一部財界の既得権益擁護目的に利用されては絶対にいけません。新聞各紙はその自覚をもって増税実施に向けて今なすべきことを、自己の利益を捨てでも訴えかけて欲しいと思います。

「素人は政治に手を出すな!」を改めて実感した衆院選

2012-12-17 | ニュース雑感
衆議院選挙が終わりました。結果は大方の予想通り。自公圧勝、民主惨敗。結果分析はプロの評論家の方々にお任せするとして、今回の選挙は個人的には改めて「素人は政治に手を出すな!」を強く印象付けられた選挙でありました。

それを何より強く感じさせられたのが、福田衣里子前衆議院議員。薬害肝炎訴訟の原告団代表として若くして世間の注目を集め、09年の総選挙で小沢一郎氏の出馬要請を受けて長崎2区から立候補。民主政権交代の追い風にも乗って、現職の大臣経験のある自民党候補を破って当選するという、時の選挙の象徴的な出来事により“小沢ガールズ”の代表的格としてクローズアップされたのでした。

しかし、民主党では消費税増税決議に反対票を投じ処分を受けるなどの自己主張を展開しつつも、小沢氏の民主離脱「国民の生活が第一」立ち上げには加わらず、衆院解散のタイミングで民主党を離党し「みどりの風」に合流したのでした。ところが、この「みどりの党」がこともあろうに選挙直前に「未来の党」に合流することになり、なんと袂を分かった小沢一派と思いもよらぬ鉢合わせに。

今月はじめには、「未来」嘉田代表との約束で名簿順位単独2位を引き換えに近畿比例ブロックでの出馬を決めたものの、その後旧「国民の生活が第一」との名簿順位をめぐるいざこざがあったのか、公示直前に名簿順位が最下位14位に下げられるという憂き目に会ったわけです。本人も選挙運動期間中に名簿順位のことをたずねられると、「奇跡を願うしかない手術に、多額の私財を投じるのと同じ。でもここまできたらやるしかない」と悲壮なコメントを。まさに政治力学に翻弄された素人の悲劇ではないでしょうか。

タレント議員の大半も同じような存在ではあるわけで、“旬”なうちは「蝶よ花よ」とおだてられ、“旬”をすぎれば使い捨て。間違っても、何かの勘違いで自己主張などして、“センセイ”に盾などつこうものなら即刻切捨て。それでも、売れなくなればポイがあたり前の世界で生きかつ金銭感覚が一般人とは異なるであろうタレントならば、まだ「しゃーないな」で済むかもしれませんが、一般人がこんな目に会おうものなら再起不能ではないのかと。

恐ろしい世界ですよ、政界というものは。利権のせめぎあいという意味で言うなら、ヤクザの世界ともあまりに近しいのではないかと。世襲で確固たる基盤をお持ちの方であるか、あるいはコツコツと一介の地方議員から始めて、徐々に中央に上り詰めていくという筋金入りの政治家志望でもない限りは、素人が絶対に踏み入れてはいけない世界なのではないかとつくづく思わされるわけです。

にもかかわらず、今回もまた犠牲者が何人も出ています。“人気”にあやかって国政進出をなんて甘い夢を見た維新の会の素人候補者たちも、私財を投じあるいは多額の借金をしょわされ、それでなお落選の憂き目を見て借金だけが残る。常識的には、実績のない彼らに次はないわけで、再起不能の奈落へと突き落とされ気分ではないのでしょうか。

日本の政治は利権争奪戦を繰り広げる“政治屋”が運営している以上、その気になったりおだてられた素人が手を出したらいかんのです。ヤクザの賭博場に素人が入り込んだら、最初は少しいい思いをさせてもらったとしても、最後は必ず丸裸にされて終わりです。政治の枠組みがいかに変化しようとも、日本の政治が根本から変わらない限り「素人は政治に手を出すな!」は変わることなし、なのです。

NHKはKーPOP排除理由を、胸を張って明言すべき

2012-11-28 | ニュース雑感
大晦日の国民的歌謡番組NHK「紅白歌合戦」の出演歌手が発表されました。普通ならばどうでもいい話なのですが、気になったのは近年KーPOPとして人気を集めていた韓国勢がどうやら意図的に今年は選ばれなかった様子でありながらも、どこかハッキリせずモヤモヤ感が残っている点です。

モヤモヤ感の原因は間違いなく、このことに関するNHKサイドのKーPOP落選理由「あくまで選考基準となる、今年の活躍や世論の支持の数値による」という不明瞭なコメントです。「今年の活躍」を言うなら、選ばれるのがおかしい“過去の歌手”の方々の方がよっぽど対象外であるはずで、それは全く理由に当たらないでしょう。ならば「世論の支持」であり、その「世論の支持」こそ、まさに竹島問題に端を発している日本国民の韓国への抗議にちがいないのに、そこには一切触れようとしない点がスッキリしないのです。

今年の出演者選考ついては10月に石田総務局長が会見で明らかにKーPOPを意識したと思われる「政治と文化は違うというスタンスで総合的に考えたい」と発言して、ネット上を中心として非難が集中するという“事件”が発生しています。これはNHK一流の“世論調査”だったと私は思っています。果たして、この国民における強い反韓感情を確認して余りあった“世論調査”の結果、KーPOP勢は「世論の支持」に配慮して“落選”に決まったと考えられるのです。

「政治と文化を混同するのはいかがなものか」という意見もあるでしょう。もちろん、それを否定する気は毛頭ありません。しかしNHKは自己の番組の出演者選考基準に「世論の支持」を掲げてそれに従い結論を導いた以上、胸を張って「竹島問題に端を発した、韓国に対する抗議世論の影響でKーPOPの世論の支持が著しく低下したために今回は落選となりました」と内外にハッキリ公共放送の世論調査結果を明言すべきではないのでしょうか。

これはNHKが公共放送なればこそなのです。とにかく日本はその国民性もあって本当にお人よしで言いたいことを相手に気を遣ってストレートに言わない。総理からして、尖閣、竹島問題では甘っちょろい言い方に終始しているわけで、第三国から見れば自信を持ってハッキリ図々しくものを言う中国、韓国の方が正論を唱えているかのように見えてもしょうがない状況でもあるのです。

日本は“お人よし外交”をやめて、隣国の如くもっともっと図々しくならなくてはいけないのです。アメリカの庇護が薄れていくであろう今後はなおさらでしょう。NHKは国民の声を代弁する国営放送であり、それが決心してKーPOPを排除したのなら、その善し悪しは別問題としても、こんな時こそハッキリと海の向こうに聞こえるようにその排除理由を明言すべきであると思うのですが、いかがでしょうか。

茶番は終わらせ、東電の破たん処理を急ぐべき

2012-11-08 | ニュース雑感
東京電力は中期経営方針を発表し、今年5月に実質国有化により政府からの支援を引き出し生き残りのために策定した「総合特別事業計画」に関して、策定から半年でこのままでは計画遂行不可能という“泣き”を入れてきました。

中期経営方針では、短期的には電気料金の値上げ幅の抑制と原発再稼働の不調が当初計画を狂わせていること、長期的には福島第1原発事故の賠償や除染、廃炉の費用が今後、10兆円を上回る可能性があることを強調。下河辺和彦会長らは国に対し新たな支援策を要請した上で、再建の大枠を定めた「総合特別事業計画」を来春にも改定することを示唆しています。

賠償や除染、廃炉の費用を計画策定の段階で見積もっていなかった計画の甘さもあるのですが、より問題視したいのは短期的な見通しの甘さの方でしょう。10.28%で申請した家庭向け値上げを8.46%まで圧縮され年840億円の減収となったことと、柏崎刈羽原発の再稼働がみえないことは、5月の段階でも世論の動きを勘案すれば容易に想像がついた結果なわけです。責任はひとえに、実現不可能な計画を受理し、電力村と金融村の権益擁護を目的に東電を延命させた政府にこそあると思います。

こんなに早い段階で馬脚を現わす茶番は、茶番としても出来が悪すぎます。当初から、申し上げているように、被災者への賠償スキームをしっかりと法制化した上で東電は破たん処理し、株主責任、貸し手責任をまずしっかりと問うこと。その上で、BAD東電とGOOD東電の分離、発電と送電の分離をおこなうことで、東電の再生および電力業界の再構築を政府の責任において主導するべきではないかと思うのです。

5月の段階で、株主責任も問わず、貸し手責任も問わずに、“利用者責任” を優先した再建スキームを政治主導で作り上げたことに最大の誤りがあったのです。現段階で、先行き不透明な東電に国が追加支援をおこなうことや、さらなる電力料金値上げによる“利用者責任”の積み増しは、世論が許さないでしょう。すなわちこれ以上、問題の先延ばしをしても、既得権者以外には何のメリットもありません。現政権における責任の全うの観点から、即刻、東電の破たん処理を決断すべきと考えます。

被疑者写真の取り違えを、メディアは「お詫び」で済ませてはいけない

2012-10-31 | ニュース雑感
尼崎の連続変死事件の主犯と目されている角田美代子被告の写真とされ、各社で公開されていたモノが実は全く別人のものであったということが、写真本人からの申し出により分かったそうです。問題の写真は、各メディアに散々登場している和服を着た50代女性写真です。これはひどすぎます。報道によれば、取材記者が角田被告の長男の同級生の母親から入手したそうだが、本人の確認作業はどうなっているのでしょうか。本人の氏名、顔写真確認はメディア取材における“イロハのイ”です。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/10/31/kiji/K20121031004449060.html

本件は、警察における犯人の取り違え逮捕と同じレベルで責めを負うべき問題であるでしょう。あの写真を見たどれだけ多くの人があの写真に罵声を浴びせかけたことでしょう。それが全くの別人であったとは。女性は報道陣に「もの凄い憤りを感じている」と話したそうですが、その心中や察して余りあるところです。

二次使用、三次使用の新聞、テレビメディア各社は早速「お詫び」を伝えているようですが、他の事件で同じように本人の名誉を傷つけるような取り違えが発生したなら、こぞって原因追究にこれでもかと糾弾を続けるであろうメディアは、本件を「お詫び」の一言で終わらせてはならないと思います。読者、視聴者にとっては、いつ何時わが身に降りかかるかもしれない事態であり、詳細な原因究明と再発防止策を、我々の前に提示する義務があると思われるからです。

メディア各社には、どこのメディアが当該写真を最初に入手し、どのような手続きで本人と断定し使用したのか。二次使用、三次使用の各メディアは独自の確認作業を怠ったのではないのか。それはなぜか。同じような事態を起こさないためにはどのような対策を講じる必要があるのか。それらについて、速やかかつ詳細な調査と報告を求めたいと思います。

もうひとつ本件発生に至った大きな原因に、角田被告の写真を警察がこれまで公表していないということがあります。これに関しては捜査上様々な事情があるのかもしれませんが、このような二次被害を生むような事態になるほど、国民の関心が高い凶悪事件であり、主犯被疑者の写真を公開しないのなら、その理由を明確にする必要があると思われます(今回のような不明な部分が多い事件における被疑者の早期写真公開は、むしろ一般からの未入手情報の提供にもつながるものと考えられるだけに、どうも腑に落ちない感じもしております)。

いずれにしましても、メディアの不用意な対応による二次被害は絶対に起こしてはならないということを肝に銘じ、各メディアは早急にあるべき対応を確立して我々の前に提示して欲しいと思います。