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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

オリンピックとパラリンピックは統合したらどうか?

2012-07-13 | ニュース雑感
ロンドン・オリンピックまであと2週間。壮行試合やらなんやらで、徐々にオリンピックムードが高まりつつある今日この頃です。

オリンピック関連で少し前に目にしたニュースに、「義足のランナー、オリンピック代表に」というものがありました。南アフリカの陸上選手であるピストリウス選手が、同国の陸上競技リレー代表に選出され、悲願のオリンピック出場を果たすというものです。彼はカーボン義足の“ブレードランナー”として有名で、障害者の国際大会であるパラリンピックではすでに4つの金メダルを取っているというトップ・アスリートです。

前回の北京大会でもオリンピック出場が取りざたされたものの、国際陸上競技連盟 (IAAF) が「カーボン製の義足による推進力が競技規定に抵触する」として参加を却下し無念の断念となったのでした。今回の出場は、2008年スポーツ仲裁裁判所 (CAS) がIAAFの判断を覆しピストリウス選手が健常者のレースに出場することを認める裁定を下したことを受けて実現したもので、障害者スポーツが新たな歴史を刻む上で大変大きな意義を持っていると考えます。

大きな意義とは、オリンピックとパラリンピックの統合に向けての意義です。そもそも、障害者スポーツは東京オリンピック開催以前のローマ大会からオリンピックに合わせた国際大会開催を実現してきていながら、IOC(国際オリンピック委員会)によるオリンピック類似名称の使用への難色などによる“差別”扱いを受けるなど苦難の時代が続きました。そして2000年IOCとIPC(国際パラリンピック委員会)との間で協定が結ばれ、オリンピック開催都市でオリンピックに続いてパラリンピックを行うこととIPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催が正式に義務化されたのです。

それでもまだまだ陽の当らないパラリンピック。あくまで開催地の“義務”を脱しきれない現状のオリンピック後開催の方式のままでは、「健常者でないものの記録に何の価値があるのか」という先入観を受け続けることは確実であり、スポーツの過去の歴史における「記録的に劣る女子スポーツにどれほどの価値があるのか」という考えから女子競技導入を渋り続けた前世紀前半の女子スポーツに対する差別の歴史を、再び繰り返されるかのような気分にもさせられるところです。

女子の男子に混ざっての競技参加が認められたのは1900年の第二回パリ大会であったとか。しかしながら、女子限定の競技種目が正式にオリンピックに導入されたのは1936年であり、それまでの間は男子に伍して戦える能力のある女子は限定された競技への出場が認められたものの、女子限定の国際競技はオリンピックとは別に開催され続けるという厳然たる差別扱いが続いたと聞きます。今回の“障害者の雄”ピストリウス選手のオリンピック出場は、女子差別の歴史に置き換えるならいままだ1900年時点の状況ではありますが、障害者スポーツの評価向上に向けては本当に大きな意義を持つことであると思うのです。

オリンピックが平和の祭典である以上(もちろん、過去の政治介入などいろいろ問題が多いのも事実ではありますが)、やはり差別なく平等に能力の高いアスリートには大会への出場権利を与えるべきではないのかと思うのです。つまり、競技種目として男子、女子に加えてオリンピック障害者部門を一刻も早く設け、パラリンピック選手として差別するのではなくオリンピック選手として同じ大会に出場させ、両大会を統合することでその栄誉をたたえるべきではないのかと切に感じるのです(実施に際しての、種目の再調整やルール、出場資格等々整備すべき課題点が多数あり、難題もおおかろうことは想像に難くないところですが…)。

ロンドン大会でピストリウス選手の出場シーンでは、メディアがこぞってその栄誉をたたえることに違いありません。この機会こそ、来るべきオリンピックとパラリンピックの統合の必要を世界に人々に理解を求める絶好の機会でもあるはずです。そしてまた、2020年のオリンピック開催地に立候補している東京が、この機会にオリンピック、パラリンピックの統合を掲げてあらゆる差別のないオリンピックの実現を大会趣旨として宣言するなら、国内外のオリンピック開催に対する支持も大きく得られるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

「美人すぎる市議」の“やってはいけない”

2012-05-15 | ニュース雑感
2月の市議選で当選し“美人すぎる市議”などともてはやされていた、タレントで新座市議の立川明日香さんが、「立候補に必要な居住実態がなかった」として市選挙管理委員会から「当選無効」とされたことを不服として、県選管に審査を申し立てたとか。

立川さんは、東京都足立区の出身で昨年9月までは練馬区在住。同月新座市に住民票を移し2月の市議選に立候補しています。公選法では被選挙資格を「選挙区内での3か月以上の居住実態」規定していて、彼女は住民票上は3か月以上の“居住”があったものの、市民からの申し立てを受けて実態調査を実施した新座市選管は、「昨年10月から今年2月まで水道の使用実績が0」などを理由に「居住実態なし」として先月「当選無効」を決定していました。

昨日会見した明日香さんは、「昼は東京で仕事や政治活動をし、夜帰って寝泊のみまりする生活をしていた」「風呂は練馬区のマンションや外で入っていた」「洗顔する暇がなかった」「トイレはコンビニで借りた」と、「水道を使わない居住実態」を強調していたよとか。あまりに子供じみた言い訳ではないですか。「居住実態」の意味がお分かりでないようで。コンプライアンスにおける考え方が、「法律に形式上違反していなければよい」のではなく、「気持ちの面も含めた実態が法令に沿っている」ことが求められるのと同じ。彼女が問われているのは、「あなたは胸を張って新座市民の明日を考えられると言えますか」ということなのです。

生活パターンの話とか、水道使用の言い訳とか、そんなことはどうでもよろしい。そもそも、足立区出身で練馬区在住だったあなたがなぜ新座市議なのか、そこの説明に市民が納得できないから巻き起こった騒動であり、「居住実態なし」の決定であるわけです。自分が指摘されている「居住実態なし」の真意や、問題の焦点になぜ気がつかないか、です(まぁ気がついていても気がつかないフリで、せっかく手に入れた「既得権」を手放すまいとしているのかもしれませんが)。

過去の彼女の新座市議出馬説明によれば、「新座市は練馬区と隣接した地域であり親近感を感じていた」という程度のもののみ。「自分の政治的テーマを実現する場所として、その顕著な問題を抱える市町村として新座市を選んだ」とかの理由があってしかるべきなのに、それは全くない。「議員になれればどこでもよかった」「たまたま近くで選挙があったから」が理由であると思われてもしかたない状況です。

似たような話が最近他でもありましたね。カンボジアのオリンピックマラソン代表の座を取り消された芸人猫ひろし氏。彼もカンボジアでの居住実績がないということが、代表の座取り消しの理由でした。国際問題であるか否かの差こそあれ、立川さんもほとんど同じ。市議は市民生活の将来を預かる立場である重責ポストな分、オリンピック代表よりもよほど問題は深刻であると思います。

猫氏は潔く身を引き「カンボジア人として4年後のリオをめざす」と宣言しました。猫氏の肩を持つつもりはありませんが、少なくとも引き際のよさと今後に向けた姿勢には好感が持てるものがあったと思います。立川さんもここは一刻も早く潔く身を引き、「本当の市民として生活を始めることから出直して、次回は誰からも認められ当選できるようがんばります」と宣言すべきでしょう。この後、県選管の決定を不服とするなら問題は法廷に持ち込まれることになり、粘れば粘るほど市議の身分は継続されて、余計な出費を新座市に続けさせることにもなります。

立川さん、あなたが本当に新座市と新座市民のことを思うのであれば、政治家としての“あるべき”対応をしっかり示して欲しいところです。地方と言えども政治をなめるなよ!

熊谷には不安な時間帯別電気料金

2012-05-11 | ニュース雑感
今日は節電の夏に向けた電力料金を考えてみます。

報道によれば、この夏の電力料金は時間帯別の料金体系を導入する方向とか。午後1~4時の電力消費ピーク時の料金を標準料金よりも高くし、電力消費が減る夜間料金を安くして、昼の電力使用を抑制し夜間の使用を後押することで平準化をはかろうというものです。先行して時間帯別電気料金制度を実験運用している九州電力では、基本使用料を単位あたり20円に設定し、昼のピーク料金を50円と2.5倍に、逆に夜間を8円と半額以下に下げるというやり方をしているそうです。

東電がどういう料金体系にしてくるのか現時点では不明ですが、まぁ似たりよったりのものになるであろうことは想像に難くないところです。ただちょっと待ってくださいよ。この手の問題でやはり問題視されるのは東電管内における地域間での公平感の確保です。もちろん、絶対的な公平感確保などはあり得ない訳ですが、そのあたりを少しでも考慮してもらえるのか否か個人的には大変気になるところであります。

何のことを言っているかと申しますと、暑い地域と普通の地域と比較的涼しい地域と同条件はないよねと、日本一暑い街に住む身からすれば思う訳です。分かりやすく具体的に言えば、例えば熊谷市と東京23区と群馬県榛名湖畔と、同じはないんじゃないかと…。8月猛暑ピーク時の最高気温35度前後の東京と、最高気温40度前後の熊谷と、最高気温30度前後の榛名と、エアコンなしで我慢できる度合いも違うのではないかということです。月間の平均最高気温と言うデータで見てしまうと数字的には、1度とか2度とかの差しか出ないのでしょうが、住んでみないと分かりませんが全然違うのですから。

都内は確かに暑い、でも実際に耐えられない暑さは意外に夜だったりします。逆に熊谷は夜はまだまし、でも昼の殺人的な暑さは異常です。「今日も熊谷の最高気温は38度でした」とかよくニュースで報道されますが、これは百葉箱水準で計ってこの気温。実際の市街地コンクリート・ジャングルでは45度とかザラじゃないのかなと思います。エアコンなしは自殺行為です。ちなみに我が家は、東京から熊谷への転居以来、決まって8月に家電製品が壊れています(ここ3年間は冷蔵庫、エアコン、テレビです)。いかに異常な暑さかご理解ください。他方、夏場に合宿研修等で訪れたことのある群馬県榛名湖畔あたりは、まぁ「涼しい~」まではいかないにせよ、午後の暑さもエアコンなしで十分我慢できるレベルかなと。

この3者を同じ基準で運用されたのでは、「熊谷で昼のエアコン我慢のお年寄りまた死亡!」とか、そんな新聞の見出しが今から目に浮かびます。このあたりなんとか配慮して欲しいものです。昼のピーク時の電気料金が通常の2.5倍もとられてしまうなら、「我慢しょう!」ってことになりますよね。政府も「クールシェア」なる運動を掲げて民間店舗等の「涼みスペース提供」の働きかけも始めているようですが、まだまだ浸透までには時間が必要な状況と思います。都会ならピーク料金時間はショッピング・センターとかに日中涼みに出るも可能ですが、一歩下がった住宅地や田園地帯ではそれもできない。移動の足を持たないお年寄りはなおさらです。

東電の時間帯別料金の導入が正式申請されるなら、政府は猛暑地域での悲劇を生まないよう対策は十分考えて認可して欲しいところです。

今一度言う!東電が料金値上げより前に“なすべき”こと

2012-05-10 | ニュース雑感
拙ブログ4月26日のエントリー「東電「総合計画」の承認は、政府の“やってはいけない”(http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/1893846245da5137ed2294226c88b94c)」で、私は東電が経産大臣宛提出した再建計画をそのまま承認してはならない、と申し上げました。しかし9日、枝野大臣は大した議論をした形跡もなくいとも簡単にこの計画を承認してしまいました。

計画遂行の前提条件として盛り込まれた家庭向け電気料金の値上げ幅は、平均10.28%。もちろん実施が正式決定されるまでには経産大臣の承認が再び必要なわけですが、値上げを前提条件とした計画を承認された以上、東電からみれば、「値上げ幅の若干の見直しはあるかもしれないが、値上げの実施に関しては大臣のお墨付きをもらったも同然」と思えるのではないでしょうか。

拙ブログでは何度も申し上げていますが、株主責任、貸し手責任を問う前に利用者責任を問うようなやり方は絶対におかしいわけです。株主責任、貸し手責任を問わないのなら、まずは経営努力でなんとかする、つまりは倒産企業と同じ状況下においた限界値的なリストラ策を実施することが最優先であり、それよりも前に利用者責任を問う料金値上げは断固として東電の“やってはいけない”であると、改めて今メディアも世論も声を大にして叫ぶ必要があると思います。

前回の拙エントリーから一部引用します。
「誰が見ても「これ以上は無理だ」と思えるようなより具体性のある削減策を見せて欲しい。今回記載の給与の2割カット、人員削減1割、企業年金1000億円削減が本当に限界なのか、「やらなければ職を失う」というゼロサムの危機感を組織全員が持って、再度の削減策検討に取り組むべきであると思います。」

週内にも予定されていいるという値上げ申請を前に、この点を今一度強調したく思います。具体的に東電に何を求めるのかですが、分かりやすく言えば、家庭向け料金の値上げをしないで、その分をさらなるリストラ策で埋め合わせた場合、給与カット幅、人員削減率、企業年金削減額、子会社および所有資産売却額がそれぞれいくらになるのか、その理論値を利用者に分かりやすい形でまず提出せよと。分かりやすい形とは、「そこまでやると、平均給与は○○円です。企業年金は月々平均○○円です。」という見せ方です。まずはそのぐらいは作って見せろと言いたい。これは利用者に対する最低の礼儀であると思います。

より具体的な数字を利用者に示した上で、「これではあまりにかわいそうだ(例えば、平均給与が年収200万円以下になってしまう等)。多少の料金値上げは仕方ない」という利用者の総意としてある程度の同意を得ることが今東電の“なすべき”であるはずです。玉虫色の数字、給与の2割カット、人員削減1割、企業年金1000億円削減というものが、どの程度のものなのか全く数字の実感が与えられないまま(一部の情報ではカット後でなお我が国の給与平均を上回っているとか)、「そういうわけで、計画は承認されましたので値上げします」という態度は絶対に許してはならないのです。

東電の“やってはいけない”を叩き直せるか否か、ここが正念場であると思います。計画承認を受け一部報道に見られる、「値上げは既定路線化」的な報道は絶対にいけません。枝野大臣がこのまま値上げをすんなり承認するようなことがないよう、メディアも性根を据えて東電の“なすべき”を訴えて欲しいと思います。

格安航空は大丈夫?命を預かる旅客輸送業の“やってはいけない”

2012-05-01 | ニュース雑感
関越自動車道における格安夜行バスの事故を巡り、さまざまな意見が出されています。

何をおいても言っておかなくてはいけないことは、人の命を預かる商売は例え価格競争で低コストを目指そうとも、絶対に危険性が増すようなコストダウンはしてはならない、ということ。これは、最低限の“やってはいけない”です。

今回のバス運行は、金沢~東京ディズニーランド間が大人片道3500円の格安とか。乗客は50人弱ですから、仮に満席の50人でも収入は17万5千円です。高速利用+大型バス+運転手は深夜労働扱い…しかも手数料を抜かれる旅行代理店経由での販売ですから、運行会社は相当なコストダウンがなければ採算が取れない商品であることが容易に想像できます。

この場合コストダウンにおける一番の“やってはいけない”は、運転手に関する無理と車両整備に関する手抜きです。いかにコストダウンを求められようとも、自社のサービス内容を決定する際には必ず、「乗客の命をお預かりしているわが社のサービスとして問題ないか」という観点から、再確認する必要があるのです。恐らく今回の事故の裏には、この部分を甘く見た会社側の落ち度が必ず存在したと思っています。

この問題は、当然バスに限った問題ではありません。飛行機も電車もタクシーも、ひとたび人を運ぶサービスを扱うのであるのなら、皆同じこと。しかし業務への慣れや価格競争の激化の中で、旅客輸送業は乗客の命をお預かりしているのだという意識はいとも簡単に忘れられてしまう傾向にあるのです。これは本当に恐ろしいことです。旅客輸送ビジネスのコストダウンは、宅配便のそれとは根本的に“やってはいけない”部分が違うのです。ちょっとした気の緩みからそれを忘れた時、今回のような取り返しのつかない事故は起きるのです。

デフレが続く我が国経済状況下で、確かに今まで高価であったものが値下がりしてくれることはある意味歓迎すべきことではあります。しかし命にもかかわるサービスでは、利用者の側も手放しで喜んでばかりいるのは大変危険であるということなのではないでしょうか。

例えば価格破壊とも言えそうな今注目の格安航空会社ですが、これまでの常識を破る価格設定を実現せんがために、ほんの僅かでも安全面を損なうようなコストダウンをしていないか、消費者の側からも厳しい監視の目を向ける必要があるでしょう。私は、格安航空会社の上層部がテレビなどで「オフィスひとつから、安い中古家具を集めて余計なことろに一切カネをかけていません!」と胸を張るの話を聞くと、一抹の不安を覚えます。

なぜならサービスを構築する際に、その会社の社風や組織風土は必ず反映されるからです。コスト最優先という社風を浸透させた会社が、社風そのままに機体を購入したりパイロットを採用したりサービス教育をしたら、そのことが恐ろしい結末につながる可能性がそうでない社風の会社よりも高いということは、否定はできない事実であると思うからです。

もちろん、格安航空会社はあくまでひとつの例としてあげたまで。むしろ空を飛ぶがために嫌でも安全性に気を配らざるを得ない航空会社よりも、地を走る車両を扱う電鉄会社やタクシー会社の方が、安全性に関する油断が生じやすいかもしれません。いずれにせよ、すべての旅客の命を預かる企業は規模の大小を問わず、自社の安全性確保に関して僅かでも油断がないか、この機会に自社のサービスに関する安全性確保についてぜひとも総点検をして欲しいと思います。

京都府警と小学校教頭は、なぜ被害者情報を漏らしたか

2012-04-27 | ニュース雑感
京都の無免許運転集団登校致死事件で、被害者の連絡先等の個人情報が警察官および小学校教頭から加害者側に渡されていたことが明らかになり、大問題になっています。なぜ個人情報は漏洩してしまったのか。漏洩元が警察官、教師という職業であったことも含め少し考えてみます。

個人情報は05年に施行された同保護法により、業務上その情報を扱う法人または個人事業主に対してその取り扱いが規定され、人命救助等にかかわる原則例外的事例を除いて本人の同意なく第三者にその情報の供与をすることは規制されています。警察官、教師と言えども、あくまで事故当事者や生徒家族の個人情報は業務上知り得ている情報であり、当然本人の同意なく第三者に情報供与することは規制の対象になるわけです。

個人情報を扱う民間企業では、法の施行後さまざまな角度から個人情報取り扱いに関する研修等が実施され法の順守の徹底がはかられていますし、当然警察や学校であっても同様の対応はなされているものと思われます。ではなぜ今回、ひとつの事件で2つの場所、しかも公的職務を遂行する立場の人間から個人情報が不用意に漏れる事態が起きてしまったのでしょう。恐らく情報を渡した人間は、事故発生を個人情報保護法に言う例外的事例と捉え良かれと思いとった行動なのでしょうが、やはりその判断に至る考えが浅かったということに尽きると思います。

私が思う判断を浅くさせた原因は、あくまで仮説ですが、職務特性に起因するマーケティング的思考の欠如というものにこそあるのではないかと思っています。この場合のマーケティング的思考とは何かですが、モノや情報のやり取りに関してその良否の判断を、「出し手」の立場と「受け手」の立場両方の観点からしっかりと考える習慣がついているか否かということです。すなわち、モノの売買で言うなら売り手の立場と買い手の立場、双方をしっかりと勘案して販売価格や販売方法等について、双方の納得性の最大値を引き出す落とし所を見つけるという「マーケットイン」的思考習慣です。

今回のケースで言うなら、加害者の立場では「早期に直接お詫びをしたいから、情報が欲しい」でありますが、被害者の立場からは「今はその時期ではなく、そっとしておいて欲しい」であったわけです。しかし、警察官も教頭も被害者からの申し出により一方の当事者の立場だけでモノを考えたがために、事故における加害者側からの謝罪目的を例外的事例と取り違えるミスジャッジを起こし、良かれと思って情報を加害者側に渡してしまった。もちろん法の理解がちゃんとできていれば間違いは起きなかったわけですが、仮にそれがなくとも、被害者の立場でも自己の行動の良否を考えることができていたなら、このようなミスは常識レベルで起きえなかったはずなのです。

警察官と教師共に「取り締まる」「教える」という日常的に職務上強い立場にあるがために、ややもすると相手に対して精神的に比較優位に立ちがちで、マーケティングで言うところの売り手都合の「プロダクトアウト」的思考が強く、買い手の意向を踏まえる「マーケットイン」的になりにくい。この職業的特性こそが、今回の件に大いにかかわっているように思えるのです。ミスの根本は情報を渡した本人の不注意によるものであることは間違いありませんが、そのミスに至った不用意さを生んだものまで含めて、「こいつがバカでした」と単に個人の資質だけで片づけてはいけないのではないかと思うのです。

全国の警察、学校関係の方々には、本件を自己の職業的特性に起因する“落とし穴”の存在と言う問題提起としてとらえていただくことが必要なのではないかと思う次第です。

東電「総合計画」の承認は、政府の“やってはいけない”

2012-04-26 | ニュース雑感
27日に経済産業大臣宛提出予定の東電の再建計画である「総合計画」の全容が、本日の日経新聞に掲載されています。

一利用者の立場でこの計画を見た場合、やはり一番気になるのは家庭向け電気料金の値上げの項目です。東電の再生に向けて値上げという“国民負担”を強いることに関し国民の理解が何ら得られていない現状下で、シラッと「料金改定」として「3年間10%程度の値上げ」などと記されていることに、大きな違和感を感じざるを得ません。

日経新聞の記事によれば、東電のこの値上げによる増収効果は6500億円で、これは12年3月期の赤字見込額6950億円のかなりの部分をカバーできることを想定していると言います。さらに計画には柏崎刈羽原発の再稼働も盛り込まれ、この部分での燃料費の圧縮を750億円見込んでいると。すなわち、国民負担6500億円と担保されない国民生活の安全性と引き換えにした750億円で東電の赤字の埋め合わせをして、再建をはかろうという計画なわけです。これで国民の理解が得られるとお考えなのでしょうか。

なぜ国民負担を強いてまで無理な黒字化計画を立てているのか。東電は13年3月期、14年3月期2年連続の赤字決算は既に決定であり、問題は15年3月期が黒字化するか否かという点にあります。これは何か。東電が3年連続赤字決算となれば、取引銀行は東電向けの貸付金を「分類債権」として“不良債権”扱いし膨大な引当金を手当てしなくてはいけなくなるということです。そうなれば銀行は当然収益に大きな影響が出るわけで、今回の追加融資1兆円の協力にしても、不良債権化することが見えているお金を貸し出すわけにはいかない、という銀行サイドの論理があるのです。

簡単に言えば、この計画は銀行を損させないために国民負担を強いるということ。今回の総合計画を国が認めすんなり受理されるなら、7月に予定されていると言う家庭向け電気料金の値上げ申請を政府が認めたも同然というわけで、この計画の国の承認の可否こそ銀行負担よりも国民負担を優先した政府判断が下されるか否かの瀬戸際であると言ってもいいのです。まずは我々は今、「総合計画」の内容こそ生活に直結するかなり重要なものであると国民レベルで認識をしておきたいところです。

これまでも東電の再建の問題では何度も申し上げていますが、東電の処遇に関しては国民負担の前に株主責任および貸し手責任を問うのが正しいやり方であるはずです。すなわち、貸し手責任を明らかに後回しにせんがためのこのような計画は、絶対に認めてはいけない。まさしく、国民生活を第一に考えるべき政府の“やってはいけない”なのです。

今政府がすべきは、とりあえず値上げによる6500億円と加えて原発の安全性が担保されないなら原発再稼動による750億円は、一層の経費削減等によりねん出する計画に再構築させるべく、計画の出し直しをさせることです。結果、一層の削減による黒字化原資ねん出ができないのなら潔く破たん処理を急ぎ、株主責任・貸し手責任を問うべきでしょう。破たん処理に伴う等国民負担発生の有無はそれからの問題であるはずです。

一方東電の姿勢ですが、東電の削減がこれで目一杯なのか、こちらもいささか疑問です。詳しい計画書にどのように記載されいるのか分かりませんが、新聞報道を見る限りにおいては、削減は10年単位で金額を表示して無理やり金額を大きく見せようとしているかのようなやり方に、かなり恣意的なものを感じますし、その意味ではまだまだ組織風土として危機感が足りないのではないかと思えます。逆に誰が見ても「これ以上は無理だ」と思えるようなより具体性のある削減策を見せて欲しい。今回記載の給与の2割カット、人員削減1割、企業年金1000億円削減が本当に限界なのか、「やらなければ職を失う」というゼロサムの危機感を組織全員が持って、再度の削減策検討に取り組むべきであると思います。

いずれにしましても、政府は株主責任・貸し手責任追及に先立つ国民負担を認める本計画をこのまま承認してはいけないと、メディアも声を大にして訴えかけて欲しいと思っています。

東電破たん処理決断で、大飯原発再稼動に待ったを!

2012-04-13 | ニュース雑感
前回の続き的にもう一丁です。

大飯原発の再稼働決定を急ぐ政府。今世間で問題になっているのは、「安全性の確保」に確証が持てない状況下でなぜ再稼働を急ぐのか、です。前回エントリーで申し上げたように、「再稼働」に関しては票勘定にも直結する諸々の既得権者とのしがらみがあることは明白。これは時間をかけてシロアリ”退治をしていくほかにないのでしょう。ただ「急ぐ」という点に絞りその理由を正すことに関しては、“シロアリ”になし崩し的に逃げ道を作らせないためにも、今問題視することの優先順位はもっとも高いと思います。

なぜ急ぐのか。この夏の関西電力の電力供給が不足するとされるからというのがその最大の理由ですが、他社融通などを最大限考慮することで実際には問題ないと言う意見も多々聞かれています。それが現状確実性のあるものであるか否かは分かりませんが、国民の安全性の確保という問題は何をおいても最優先で考えられるべきものであり、専門家をしても安全性の確保に確証が持てない現状では、原発はなきものとしていかに夏を乗り切るかの方策を考えるのが筋であり、政府も関西電力もいっぱしの大人であるならその程度の判断は容易につくはずなのです。

なのに再稼動を急ぐ、どうみても急ぎ過ぎというのはおかしいわけです。そこで「急ぐ」のには別の“大人の理由”があるはずだ、ということで考えられるのが前回エントリーで申し上げた「東電再建計画の前提条件となる原発再稼動の必要性」です。要するに、官僚・民間問わぬ“シロアリ”軍団に囲まれた政府は、自己の利益を優先しなんとしても東電を破たんさせずに再建させなくてはならないという“不退転の決意”に至っているわけです。そのためには、再建計画の提出が迫る中、急いで原発再稼働の既成事実を作り上げておかなくてはいけない、という図式になるのです。

となれば安全性の確保が間々ならない状況下で、原発の再稼動を思いとどまらせる方法はただ一つ。政府が今このタイミングでこそ、東電の破たん処理を決断すること以外にありません。この問題は何度となく当ブログのエントリーでも申し上げてきました。実質破たん状況にある民間上場企業を株主責任も貸し手責任も問うことなく、政府の手によって再建支援をするということは著しく市場原理を損なうことであります。さらにフリー・フェア・グローバルを旨とする国際社会のルールから見れば、至ってアンフェアなこのやり方は我が国の国際信用力さえも損なうことになると思うのです。

株主であり貸し手である公共性を帯びた大銀行団は、政府の資本注入を前提として利用者に対する背反行為ともとれる追加融資をおこない、経団連会長は東電は民間活力を損なわないためにも政府が経営関与せずに再建支援すべきであるなどとのたまう。結局、政府の保護下にある日本古来の独占的電力ビジネススキームに群がる“シロアリ”軍団が織りなす茶番劇に無責任政府が踊らされ、国民生活の安全性が脅かされる状況になるつつあるわけです。もう一度申し上げます。諸悪の根源は既得権者だけが守られる東電の延命策です。

国民の目を巧みに欺きつつ、ずるずると行きかけた東電の政府による再建支援。大飯原発再稼動を不自然に急ぐというリスク行為としてその悪影響が表面化した今こそ、政府の責任において被災者保護を法的にカバーした上での破たん処理、分割売却、発電・送電分離等による我が国電力事業の再構築を決断すべきであると思います。まずやるべきは、東電破たん処理への着手です。政府は国民生活を守るのか、それとも既得権者のみを守るのか、すべてはこの決断で明らかになるでしょう。メディア各社も、今こそ政府に決断を迫るべくこの問題を力強く論じるべき時であると思います。

原発再稼働へ突き進ませるビジョンなき“政治屋的判断”

2012-04-12 | ニュース雑感
政府による関西電力の大飯原発の再稼働に向けたGOサインが、週内にも出されるそうです。私は原発の専門家ではないので、その安全性についてとやかく申し上げる立場にありません。なので、前回エントリーでも取り上げた本来あるべき「政治的判断」と現政権が下そうとしている「政治的判断」のかい離という観点から、原発再稼働に関する問題点を探ってみようと思います。

今回の原発再稼働論議は、政府の「政治的判断」を前面に押し出しての強引な展開から隠したハズの「再稼働ありき」姿勢が透けて見えてしまう、という点が最大の問題であると感じています。「政治的判断」を再稼働の判断基準にするのであれば、前回のエントリーでも申し上げた通り、政治がどのようなビジョンを持ちそれに基づいて現状に対する判断をいかに下すのかが明確でなければならないハズです。

今一度「政治」に関する橋下大阪市長の分かりやすい定義を引用します。
「国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める。その上で、喫緊の課題への対応策からとりあえずこうさせて欲しいと説明をする。これが政治だ」。

個人的に同意できるこの定義に沿って考えるなら、仮に原発を再稼働するとしても「政治」は、まず日本国の将来像を考える中でのエネルギー政策に関して明確なビジョンを提示し、その上で現状電力不足もありうるという状況を踏まえた暫定措置として具体的な安全対策を前提に一時的な再稼働を決断するべきです。それができてはじめて「政治的判断」により再稼働へ導いたと言えるでしょう。

ではなぜ今回、「政治的判断」ならぬ“政治屋的判断”とも言えそうないい加減な「判断」により、再稼働への道を突き進んでしまうのか。関西圏における夏の電力不足が喫緊?いやそれはあくまで表向きのお話でしょう。原発を再稼働させなくてはいけない最大の理由は、関電ではなく東電にあるとみています。

東電救済の前提条件として現在策定中の再建計画は、国が資本注入をしてもしっかりと利益を出してこれを返済しつつ企業再建を果たすというシナリオが前提になっています。東電はつぶされまいとして必死に再建の絵を描いている訳ですが、早期に利益を出しての企業再建に信ぴょう性を持たせる計画づくりは「料金の値上げ」と「原発の再稼働」が前提条件にならざるを得ない模様です。しかもこの計画の提出と政府の承認はリミットが迫っている。だから今、急ぐ理由が見えないまま大飯原発再稼働に突っ走る以外にないのでしょう。

原発の再稼働なくして東電の再建計画は成立しない。ならば常識的には、福島第一の先行きさえ見えない現状下で原発の再稼働による世間の波風を避け、東電の再建計画は白紙化して破たん処理を検討したらいいと思いませんか。現政権の“政治屋的判断”が介入しないなら、そう結論づけられてしかるべきなのですが、どうも政治家ならぬ“政治屋”さんはそう単純にはいかないようです。

そこでその理由をさぐるべく、「風が吹いたら桶屋がもうかる」式に少し考えて想像してみます。東電の再建計画が成立しないなら、国による再建支援はとん挫する。国による再建支援がとん挫するなら、東電は破たん処理を余儀なくされ株主責任や貸し手責任が問われることになる。株主責任、貸し手責任が問われるなら、株主責任や貸し手責任を問われた膨大な者たちの恨みつらみが選挙票に影響する。それじゃ困るということになる。

しかも金融機関は不良債権が急増し、国としての対策が必要になる。金融機関対策が必要になって血税資本注入だなんだとなれば財務省が矢面に立たされる。それは困ると賢い財務官僚が東電を破たんさせた場合の最悪シナリオを政治家に提示して、国家危機をにおわせ脅しをかける。するとトロい政治家はまんまと東電再建ありきの結論に行き着いてしまう。これが今回の原発再稼働を後押しする「政治的判断(=政治屋的判断)」の大きな根拠に違いない、と私は思っています。

もちろんそれがすべてはないでしょう。原発ありきで我が国のエネルギー政策がここまで進んできた以上、株主や貸し手以外にも原発が再稼働しないと困る人や企業が世にたくさんいることは想像に難くない訳で、来るべき総選挙を視野に入れた場合今以上に票を逃がすようなことはしたくない、そんな民主党代表としての総理の別の「政治屋的判断」も多分に働いているのではないかと。

すなわち以上を総括すれば、既得権益堅持にからむ票の力学と官僚主導が世にはびこることで“政治屋的判断”が生まれおかしな結論に導かれてしまう。ハッキリ言って日本の政治が腐りきっていることが今更ながらよく分ってしまうのです。だからこそ邪悪な流れを断ち切るためにも今、政治主導を標榜したはずの現政権は、福島第一の悲劇を日本の現在のエネルギー政策の過ちとするのか否か、それを受けて今後の我が国エネルギー政策をいかに描くのか、明確なビジョンの提示が必要なのです。そのビジョンの下で、今をどうするのかが指し示されるのなら、“政治屋的判断”が入る余地のない原発再稼働議論が展開されるはずなのですから。

ビジョンなきところは様々な利権がツケいる隙だらけ。従い、ビジョンなきリーダーシップは邪(よこしま)なモノになりがち。原発再稼働の動きを巡る今の政治のあり様からは、企業経営にも通じるそんな真理を改めて痛感させられる次第です。

“レバ刺禁止問題”は、原発再稼働問題にも通じる「政治判断」を定義する好機

2012-04-05 | ニュース雑感
厚生労働省は食中毒を防止するため、飲食店が生の牛レバー(肝臓)を「レバ刺し」などとして提供することを法的に禁止する方針を決めた。小売店が生食用として販売することも禁じる。専門家でつくる厚労省の薬事・食品衛生審議会の部会が同日、提供を禁止すべきだとする見解をまとめたため。厚労省は近く内閣府の食品安全委員会に諮問。答申を受け、6月にも食品衛生法の規格基準に提供・販売を禁止する項目を盛り込む。違反すれば「2年以下の懲役か200万円以下の罰金」が科される。(ニッカンスポーツ・ドットコムより抜粋)

このニュースを受けて今週、「レバ刺禁止令」の是非についてが焼肉ファンの間でけっこうな話題になっているようです。そもそもの事の発端は、昨年4月に発生した生の牛肉を調理したユッケにより5人が死亡した焼き肉チェーン店の集団食中毒事件。厚労省は昨年10月、生食用牛肉の提供基準を厳格化し、ユッケより食中毒件数が多い生の牛レバーについても規制を検討していたところ、牛の肝臓内部から重症の食中毒を起こす恐れがある腸管出血性大腸菌O157が見つかったため、と言います。調査に頼ったこの決定、正しい対処と言えるのでしょうか。

個人的には、レバ刺には必ずしも大腸菌O157が含まれるというものではない以上、即提供・販売禁止にするというのはいかがなものかと思っています。生モノに食中毒はつきものであり、フグの肝のように明らかな毒物の提供を禁止するのは分かりますが、管理当局がそのリスクを知らしめ認識させ自己責任において食べることに何の問題があるのか、全く理解不能なのです。これまで、我が国で何十年と食用に供してきた食べ物であり、たまたま昨年の事件を発端として食品衛生上の管理問題が浮上したがための今回の措置。いきなりの「禁止令」に、焼肉ファンが戸惑うのも納得であります。さらに、このような安易な決定は、新たな問題発生の懸念があることも考えなくてはいけません。

リスクのあるものを管理対策を飛び越えてとりあえず廃止するというやり方は、「管理」の観点から言えば一番楽な方法ではありますが、管理者の管理放棄以外のなにものでもありません。納得性の乏しい「禁止令」の弊害は、「闇取引」という形で必ず現れます。そういった取引可能な“闇”を作り出せば、その暗躍者として反社会的勢力の“食いぶち”を作り出すことにもなるのです。つまり、「200万円以下の罰金」という取引リスク価格を公が決めることで、“闇レバ刺”がその基準に照らし合わせられた高値で取引され暴力団の新たな資金源になるという可能性も考慮しなくてはいけないのです。

さらにもうひとつ、禁止されたものをあえて欲しがるという人間心理にも新たな問題が潜んでいます。「ニーズ」があればそこに「闇」であれ提供者が現れることは自然の流れであり、今回の「一律禁止」という手抜き対応により衛生面での明確な取り扱い基準が提示されないことから、先の反社会的勢力等が扱うケースも含めO157以外の取扱衛生面の原因による不要な食中毒などの被害者が出る可能性も否定できません(もちろん、法で禁止されている以上、欲しがる奴や食べる奴が悪いとはなりますが)。すなわち、食中毒を減じようとして出した「禁止令」が、かえって別の問題事象の発生率を高めてしまうリスクもあるのです。

このようにちょっと考えただけでも、厚労省の薬事・食品衛生審議会の部会の調査結果だけではレバ刺「禁止」の可否を安易に判断できない問題が存在することが分かります。さらにネット上で「禁止」に動揺してさまざまな意見を寄せる愛好者や取扱業者など、長年日本的食文化としてレバ刺に親しんできた“関係者”の思いや彼らが望むことも多く存在するわけで、これらにも一定の斟酌を加え単に調査結果だけに因らない最終結論を導き出す必要があるのではないかと思うのです。

調査により、リスクの存在が明らかになったものを即「禁止」するというのは、責任回避的風潮の強い官庁文化の表れでもあり、本当に「禁止」すべきか否かはその先での調査結果にとどまらない総合的なリスク検討や国民の要望や文化の観点からの可否検討等「政治判断」があってしかるべきなのではないでしょうか。議会は立法府として省庁のいいなりになるのではなく、ひとつひとつの問題に、「政治的判断」としてしっかり「総合的な判断」を下す責任があると思うのです。

今回の「禁止令」の可否問題は、表面上は取るに足りない食べ物の話にすぎません。しかしその実、「原発再稼働問題」にも相通じる、「安全性の判断」は省庁等専門部署の役割ではあるがそれをもって国民生活に影響を及ぼすような法制化に係る「継続可否」の最終判断とすべきではないこと、法制化に至る「継続可否」は行政府の「安全性判断」を受け総合的見地から最終決定する「政治判断」によりおこなうべきであること等、行政府と立法府の本来の役割の明確化が問われる重要な問題であると感じる次第です。