新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

鉱山探し③ 小坂/鴇鉱山

2020-09-05 23:35:38 | 鉱山

相内鉱山の後、一度小坂に戻って、未だ言ったことのなかった小坂七滝の道の駅に。小坂に戻る際に、ついでに鴇(ときと)鉱山跡も探してみました。鴇集落から大分奥に入口の標識がありましたが、そこから先は雑草に埋もれて、行けば熊と友達になりそうでしたので、標識までで今回は撤退。

鴇鉱山は、延宝6年(1678)に発見され、南部藩の藩営鉱山となり、現地で選鉱、製錬まで行われた。その後は中断と再開を繰り返し、明治35年(1905)にはかなりの盛況になり、近くに鉱山集落が出来た。同40年に藤田組(現DOWA)が買収して鉱夫375人で採掘を行い、国内重要鉱山にも指定され、索道で小坂製錬所まで鉱石を運搬したとのこと。

大正10年(1921)に選鉱場が焼失し、そのまま閉山となった。戦後の昭和30年、同和鉱業㈱(現DOWA)が探鉱を行ったが、すぐに閉山。

遺構として、レンガ造りの煙突やカラミ捨て場、選鉱場の跡地等が残されているそうです。また川沿いの道は鉱石運搬用のトロッコ線路の跡で、毛馬内まで続いていたという。

(小坂・カラミ(製錬滓)処分場)

その後小坂に戻り、大規模リサイクル施設として現在稼働中の小坂製錬の周辺をウロウロして、旧小坂鉱山も少し見ることが出来ました。見れたところ、雑草などで見られなかったところ、いろいろありましたが、小坂の周辺を3時間以上もウロウロ出来たのは、今回初めてで、面白かったです。


鉱山探し② 小坂/相内鉱山

2020-09-05 23:32:07 | 鉱山

次に古遠部鉱山跡に来る途中に道路標識で見つけた相内鉱山。入口には石碑があり、すぐ先には茶褐色の水が溜まる沈殿池を発見。その先にも砂利道が続いていたので、木製ゲートがありましたが、チェーン等がなかったので、行けるところまで、と思って1キロ程走ると、坑道入口発見。かなり感激でした。排水がまだ勢いよく流れ出ていました。戻って調べたら中切坑口だったようです。

相内(あいない)鉱山は文久元年(1861)とも伝わり、昭和初期まで個人が鉱業権を設定。昭和初期から開発規模が拡大し、昭和8年(1933)には小坂製錬所に黒鉱を売鉱した記録が残り、戦時中の昭和18年には戦時緊急開発重要鉱山に指定され、700人の鉱夫が露天掘りを行ったという。

戦後の昭和25年(1950)に大揚鉱業㈱によって再興され、大規模鉱床の発見で本格的な開発が行われ、昭和32年には大揚鉱業(青森)と蔵王鉱山が合併してできた日東金属鉱山に移譲され、昭和60年(1985)鉱石市況の悪化などにより閉山した。

現地は、休廃止鉱山鉱害防止工事などによりズリ山や選鉱場跡などは整地済みで、季節柄、深い藪になっていました。長居すると熊と鉢合わせになりそうでしたので、早々に撤退。


鉱山探し① 小坂/古遠部鉱山

2020-09-05 23:25:53 | 鉱山

先日の鹿角大湯ツアーでは、温泉3湯に入浴後、日中の気温が35℃予報で、早い時間に帰るのが危険な状態でしたので、温泉の次に鉱山探し。鹿角の北には鉱山の街、小坂があります。

まずは小坂鉱山事務所(移設)の駐車場で、地図を見て鉱山のおよその場所を確認。最初は県境近くの古遠部鉱山跡。国道282号沿いにあるとのこと。現地に着くと、木の間から建物が見えましたが、立入禁止で工事中。入口の案内板だけで我慢。時期的に葉が茂って、雑草が伸び放題のこの時期は、本来、鉱山巡りの時期ではありません。

古遠部(ふるとうべ)鉱山は明治44年(1911)に尾去沢鉱山を経営していた三菱鉱業㈱が西部を発見。東部は太平洋戦争前は倉持山鉱山として、戦後は東又鉱山として個人が開発、のちに三菱鉱業㈱が買収して古遠部鉱山に合併。本格的な採掘が行われたのは、昭和33年(1956)と秋田県内でも後発の鉱山で、立て続けに鉱床が発見され、昭和38年に運搬坑や選鉱場など、他の鉱山と比べて近代的な構造物が建設されました。

昭和51年古遠部鉱業㈱として分離独立し、昭和61年(1986)に鉱石枯渇で閉山。当時、従業員は尾去沢からバスで通勤し、鉱山集落は出来なかった。現在も大型の建物が残り、一部廃墟マニアの間では知名度が高いようです。

のち