9時、起床。ブロッコリーと茄子の炒め、鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、トースト、アイスミルクティの朝食。
昼から大学へ。1時15分んから本部で教務主任検討会。
会議を終えて、本部キャンパスでやっていた早稲田青空古本市をのぞく。平岡敏夫『〈夕暮れ〉の文学史』(おうふつ、2004)という本を購入。4800円→2000円。
「〈夕暮れ〉に興味を持ちはじめたのは、芥川龍之介の小説が「或日の暮方の事である」(『羅生門』)、「或曇つた冬の日暮れである」(『蜜柑』)のように、「暮方」「日暮」からはじまるものが多いということに気づいて以来だった。芥川こそは〈夕暮れ〉の魅力、方法に自覚的な作家だと思うようになった。」(あとがき)
教務部に寄って、来週末の高知出張のチケットを受け取る。往きはJR、還りはJALにした。
大隈会館の「楠亭」で昼食をとる。ロース焼肉定食(1000円)を注文したのだが、運ばれてきたものを見て、肉片のあまりの小ささに思わず「えっ?」と言いそうになった。これで茶碗に大盛のご飯を食べきることができるのだろうかと思った。実際、肉だけをおかずにしたのでは無理だったと思うが、味噌汁と焼肉のつけだれをおかずに(たれをご飯にかけて)食べ切った。
5時から再び本部キャンパスで別の会議。会議の前にポータルオフィスによって研究室で使っている貸与PCの修理をお願いする。親切な対応に感謝。
5時からの会議は1時間ほどで終るものと思っていたが、2時間かかった。途中で4年ゼミ長のM君に電話をして、先にグループ発表を始めていてくれるように指示する。
教室に行くと、発表はもうおわってしまっているかもしれないとの予想に反して、まだ続いていた。それも3人組の報告のまだ2人目だ。けっこう長めの報告である。テーマは「若者とナショナリズム」。
本日のスイーツは3年ゼミ長のN君が調達してきたミルフィーユ
7限は学年に分かれてのゼミ。私は3年生の方に出る。M君とSさんのブックレビュー。「生きづらさ」ということがキーワードとして出てきたので、みんなはいま生きづらさを感じて日々を送っているのかと尋ねたら。そうでもないようである。もっともいきなり教室でこういう質問をして、正直に「はい、生きづらさを感じています」と答えるとも思えないので、私が子供のときに感じていた生きづらさについて話をした。
それは2つのエピソードから成っている。1つは、小学生のある日、私は自分もいつか死ぬのだということに気づいてしまったこと。もちろんそれ以前に死ということについては知っていた。同居していた祖父の死も祖母の死も経験していたし、縁日で買ったひよこや拾ってきた子猫の死も経験していた。生物は死ぬ。しかしその中になぜか自分という人間は入っていなかった。自分を不老不死の人間と考えていたわけではない。自分もいつか死ぬということを知らなかったわけではないけれど、そのことを真剣に考えたことはなかったというのが正確だろう。ある日、どういうわけか、そのことを真剣に考えてしまったのである。ショックであった。その日の夜、私は布団の中で泣いた。田山花袋の小説『蒲団』の主人公のようにめそめそと泣いた。母がそれに気づいて、なぜ泣いているのかと尋ねた。死ぬのが悲しいのだと正直に答えると、親をからかうのかと叱られた。泣きっ面に蜂とはこのことである。
もう1つのエピソードは、やはり小学生の頃のことで、私は自分の周りの人間はみな演技をして自分をだましているのだと考えていたこと。親は親のふりをしているが本当は親ではなく、隣のおばさんも隣のおばさんのふりをしているが本当は隣のおばさんではなく、魚屋さんも魚屋さんのふりをしているが本当は魚屋さんではないのだと。いや、周りの人だけでなく、TVの画面をとしてみる有名人たちも、野球選手や歌手や政治家のふりをしているだけで本当はそうではないのだと。私が見ていないとき、彼らは休憩している。だから私は彼らを出し抜いてやろうと、道で突然後ろを振り向いてみたり、眠ったふりをしていて突然目を開いてみたり、鏡を使って背後を見たりしてみた。しかし彼らはそんな私の作戦などお見通しでちゃんと演技を続けていた。大人になってから、ジム・キャリー主演の映画『トゥルーマンショー』を観たとき、私はそこに私が子供の頃に考えていた世界の仕掛けが描かれているのをみて驚いたものである。
私の話を聞いた多くの学生は笑っていた。変わった子どもだったんですねという顔をしていた。しかし、数人の学生は「実は、私もそうでした」と心の奥の秘密を打ち明けるように言った。いままで誰にも言えなかった、あるいは言ったけど相手にしたもらえなかったことが、「君だけじゃない」と言われたのだから、感慨もひとしおであったろう。私の話したエピソードはピアジェの言葉を借用すれば子供に特有の自己中心的思考の一形態(いくらか病理的な)である。
ゼミの後、次回のグループ発表の担当班が私のところに相談にきた。その3人グループのうち2人は私のエピソードに共感した学生であった。他の1人に向かって「君だけ仲間外れだな」というと、彼は「そ、そんな・・・」と困惑の表情を浮かべた。こうして彼もまた生きづらさを感じることになるのである。
夕食は牛丼の梯子をした。昼食の恨みを晴らすためであった。
一軒目は、最近早稲田の地下鉄の駅のそばにできた「東京チカラめし」の焼き牛丼。牛肉を炙っているのが特徴である。そしてなかなかのボリュームである。通常は320円だがいまだけ280円で食べられる。味噌汁はついてくる。ただし薄い。生卵とお新香を別注して合計420円なり。
二軒目は蒲田の「吉野家」の牛丼。牛丼といえば吉野家であるが、新興勢力に押されて苦戦状態にあるようだ。つゆ多めの注文で、トン汁を別注。トン汁は100円出す価値がある。肉は「東京チカラめし」の後だと少ない(薄い)なと感じる。生卵と一緒のほうがよい(今回はカロリーを考えて頼まなかったが)。無料の紅ショウガは吉野家のえらいところである。会計のとき、店員さんに、「ご飯の量はそのままで、肉だけ増量してもらいたいときはどう注文したらいいの?」と尋ねたら、「そのとおりに言ったいただければ大丈夫だと思います」と答えたので、「その場合、値段はいくら?」と重ねた尋ねたら、どうも新米の店員さんだったようで、「値段は同じだと思います」と答えた。それはありえないだろう。わざわざ店長を呼び出して尋ねるほどのことではないので、そのまま店を出たが、「大盛。でも、ごはんは少な目で」とかいうのかな。