6時半、起床。なんて健康的な一日の始まりだろう。朝食前に近所を散歩する。隣の長円寺の桜は今日が満開のようである。
田んぼや畑があって、その向うに山がある。都会に暮らしていると忘れがちだが、これが日本の典型的な風景である。
パンと紅茶と、野菜と果物たっぷりの朝食をゆっくりと食べてから、K夫婦の車に乗って、富士見平のスキー場に行ってみる。Kの別荘のベランダから眺めていた甲斐駒ケ岳を東側から見るロケーションだ。ゲレンデでは少年たちがパラグライダーの練習をしていた。
さらに車を走らせて、小淵沢の近くの「眞」という蕎麦屋をめざす。Kに言わせると、ここらあたりで一番の蕎麦屋だそうだ。11時の開店時間まで少し間があったので、近所を散策する。昨日今日の好天で、草花がいっせいに盛りを迎えている。
「眞」は中央線の横の小高い場所にある。11時の開店と同時に入るつもりで行かないとならないのだとKは言う。開店5分前についたわれわれは一番手だった。蕎麦茶と一緒に出されたのは野沢菜のおひたしである。これがとても美味しかった。今朝、近所でとってきたのだという。 K夫婦はもり蕎麦+追加を2枚、私はとろろ蕎麦。食べる前に追加の注文をしておくというのは不思議な感じがしたが、意味は間もなくわかった。私がとろろ蕎麦をうまいうまいとぺろりと食べて、追加の蕎麦を注文しようとしたら女将さんが申し訳なさそうに「ごめんなさい」と言った。いま注文を受けている客の分しか蕎麦はもう残っていないようである。 時間はまだ11時半である。開店からわずか30分。すでに店内は満席で、とはいっても10人ほどだが、どの客も常連さんなのだろう、最初から追加の蕎麦を注文しているので、蕎麦の注文は見かけの客よりも二倍多い計算になる。蕎麦打ちの職人はこの家の息子さんで、職人気質というべきか、日によって蕎麦の出来に微妙な違いがあるようで、今日は納得のいく蕎麦を打つのにいつもより時間がかかり、したがって蕎麦の量が少ないらしい。われわれが勘定を済ませて、店を出るとき、入口に「今日は蕎麦終わりました」の札か掛けられていた。近所の人なのだろう、いそいそやってきた客が札を見て残念そうに立ち尽くしていた。時刻は11時45分である。
車に乗って移動。どこに行きたい?とKが聞くので、温泉に入りたいと答えた。帰りの電車は3時50分茅野発のあずさ24号である。それまで4時間ある。ひと風呂浴びて、のんびりしてから、どこかコーヒーの美味しい店があったら連れて行ってくれ。ペンション村として有名な原村に樅の木荘という村営の宿があり、娘が小さいときに一家で泊まったことがあるのだが、そこの湯に入ることにした。K夫婦はその間、二人でドライブを楽しむというので、1時間半後に合流することにした。樅の木荘の湯には露天風呂があり、室内の風呂と露天の風呂の両方に入ったが、やはり露天風呂は野趣に富んでいる。湯につかったり出たりをくり返していると、山猿にでもなったような気分だった。30分ほどで湯から上り、銭湯の基本であるコーヒー牛乳を飲んでから、大広間でお茶を飲みながら売店で買った手羽先を食べたりしていたら、1時間はすぐに経った。
K夫婦と合流して、「グリーン・エッグ」というスイーツカフェへ行く。K夫婦も初めて来る店だったが、苺のタルトと紅茶を注文したら、セット価格というものがないかわりに、自家製のアイスクリームと果物がついてきて、とても美味しかった。さらにメニューを見ていたらパッタイというベトナム風焼きそば(ビーフン)がなんだか美味しそうだったので、一皿注文して、3人でシェアーして食べてみたのだが、これがまた実に美味しかった。私の気まぐれに笑いながら付き合ってくれたK夫婦も、「大久保が来ていなければこのカフェに入ることもなかったかもしれない。いい店だね。また二人で来てみたい」と言っていた。
電車の時刻が近づいていた。茅野駅に向かう途中の公園の桜並木が満開だったので、車から降りて、写真を撮る。桜の花がヒラヒラと舞い降りていた。K夫婦とは改札口で握手をして別れた。また会おう。
新宿には6時4分に着いた。山のない風景。ビルの谷間という言い方があるが、確かに、都会ではビルが丘であり、山なのだ。そして改めて人がひしめき合っている場所であることを実感する。私はKほどには田舎暮らしへの憧れはないが、それは感覚のある部分がたぶん麻痺しているからではないかと思う。都会という環境に適応するためにはそうした一種の感覚遮断を必要とするのだろう。私に必要なのは、田舎暮らしそのものではなく、田舎暮らしに憧れる友人である。そうした友人を介して、私は田舎暮らしをこれからもたまに経験するだろう。当面は、それで十分なような気がする。