9時、起床。 曇天で、いつ雨が降り出してもおかしくはない。GW後半の天気はあまりパッとしないようである。
昼過ぎ、昼食をとりがてら散歩に出る。「鈴文」の前を通ったら、比較的空いていたので、暖簾をくぐる。ランチのとんかつ定食を注文。定員さんに「おひさしぶりですね」と言われる。そうだっかなと後で調べたら、前に来たのは地震より前の3月6日だった。なんと2ヶ月ぶりである。お久しぶりもいいところだ。地震の後に1度来たつもりでいたのは、夢の中のことだったのかもしれない。
腹ごなしにしばらく散歩をする。商店街のイベントだろう、駅前に動物型のエアドーム(というのだろうか)や動物の着ぐるみ隊の姿がある。
食後のコーヒーは「テラス・ドルチェ」で。鞄から『必修基礎演習ガイドブック』を取り出して、読む。私はこのガイドブックの編集責任者だから、校正作業の過程で、中身は何度も読んでいるが、今日は実際に授業でこのガイドブックを使う場面を想定して、どんなふうに授業を進行するか、そのシナリオを考えながら、いうなれば、演出家の立場で読む。ここでこんなコメントをしよう、ここでこんな質問をしてみよう、ここでこんな資料を提示してみよう・・・、思いついたアイデアをガイドブックの余白に書き込んでいく。90分の授業の構成がだんだん見えてくる。途中で、場所を「シャノアール」に移して(コーヒー一杯で一時間、ギリギリ一時間半、というのが私の感覚である)、作業を続けた。
ガイドブックは第一部「読むレッスン」、第二部「書くレッスン」の二部構成になっている。今日は第一部に入っている6本の文章を読んだ。
堀江敏幸 伊豆半島問題を論ず ―志賀直哉「真鶴」を読む
長谷正人 分からないという経験 ―ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」を読む
都甲幸治 枠組みを疑うということ ―スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』を読む
小沼純一 音楽の特異なありよう ―オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』を読む
沖清豪 歴史的文献を読み解き、現在を批判低に捉え直す ―J.デューイ『学校と社会』を読む
鶴見太郎 「節」を守った人の書く日本論 ―杉本鉞子『武士の娘』を読む
任意の作品を素材にして(ダシに使って)、「読む」という行為について語ってください、というのが私から各先生に依頼したテーマである。たとばえ、巻頭の堀江先生の文章は、志賀直哉の短篇小説「真鶴」を素材して、「読む速度を極端に落としてみる」ことを提唱したものである。速度×時間=距離であるから、読書にあてる時間が一定だとすると、読む速度を極端に落とすと、距離(読む量)は極端に小さくなる。事実、堀江先生は「真鶴」という文庫本でわずか数頁の作品の全体ではなく、最初の一段落だけを取り上げる。
「伊豆半島の年の暮れだ。日が入って風物総てが青みを帯びて見られる頃だった。十二三になる男の児が小さい弟の手を引き、物思わし気な顔付をして、深い海を見下ろす海岸の高い道を歩いていた。弟は疲れ切って居た。子供ながらに不機嫌な皺を眉間に作って、さも厭々に歩みを運んで居た。然し兄の方は独り物思いに沈んで居る。彼は恋と云う言葉を知らなかったが、今、其恋に思い悩んで居るのであった。」
第一段落は7つのセンテンスから成る。堀江先生は、その7つのセンテンスを1つ1つ取り出して、考察を加えていく。堀江先生の文章は400字詰原稿用紙に換算して15枚であるが、この7つのセンテンスの考察に大部分が割かれている。たとえば、最初のセンテンスに対する考察は次のようなものである。
「年の暮れ、とありますから、十二月の末、季節は冬です。なんの変哲もないはじまりに見えて、これは大変な書き出しではないでしょうか。とても身辺の細々した出来事ではありません。読みようによってはじつに壮大な規模の語りです。伊豆半島とその位置は理解できるとしても、範囲があまりに広すぎて、その中のどの区域に語りの視野を限ればいいのか、判然としません。高田馬場周辺の年の暮れだ、であれば、まだ想像はできるでしょう。それがいきなり伊豆半島なのです。もちろん意味は通りますし、第一文の前に存在する題名が地名なのですから、真鶴を知っていれば範囲の確定も不可能ではありません。
しかし、立ち止まって考えてみると、この一文はじつに奇妙な印象をもたします。いったい、ここでは誰が語っているのでしょうか。「私小説」とか「心境小説」と呼ばれている物語とも言えない物語の語りを担う一人称でしょうか。どうもそうではないように見えます。むしろ非人称的な視点で、伊豆半島全体を俯瞰している衛星の、カメラのレンズを想像させないはしないでしょうか。志賀直哉を評してしばしば言われた「小説の神様」だからこその「神様の視点」であったとするならなおのこと、第一文は、伊豆半島の温泉町を舞台とした三世代にわたる一族の物語の、大長編小説の幕開けだと言っても通じるでしょう。」
楽しい知的な散策である。「高田馬場周辺の年の暮れだ」には、読者に対するサービ精神を感じて、思わず微笑んでしまった。途中、「立ち止まって考えてみると」とあるが、ゆっくり読むどころか、立ち止まってさえいるのである。こんな感じで、1つ1つのセンテンスについて考察が行われているのだから、なかなか先に進まないわけである。当然、第二段落以降、この話がどう展開するのか、少年の恋の相手は誰で、彼の恋はいかなる展開をするのか、については一切触れられていない。私自身は、「真鶴」は既読の作品なので、それについては知っているが、大部分の学生は未読であろうから、知りたくてうずうずるであろう。知りたくてうずうずするかどうかが、文構・文の学生としての一種のリトマス試験紙であるといえなくもない。堀江先生の文章の末尾には、志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫)の中に「真鶴」が入っていることが記されている。学生への質問のリストに、「堀江先生の文章を読んだ後で、本屋や図書館に行って、「真鶴」を読んだ人は?」というのを加えておくとしよう。
作業をひとわたり終えて、「シャノアール」を出る。東西の駅ビルの本屋を梯子する。改札横の券売機の上には路線図兼運賃表が掲示されている。券売機で買える切符の上限は1620円となっている。1620円でどこまで行けるか。四方八方に広がっている路線図を見ていたら、「真鶴」があった。東海道線で熱海の二つ手前だ。1450円あれば行けるのか。もっとも、行ったら帰ってこなくてはならないから、2900円が必要ということになる。真鶴には、子供の頃に一度、行った記憶がある。岩がごつごつした海岸の潮溜まりで遊んだことを覚えているが、当時、誰かに恋をしていたかどうかは覚えていない。
帰宅してから、一階の書庫に行って、『志賀直哉全集』(新版・岩波書店)の第三巻を取り出して、何十年かぶりで「真鶴」を読み返してみた。驚いたことに、少年の恋の相手は私の記憶とは違っていた。記憶とはあてにならないものである。
我恋は千尋の海の捨小舟(すておぶね)寄る辺なしとて波のまにまに