陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

722.野村吉三郎海軍大将(22)これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う処とは考えられない

2020年01月24日 | 野村吉三郎海軍大将
 一九〇五年(明治三十八年)、フランクリンは第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)である、アナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。

 結婚式には、第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わりに出席した。二人の間には六人の子供が生まれた。

 一九〇八年(明治四十一年)コロンビア大学ロースクール卒業。ウォール・ストリート法律事務所。

 一九一一年(明治四十四年)ニューヨーク州議会上院議員。フリーメイソンに加入。

 一九一三年(大正二年)三月海軍次官。一九二〇年(大正九年)民主党の副大統領候補として大統領選挙に敗れ、政界を引退。弁護士業に従事。

 一九二一年(大正十年)八月十日、フランクリンは、ポリオを発症し、その後遺症で、下半身が麻痺した。以後日常生活では車椅子を常用した。三十九歳だった。

 一九二九年(昭和四年)一月、ニューヨーク州知事。一九三三年(昭和八年)三月四日~1945年(昭和二十年)四月十二日、アメリカ合衆国第三十二代大統領。アメリカ合衆国史上最長の任期だった。

 大統領在職(四選)中の1945年(昭和二十年)四月十二日、昼食前に脳卒中で死去。享年六十三歳。第二次世界大戦の終結と勝利を目前にした死だった。歴代大統領唯一の身体障碍者の大統領だった。

 以上が、第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトの経歴である。以後は、野村吉三郎の話に戻る。

 アメリカでの海軍駐在武官当時(大正四年~大正七年)の野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦中であったから、彼の武官としての活躍は頗る多忙を極めた。それで、よく車を走らせた。

 その頃の習慣であろうか、昭和三十五年当時、八十三歳の野村吉三郎のドライブ趣味は、ますます盛んであった。暇を見つけると郊外へ車を走らせることが唯一のレクレーションとなっていた。

 駐在武官当時、ドライブ好きの野村吉三郎大佐は、車を運転して、ニュージャージー州ニューワーク郊外オレンヂに住む、発明王エジソンを訪問した。

 野村吉三郎が訪れた、発明王エジソンの住宅兼研究所はまことに簡素なもので、「これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う処とは考えられない」と、野村吉三郎大佐は思ったという。

 このアメリカ駐在中、野村吉三郎大佐の最大の収穫は、多くのアメリカ人の知友を得たことであった。

 そのうちでも、当時海軍次官をしていたフランクリン・ルーズベルトとは、海軍の関係で交際を重ねて、大いに友誼を厚くした。

 このほか、プラット提督など、後年のアメリカ海軍の将星の多くと、国境を超えたネイビーフレンドとしての交わりを結んだ。

 ウィリアム・V・プラット提督は、一八六九年(明治元年)二月二十八日生まれ。メイン州ベルファースト出身。一八八九年アメリカ海軍兵学校卒業。一八九八年米西戦争でキューバ封鎖作戦に参加。一九一一年アメリカ海軍大学教官。

 一九一七年アメリカ陸軍大学卒業。装甲巡洋艦「ニューヨーク」艦長などを経て、一九二五年アメリカ海軍大学校長。一九三〇年海軍作戦部長。

 退役後もウィリアム・V・プラット提督は、学術研究を行い、太平洋戦争開戦前にはドイツ潜水艦の脅威に対抗するため護衛空母や飛行船の研究に従事した。

 知日派で、太平洋戦争直前には、野村吉三郎在米国特命全権大使との会談も行っている。海軍大将。一九五七年十一月二十五日死去。享年八十八歳。

 第一次世界大戦において、大正六年四月六日、アメリカはドイツに宣戦布告した。同年十二月には、オーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。