陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

708.野村吉三郎海軍大将(8)艦長・但馬維孝中佐とともに艦橋にいた野村吉三郎大尉は、瞬く間に海中に叩き込まれた

2019年10月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 また、第一艦隊と第二艦隊をもって連合艦隊を編成し、その連合艦隊司令長官に、東郷平八郎中将が任命された。

 さらに、臨戦各艦隊の陣容も整った。連合艦隊に属する艦艇の排水量の合計は、二十六万トンで、日清戦争当時の四倍であるが、戦闘力は数十倍であった。

 これに対決するロシア海軍は、太平洋、バルチック、黒海に分かれている艦艇を統合した場合、排水量合計は、五十一万トンの圧倒的勢力だった。

 明治三十七年二月十日、日本帝国はロシアに対して宣戦布告をし、日本国有史以来未曽有の対外戦争が、極東の陸と海で火を噴いた。

 野村吉三郎大尉は、連合艦隊第二戦隊に所属する、一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)の分隊長として、第一線の戦列に参加した。

 旅順港閉塞作戦後、四月十一日から、連合艦隊は旅順港口攻撃に出動した。十二日には旅順港口に機雷を施設、第三戦隊が敵艦隊を港外に誘致する作戦を行った。

 四月十三日、ロシア海軍切っての勇将、ステパン・マカロフ提督は艦隊を率いて旅順港外に出てきて、攻撃してきた。

 だが、日本海軍が施設した機雷に触れ、ステパン・マカロフ提督の乗船する旗艦「ペトロパウロウスク」(一〇九六〇トン・乗員六六二名)は爆沈し、ステパン・マカロフ提督も戦死した。

 野村吉三郎大尉は、この日の海戦に、第二艦隊の第二戦隊旗艦、一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)の分隊長として、ロシア海軍と戦った。

 その後も、野村吉三郎大尉乗組の一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)は、蔚山(ウルサン)沖海戦などに参加した。

 バルチック艦隊三十数隻が極東へ向かったという第一報が入った十月十五日から四日後の十月十九日、野村吉三郎大尉は、一等巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン・乗員七二六名)の分隊長から、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)の航海長に転補された。

 明治三十七年八月十九日、陸軍第三軍(司令官・乃木希典大将)による旅順要塞への第一回総攻撃が行われた。以後、第二回攻撃、第三回攻撃でも旅順要塞は陥落しなかった。

 十一月二十六日、陸軍第三軍は、第四回総攻撃を開始した。主目標は二〇三高地の占領である。

 十二月五日、第三軍はついに二〇三高地の頂上を占領した。日本軍はこの旅順攻撃で、六五〇〇〇名の兵士を投入したが、そのうち、一七〇〇〇名の死傷者を出した。

 明治三十八年一月一日午後三時三十分、ロシアの旅順要塞司令官・ステッセル将軍の軍使が白旗を掲げて降伏文書を届けて来た。一五五日にわたる旅順要塞攻防戦は終幕を告げた。

 陸軍第三軍の第四回総攻撃が開始された時、陸軍に協力する日本帝国海軍は、野村吉三郎大尉が航海長として乗組んでいる防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)以下の砲艦隊をもって、海上から二〇三高地方面に威圧をかけた。

 当時の防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)の艦長は、但馬維孝(たじま・これたか)中佐(鹿児島・海兵九期・六番・海大四期・中佐・防護巡洋艦「済遠」艦長・明治三十七年十一月三十日戦死・大佐に特別進級・享年四十六歳)だった。

 明治三十七年十一月三十日、鳩湾(半島の東側の旅順口に対して、半島の西側の新港の湾)方面において、第三軍の二〇三高地攻撃を支援中、午後二時二十四分、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)は、暗礁に乗り上げた。

 防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)は、艦底に激しい衝撃を受けたと思う間もなく、急激に浸水して、艦体はたちまち左舷へ傾いて轟沈した。

 この間、わずか数分間だった。当時、艦長・但馬維孝中佐とともに艦橋にいた野村吉三郎大尉は、瞬く間に海中に叩き込まれた。

 野村吉三郎大尉はいったん水中に巻き込まれたが、やがて、自然に浮き上がってきた。だが、一緒に沈んだ艦長・但馬維孝中佐の姿は、水中に沈んだまま、遂に再び見ることは出来なかった。