ところで、ロンドン軍縮会議全権・海軍大臣・財部彪大将は、ロンドンへ出発する直前、朝鮮総督・斎藤実(さいとう・まこと)海軍大将(岩手・海兵六・三席・「防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密院顧問・退役・朝鮮総督・首相・内大臣・議定官・二二六事件で暗殺される」・従一位・大勲位・功二級)に会って話を聞いた。
その時、斎藤大将から「これからの外交は、夫人同伴であるべきだ」と言われた財部大将は、妻・いね子を同伴して、ロンドンへ乗り込んだ。しかし、それが東郷元帥を激怒させるとは、夢にも思っていなかった。
「戦争にカカアを連れていくとは何事か」。東郷元帥は、「軍縮会議は戦争だ」と思っていた。ロンドンへ夫人を同伴した全権・財部大将のことが気に食わなかった。
戦前は男女平等ではなかった。「男女七歳にして席を同じうせず」という教育、しつけを受けた。夫婦でも肩を並べて歩かなかった。女性は男性の後ろにつくのが美徳とされた。東郷元帥の生まれ育った鹿児島は、特に男尊女卑の風習が根強かったのである。
全権・財部大将が妻・いね子を同伴したのは朝鮮総督・斎藤実大将だけでなく、外相・幣原喜重郎からも「今やそれは外交恒例上の常識である」と勧められ、それに従ったのである。
昭和五年三月二十三日、海軍のまとめ役、前海軍大臣で軍事参議官の岡田啓介大将は、午前中、軍令部長・加藤寛治大将を自宅に訪れ、さらに午後は、東京紀尾井町の森の中にある伏見宮邸を訪ねた。強硬派である海軍の大御所、軍事参議官・伏見宮博恭王大将は怒って次のように言った。
「財部は出発前に、二度も私に、三大原則は絶対退かない、と言っていた。財部の気持ちは聞く必要はない。軟弱なのは幣原外交だ。この際、一歩退けば国家の前途はどうなるか分らん。私は主上(昭和天皇)に申し上げるつもりだ」。
岡田大将は、その足で麹町の東郷元帥邸を訪ねた。日清戦争で清国兵を乗せた英国船「高陞号」を撃沈させた事件の「浪速」の艦長が東郷大佐で、その時の砲術指揮官は岡田中尉だった。
ロンドン軍縮の経過について、岡田大将は報告したが、もう一人の強硬派、東郷元帥は苦々しい顔をして聞いていたが、次のように言った。
「な、軍縮会議はのるか、そるか、宣戦布告の無い戦争なんじゃ。財部は物見遊山のつもりか、カカアなど連れてゆきおって。だから、こういうことしかできん。今回の請訓は、全然話にならん」。
なんとも、とりつくしまもなかった。このとき、東郷元帥八十二歳、岡田大将は六十二歳だった。岡田大将は回顧録で次のように述べている。
「財部は強硬派ばかりでなく、軍縮派にもあまり好かれていなかったのは、つまらぬことだが、細君を会議に連れて行ったのがけしからんという感情から来ている。東郷元帥に評判が悪かったのも、もっぱらこのためだ。(略)……財部の細君というのは、山本権兵衛さんの娘(長女いね子)だ」。
財部大将と岡田大将は、日露戦争の旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐と共に海軍兵学校一五期で、明治二十二年卒業だった。席次は、財部首席、岡田二十三番、広瀬六十四番の順だった。
エリートの財部は軍政畑の海軍省内をトントン拍子に出世し、通例より三年九か月も早く大将に昇進、大正十二年、十三年と昭和四年に三回海軍大臣に就任した。
海軍の頂点まで登りつめることができたのは、山本権兵衛や加藤友三郎らに見込まれたためもある。海軍きっての権勢家・山本権兵衛の娘むことなって、破格の出世をしたと見られた。その一方で実戦現場の東郷元帥らには敬遠され、海軍部内の統率力、信望は今一つなかった。
三月二十七日、浜口雄幸首相は、天皇にロンドン軍縮会議の経過を報告した。速やかに協定の成立するようにとの天皇の意中を知り、浜口首相は妥協案で条約を受諾する決心をした。
四月一日、朝の首脳会談の後、閣議で承認を得たあと、夕方、ロンドンの全権団あてに条約案を承認するという回訓電報を打った。
閣議の前に、浜口首相は、時間がないので、岡田大将に、東郷元帥に条約案承認の意向を伝えてほしいと頼んだ。加藤寛治軍令部長も「一緒に行く」と車に同乗して二人で麹町の東郷元帥邸を訪ね、朝の首脳会談の模様を伝えた。
三十分ほど、回訓に至るまでの経過を報告、東郷元帥はただ黙って聞いた。天皇が自分の考えとは違う事を察知したのか、その顔色はさえなかった。
その時、斎藤大将から「これからの外交は、夫人同伴であるべきだ」と言われた財部大将は、妻・いね子を同伴して、ロンドンへ乗り込んだ。しかし、それが東郷元帥を激怒させるとは、夢にも思っていなかった。
「戦争にカカアを連れていくとは何事か」。東郷元帥は、「軍縮会議は戦争だ」と思っていた。ロンドンへ夫人を同伴した全権・財部大将のことが気に食わなかった。
戦前は男女平等ではなかった。「男女七歳にして席を同じうせず」という教育、しつけを受けた。夫婦でも肩を並べて歩かなかった。女性は男性の後ろにつくのが美徳とされた。東郷元帥の生まれ育った鹿児島は、特に男尊女卑の風習が根強かったのである。
全権・財部大将が妻・いね子を同伴したのは朝鮮総督・斎藤実大将だけでなく、外相・幣原喜重郎からも「今やそれは外交恒例上の常識である」と勧められ、それに従ったのである。
昭和五年三月二十三日、海軍のまとめ役、前海軍大臣で軍事参議官の岡田啓介大将は、午前中、軍令部長・加藤寛治大将を自宅に訪れ、さらに午後は、東京紀尾井町の森の中にある伏見宮邸を訪ねた。強硬派である海軍の大御所、軍事参議官・伏見宮博恭王大将は怒って次のように言った。
「財部は出発前に、二度も私に、三大原則は絶対退かない、と言っていた。財部の気持ちは聞く必要はない。軟弱なのは幣原外交だ。この際、一歩退けば国家の前途はどうなるか分らん。私は主上(昭和天皇)に申し上げるつもりだ」。
岡田大将は、その足で麹町の東郷元帥邸を訪ねた。日清戦争で清国兵を乗せた英国船「高陞号」を撃沈させた事件の「浪速」の艦長が東郷大佐で、その時の砲術指揮官は岡田中尉だった。
ロンドン軍縮の経過について、岡田大将は報告したが、もう一人の強硬派、東郷元帥は苦々しい顔をして聞いていたが、次のように言った。
「な、軍縮会議はのるか、そるか、宣戦布告の無い戦争なんじゃ。財部は物見遊山のつもりか、カカアなど連れてゆきおって。だから、こういうことしかできん。今回の請訓は、全然話にならん」。
なんとも、とりつくしまもなかった。このとき、東郷元帥八十二歳、岡田大将は六十二歳だった。岡田大将は回顧録で次のように述べている。
「財部は強硬派ばかりでなく、軍縮派にもあまり好かれていなかったのは、つまらぬことだが、細君を会議に連れて行ったのがけしからんという感情から来ている。東郷元帥に評判が悪かったのも、もっぱらこのためだ。(略)……財部の細君というのは、山本権兵衛さんの娘(長女いね子)だ」。
財部大将と岡田大将は、日露戦争の旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐と共に海軍兵学校一五期で、明治二十二年卒業だった。席次は、財部首席、岡田二十三番、広瀬六十四番の順だった。
エリートの財部は軍政畑の海軍省内をトントン拍子に出世し、通例より三年九か月も早く大将に昇進、大正十二年、十三年と昭和四年に三回海軍大臣に就任した。
海軍の頂点まで登りつめることができたのは、山本権兵衛や加藤友三郎らに見込まれたためもある。海軍きっての権勢家・山本権兵衛の娘むことなって、破格の出世をしたと見られた。その一方で実戦現場の東郷元帥らには敬遠され、海軍部内の統率力、信望は今一つなかった。
三月二十七日、浜口雄幸首相は、天皇にロンドン軍縮会議の経過を報告した。速やかに協定の成立するようにとの天皇の意中を知り、浜口首相は妥協案で条約を受諾する決心をした。
四月一日、朝の首脳会談の後、閣議で承認を得たあと、夕方、ロンドンの全権団あてに条約案を承認するという回訓電報を打った。
閣議の前に、浜口首相は、時間がないので、岡田大将に、東郷元帥に条約案承認の意向を伝えてほしいと頼んだ。加藤寛治軍令部長も「一緒に行く」と車に同乗して二人で麹町の東郷元帥邸を訪ね、朝の首脳会談の模様を伝えた。
三十分ほど、回訓に至るまでの経過を報告、東郷元帥はただ黙って聞いた。天皇が自分の考えとは違う事を察知したのか、その顔色はさえなかった。