その結果、福留少将は「せっかくの連合艦隊の作戦案だから、なるべく検討してみようではないか」と言ったのである。福留少将は山本長官のもとで「長門」艦長や参謀長として使えたことがあり、厳しい態度がとれなかった。
結論は、三日後の四月五日に持ち込まれることになった。この経過は、真珠湾奇襲攻撃作戦をめぐる、軍令部と黒島大佐の対立と同様なものになった。
四月五日、軍令部作戦室で会議は行われた。渡辺安次中佐の前には、軍令部次長・伊藤整一中将、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐、航空主務部員・三代辰吉中佐が席を占めていた。
ミッドウェー、アリューシャン両作戦案が再度検討されたが、富岡大佐と三代中佐は、一貫して反対の態度を変えなかった。特に三代中佐は航空作戦、航空軍備の面から強硬に反対の論陣を張った。
渡辺中佐は、中座した。呉経由で、戦艦「大和」に電話連絡して、山本長官に海軍中央部の主張を伝え、山本長官の意志を確認した。「連合艦隊の案がいれられなければ、司令長官の職を投げ出す」。
席に戻った渡辺中佐は、山本長官の意志が変わらないことを伝えた。とうとう福留少将は「山本長官が、それほどまでに仰有るのなら……」と伊藤中将に言った。伊藤中将は黙ってうなずいた。
なお、山本長官の、「司令長官の職を投げ出す」の言葉について、千早正隆(台湾・海兵五八・海大三九・第四南遣艦隊参謀・連合艦隊作戦乙参謀・海軍総隊参謀・海軍中佐・戦後東京ニュース通信社常務取締役・戦史作家)は、「別冊歴史読本」八六夏季特別号で、次のように述べている(要旨)。
「諸般の事情から見て、それは山本長官自身の言葉ではなく、軍令部に対する最後の切り札として、黒島大佐が独断でデッチ上げた可能性がある」。
山本長官の真意か、黒島大佐のデッチ上げかは、ともかく、このような心情的なやりとりが主流となった経過をたどり、山本長官の主張した、ミッドウェー、アリューシャン両作戦案は、軍令部を通ったのである。その瞬間、三代中佐は涙を流し、顔を伏せた。痛恨の涙だった。
山本長官は、アメリカの空母群を壊滅させねば日本の勝利はないと考えていた。真珠湾を奇襲したのも、本来はその目的であり、ミッドウェー島を占領し、アメリカ機動部隊を誘い出す作戦も、その考えに基づいたものだった。
連合艦隊はミッドウェー作戦に向かって動き出した。だが、真珠湾奇襲作戦の成功によって、連合艦隊の幕僚たちは一種の神がかり的な状態になっていた。驕慢と自惚れが連合艦隊の参謀たちを支配していた。
さらに、参謀たちには奇妙な亀裂があった。宇垣参謀長は、山本長官を補佐すると同時に、黒島先任参謀以下、作戦、政務、航空、通信、航海、戦務、水雷、機関担当参謀を監督、統括する責任があった。
だが、山本長官は黒島先任参謀を偏愛し、山本長官と黒島先任参謀のパイプは直結していた。宇垣参謀長は、山本=黒島のパイプラインから除外されていた。
山本長官は勝負事には事実本当に強く、よく、将棋やカードをしていた。それだけに並みの相手では勝負にならなかった。
その点、渡辺中佐と作戦参謀・三和義勇大佐(海兵四八・海大三一次席・空母「赤城」飛行隊長・軍令部第一部部員・連合艦隊参謀・空母「加賀」飛行長・霞ヶ浦空副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)は将棋の腕は確かだった。
この将棋を通じて、この二人は山本長官の信頼を得て、黒島大佐に次ぐ側近になったのである。
三和大佐は、黒島大佐より兵学校四期後輩であったが、航空作戦の専門家だった。それにもかかわらず、黒島大佐と意見の食い違いが多く、三和大佐の構想はあまり反映されなかったと言われている。
渡辺中佐は特に作戦の構想力があり、黒島大佐は真珠湾奇襲作戦を立てるとき、ほかの参謀とは別に渡辺中佐に独自の研究を命じていた。その意味では、山本長官、黒島大佐、渡辺中佐の三人は一枚岩の結びつきの固さをもっていた。
黒島大佐は、山本長官の陰にあって、自己過信の悪循環に陥っていった。過信はやがて慎重さを欠き、相手に対する過小評価につながっていった。
ミッドウェー海戦までの時期は、黒島大佐だけでなく、参謀たちも、絶頂期であると同時に、そういう危うい状況だったといえる。
遂に、ミッドウェー作戦は開始された。南雲機動部隊は、当初、敵空母はいないと判断していた。だが、索敵の結果、「敵空母発見」の電報が、戦艦「大和」の司令部にも入った。
結論は、三日後の四月五日に持ち込まれることになった。この経過は、真珠湾奇襲攻撃作戦をめぐる、軍令部と黒島大佐の対立と同様なものになった。
四月五日、軍令部作戦室で会議は行われた。渡辺安次中佐の前には、軍令部次長・伊藤整一中将、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐、航空主務部員・三代辰吉中佐が席を占めていた。
ミッドウェー、アリューシャン両作戦案が再度検討されたが、富岡大佐と三代中佐は、一貫して反対の態度を変えなかった。特に三代中佐は航空作戦、航空軍備の面から強硬に反対の論陣を張った。
渡辺中佐は、中座した。呉経由で、戦艦「大和」に電話連絡して、山本長官に海軍中央部の主張を伝え、山本長官の意志を確認した。「連合艦隊の案がいれられなければ、司令長官の職を投げ出す」。
席に戻った渡辺中佐は、山本長官の意志が変わらないことを伝えた。とうとう福留少将は「山本長官が、それほどまでに仰有るのなら……」と伊藤中将に言った。伊藤中将は黙ってうなずいた。
なお、山本長官の、「司令長官の職を投げ出す」の言葉について、千早正隆(台湾・海兵五八・海大三九・第四南遣艦隊参謀・連合艦隊作戦乙参謀・海軍総隊参謀・海軍中佐・戦後東京ニュース通信社常務取締役・戦史作家)は、「別冊歴史読本」八六夏季特別号で、次のように述べている(要旨)。
「諸般の事情から見て、それは山本長官自身の言葉ではなく、軍令部に対する最後の切り札として、黒島大佐が独断でデッチ上げた可能性がある」。
山本長官の真意か、黒島大佐のデッチ上げかは、ともかく、このような心情的なやりとりが主流となった経過をたどり、山本長官の主張した、ミッドウェー、アリューシャン両作戦案は、軍令部を通ったのである。その瞬間、三代中佐は涙を流し、顔を伏せた。痛恨の涙だった。
山本長官は、アメリカの空母群を壊滅させねば日本の勝利はないと考えていた。真珠湾を奇襲したのも、本来はその目的であり、ミッドウェー島を占領し、アメリカ機動部隊を誘い出す作戦も、その考えに基づいたものだった。
連合艦隊はミッドウェー作戦に向かって動き出した。だが、真珠湾奇襲作戦の成功によって、連合艦隊の幕僚たちは一種の神がかり的な状態になっていた。驕慢と自惚れが連合艦隊の参謀たちを支配していた。
さらに、参謀たちには奇妙な亀裂があった。宇垣参謀長は、山本長官を補佐すると同時に、黒島先任参謀以下、作戦、政務、航空、通信、航海、戦務、水雷、機関担当参謀を監督、統括する責任があった。
だが、山本長官は黒島先任参謀を偏愛し、山本長官と黒島先任参謀のパイプは直結していた。宇垣参謀長は、山本=黒島のパイプラインから除外されていた。
山本長官は勝負事には事実本当に強く、よく、将棋やカードをしていた。それだけに並みの相手では勝負にならなかった。
その点、渡辺中佐と作戦参謀・三和義勇大佐(海兵四八・海大三一次席・空母「赤城」飛行隊長・軍令部第一部部員・連合艦隊参謀・空母「加賀」飛行長・霞ヶ浦空副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)は将棋の腕は確かだった。
この将棋を通じて、この二人は山本長官の信頼を得て、黒島大佐に次ぐ側近になったのである。
三和大佐は、黒島大佐より兵学校四期後輩であったが、航空作戦の専門家だった。それにもかかわらず、黒島大佐と意見の食い違いが多く、三和大佐の構想はあまり反映されなかったと言われている。
渡辺中佐は特に作戦の構想力があり、黒島大佐は真珠湾奇襲作戦を立てるとき、ほかの参謀とは別に渡辺中佐に独自の研究を命じていた。その意味では、山本長官、黒島大佐、渡辺中佐の三人は一枚岩の結びつきの固さをもっていた。
黒島大佐は、山本長官の陰にあって、自己過信の悪循環に陥っていった。過信はやがて慎重さを欠き、相手に対する過小評価につながっていった。
ミッドウェー海戦までの時期は、黒島大佐だけでなく、参謀たちも、絶頂期であると同時に、そういう危うい状況だったといえる。
遂に、ミッドウェー作戦は開始された。南雲機動部隊は、当初、敵空母はいないと判断していた。だが、索敵の結果、「敵空母発見」の電報が、戦艦「大和」の司令部にも入った。