「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間文庫)によると、山口多聞(たもん)は明治二十五年八月十七日、東京都小石川区で生まれた。「多聞」という名の命名については、次の様に言われている。
大日本帝国の当時では、史上の英雄はすべて忠臣であることが必須条件だった。その首位が楠木正成である。
全滅を承知で上陸してくる逆賊、足利尊氏の桁違いの軍勢を、楠木正成は全くの少数で受けて立ち、刀折れ矢尽きてもなお敵を屠り続け、遂に、十数人の残存の配下ともども、弟、正孝と刺し違えて果てた。
このすさまじい最後を遂げた忠臣、大楠公、正成の幼名は多聞丸だった。大楠公の如くあれ、という願いをこめて父、山口宗義(むねよし)は、生まれた男児を多聞と名づけた。
この命名は後年正鵠を射ることになった。山口多聞は、まさしく、二十世紀の湊川の決戦(ミッドウェー海戦)で、群がり寄せる足利勢(米軍機)を迎え撃つ正成をつとめた。
多聞は、学業成績は優秀で、誰からも好かれた。多聞の九歳上の長兄、堅吉は、のちに三菱銀行の重役になった人物だが、山口多聞が戦死した後、人から聞かれ、次の様に語った。
「多聞は平々凡々の性格を、どんな環境でもすこしも変えなかったことが、いま思い当たる点ではないかと思っている」
<山口多聞(やまぐち・たもん)海軍中将プロフィル>
明治二十五年八月十七日東京市小石川区表町で生まれ、牛込砂土原町で育つ。旧松江藩士・山口宗義(むねよし・日本銀行幹事)の三男。母・貞(てい)は肥前小城(おぎ)藩の士族の娘。
明治三十二年(七歳)四月東京九段の富士見小学校入校。
明治三十八年(十三歳)四月私立開成中学校入学。
明治四十二年(十七歳)九月十日開成中学五年から海軍兵学校入校(第四十期生)。入校時の成績は百五十名中二十一番。
明治四十五年(二十歳)七月十七日海軍兵学校(第四十期生)卒業。卒業時の成績は百四十四名中の二番で恩賜の短剣を拝受した。海軍少尉候補生となり、練習艦「宗谷」(艦長・堀内三郎大佐)でオーストラリア方面へ遠洋航海。
大正二年(二十一歳)五月一日標的艦「摂津」乗組。十二月一日海軍少尉。
大正三年(二十二歳)五月二十七日巡洋艦「筑摩」乗組。
大正四年(二十三歳)二月一日戦艦「安芸」乗組。十二月一日海軍中尉。砲術学校普通科学生。
大正五年(二十四歳)六月一日海軍水雷学校普通科学生。十二月一日第三潜水艇隊付。
大正七年(二十六歳)四月第二特務艦隊第二十四駆逐隊の「樫」航海長。十二月一日海軍大尉。海軍水雷学校高等科学生。
大正八年(二十七歳)一月十七日臨時特別潜水艇隊付、ヨーロッパから日本へ潜水艦を回航。二月一日工作艦「関東」乗組。七月二十四日横須賀防備隊付。十月八日呉防備隊付。十二月一日海軍水雷学校高等科入校。
大正九年(二十八歳)十一月海軍水雷学校高等科卒業。十二月一日佐世保防備隊付。
大正十年(二十九歳)二月二十五日米国駐在、プリンストン大学入学。
大正十二年(三十一歳)三月帰国。河村敏子と結婚。敏子は東京控訴院検事長・河村善益の五女。四月連合艦隊旗艦「長門」水雷科分隊長。十二月一日潜水学校教官。
大正十三年(三十二歳)十二月一日海軍少佐、海軍大学校(甲種学生・二四期)入学。
大正十五年(三十四歳)十一月海軍大学校卒(二四期・恩賜)。十二月一日第一潜水隊参謀。
昭和三年(三十六歳)二月二十日軍令部参謀兼艦政本部技術会議員。十二月十日海軍中佐。
昭和四年(三十七歳)九月十七日米国出張。十一月十二日ロンドン会議全権委員随員。
昭和五年(三十八歳)七月一日巡洋艦「由良」副長。十一月十五日連合艦隊先任参謀兼第一艦隊先任参謀。
昭和七年(四十歳)九月二十日妻敏子死去。医師から腎臓病で出産は無理と宣告されたが、出産、その二日後に亡くなった。このとき生まれたのが三男の宗敏で、「父・山口多聞」の著者である。十一月十五日海軍大学校戦略教官。十一月十九日兼陸軍大学校兵学教官。
昭和八年(四十一歳)十一月十五日海軍大佐。
昭和九年(四十二歳)春、山本五十六少将の仲介で宮城県盲唖学校長・四竃仁邇の三女、孝子と再婚。孝子は東京女子大学英文科を首席で卒業した才媛で二十八歳だった。六月一日在米日本大使館付海軍武官。
昭和十一年(四十四歳)十二月一日巡洋艦「五十鈴」艦長。
昭和十二年(四十五歳)十二月一日戦艦「伊勢」艦長。
昭和十三年(四十六歳)十一月十五日海軍少将。十二月十五日第五艦隊参謀長。
昭和十四年(四十七歳)十一月十五日第一艦隊司令部付。
昭和十五年四十八(歳)一月十五日第一連合航空隊司令官。十一月一日第二航空戦隊司令官(空母部隊)。
昭和十六年(四十九歳)十二月八日ハワイ真珠湾攻撃に参加。
昭和十七年二月十九日オーストラリア北部の都市ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦に参加。六月五日ミッドウェー作戦参加。六月六日午前六時六分空母「飛龍」自沈。山口多聞司令官と加来止男艦長は退艦せずに「飛龍」と運命を共にして戦死した。山口多聞は四十九歳十ヶ月だった。
「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、山口多聞の生家は代々松江藩(島根県)に仕えた二百石取りの中堅武家だった。山口家の祖先は、一六〇〇年の関が原の戦いで、討ち死にした加賀大聖寺の大名、山口宗永まで遡る。
山口多聞の父・宗義(むねよし)は、明治維新政府が東京帝国大学の前身の「大学南校」を創立したとき、松江藩から選ばれて上京し、同校に入学、卒業した英才だった。
同校卒業後は大蔵省に入り、ついで日本銀行につとめた。晩年は日本銀行の理事、監事にまで登りつめた。母、貞(てい)は佐賀小城藩の厳格な家風の武家に生まれ、子供たちの躾には厳しかったが、慈愛深い女性だった。
父の次弟・平六は日本初の工学博士。末弟・鋭之助は京都帝国大学教授、学習院院長、宮中顧問官を歴任した。
山口多聞はこのような当時の知識階級のエリートの家に生まれた。多聞は二人の兄、二人の姉、二人の弟、一人の妹の八人兄弟だった。だが、山口家は裕福だったので、子供たちは経済を気にすることなく、自分の思い通りに進学することができた。
多聞は小学生のころから丸々肥っていて、父から毎日武道を教えられ強くなった。小学校の仲間は多聞に「まんじゅう」とあだ名をつけた。多聞は相撲フアンで、自分も仲間との少年相撲も強かった。
大日本帝国の当時では、史上の英雄はすべて忠臣であることが必須条件だった。その首位が楠木正成である。
全滅を承知で上陸してくる逆賊、足利尊氏の桁違いの軍勢を、楠木正成は全くの少数で受けて立ち、刀折れ矢尽きてもなお敵を屠り続け、遂に、十数人の残存の配下ともども、弟、正孝と刺し違えて果てた。
このすさまじい最後を遂げた忠臣、大楠公、正成の幼名は多聞丸だった。大楠公の如くあれ、という願いをこめて父、山口宗義(むねよし)は、生まれた男児を多聞と名づけた。
この命名は後年正鵠を射ることになった。山口多聞は、まさしく、二十世紀の湊川の決戦(ミッドウェー海戦)で、群がり寄せる足利勢(米軍機)を迎え撃つ正成をつとめた。
多聞は、学業成績は優秀で、誰からも好かれた。多聞の九歳上の長兄、堅吉は、のちに三菱銀行の重役になった人物だが、山口多聞が戦死した後、人から聞かれ、次の様に語った。
「多聞は平々凡々の性格を、どんな環境でもすこしも変えなかったことが、いま思い当たる点ではないかと思っている」
<山口多聞(やまぐち・たもん)海軍中将プロフィル>
明治二十五年八月十七日東京市小石川区表町で生まれ、牛込砂土原町で育つ。旧松江藩士・山口宗義(むねよし・日本銀行幹事)の三男。母・貞(てい)は肥前小城(おぎ)藩の士族の娘。
明治三十二年(七歳)四月東京九段の富士見小学校入校。
明治三十八年(十三歳)四月私立開成中学校入学。
明治四十二年(十七歳)九月十日開成中学五年から海軍兵学校入校(第四十期生)。入校時の成績は百五十名中二十一番。
明治四十五年(二十歳)七月十七日海軍兵学校(第四十期生)卒業。卒業時の成績は百四十四名中の二番で恩賜の短剣を拝受した。海軍少尉候補生となり、練習艦「宗谷」(艦長・堀内三郎大佐)でオーストラリア方面へ遠洋航海。
大正二年(二十一歳)五月一日標的艦「摂津」乗組。十二月一日海軍少尉。
大正三年(二十二歳)五月二十七日巡洋艦「筑摩」乗組。
大正四年(二十三歳)二月一日戦艦「安芸」乗組。十二月一日海軍中尉。砲術学校普通科学生。
大正五年(二十四歳)六月一日海軍水雷学校普通科学生。十二月一日第三潜水艇隊付。
大正七年(二十六歳)四月第二特務艦隊第二十四駆逐隊の「樫」航海長。十二月一日海軍大尉。海軍水雷学校高等科学生。
大正八年(二十七歳)一月十七日臨時特別潜水艇隊付、ヨーロッパから日本へ潜水艦を回航。二月一日工作艦「関東」乗組。七月二十四日横須賀防備隊付。十月八日呉防備隊付。十二月一日海軍水雷学校高等科入校。
大正九年(二十八歳)十一月海軍水雷学校高等科卒業。十二月一日佐世保防備隊付。
大正十年(二十九歳)二月二十五日米国駐在、プリンストン大学入学。
大正十二年(三十一歳)三月帰国。河村敏子と結婚。敏子は東京控訴院検事長・河村善益の五女。四月連合艦隊旗艦「長門」水雷科分隊長。十二月一日潜水学校教官。
大正十三年(三十二歳)十二月一日海軍少佐、海軍大学校(甲種学生・二四期)入学。
大正十五年(三十四歳)十一月海軍大学校卒(二四期・恩賜)。十二月一日第一潜水隊参謀。
昭和三年(三十六歳)二月二十日軍令部参謀兼艦政本部技術会議員。十二月十日海軍中佐。
昭和四年(三十七歳)九月十七日米国出張。十一月十二日ロンドン会議全権委員随員。
昭和五年(三十八歳)七月一日巡洋艦「由良」副長。十一月十五日連合艦隊先任参謀兼第一艦隊先任参謀。
昭和七年(四十歳)九月二十日妻敏子死去。医師から腎臓病で出産は無理と宣告されたが、出産、その二日後に亡くなった。このとき生まれたのが三男の宗敏で、「父・山口多聞」の著者である。十一月十五日海軍大学校戦略教官。十一月十九日兼陸軍大学校兵学教官。
昭和八年(四十一歳)十一月十五日海軍大佐。
昭和九年(四十二歳)春、山本五十六少将の仲介で宮城県盲唖学校長・四竃仁邇の三女、孝子と再婚。孝子は東京女子大学英文科を首席で卒業した才媛で二十八歳だった。六月一日在米日本大使館付海軍武官。
昭和十一年(四十四歳)十二月一日巡洋艦「五十鈴」艦長。
昭和十二年(四十五歳)十二月一日戦艦「伊勢」艦長。
昭和十三年(四十六歳)十一月十五日海軍少将。十二月十五日第五艦隊参謀長。
昭和十四年(四十七歳)十一月十五日第一艦隊司令部付。
昭和十五年四十八(歳)一月十五日第一連合航空隊司令官。十一月一日第二航空戦隊司令官(空母部隊)。
昭和十六年(四十九歳)十二月八日ハワイ真珠湾攻撃に参加。
昭和十七年二月十九日オーストラリア北部の都市ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦に参加。六月五日ミッドウェー作戦参加。六月六日午前六時六分空母「飛龍」自沈。山口多聞司令官と加来止男艦長は退艦せずに「飛龍」と運命を共にして戦死した。山口多聞は四十九歳十ヶ月だった。
「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、山口多聞の生家は代々松江藩(島根県)に仕えた二百石取りの中堅武家だった。山口家の祖先は、一六〇〇年の関が原の戦いで、討ち死にした加賀大聖寺の大名、山口宗永まで遡る。
山口多聞の父・宗義(むねよし)は、明治維新政府が東京帝国大学の前身の「大学南校」を創立したとき、松江藩から選ばれて上京し、同校に入学、卒業した英才だった。
同校卒業後は大蔵省に入り、ついで日本銀行につとめた。晩年は日本銀行の理事、監事にまで登りつめた。母、貞(てい)は佐賀小城藩の厳格な家風の武家に生まれ、子供たちの躾には厳しかったが、慈愛深い女性だった。
父の次弟・平六は日本初の工学博士。末弟・鋭之助は京都帝国大学教授、学習院院長、宮中顧問官を歴任した。
山口多聞はこのような当時の知識階級のエリートの家に生まれた。多聞は二人の兄、二人の姉、二人の弟、一人の妹の八人兄弟だった。だが、山口家は裕福だったので、子供たちは経済を気にすることなく、自分の思い通りに進学することができた。
多聞は小学生のころから丸々肥っていて、父から毎日武道を教えられ強くなった。小学校の仲間は多聞に「まんじゅう」とあだ名をつけた。多聞は相撲フアンで、自分も仲間との少年相撲も強かった。