陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

171.米内光政海軍大将(11) めんどうくさい、グズグズ言ったら畑を電話口に出してください

2009年07月03日 | 米内光政海軍大将
 米内は拝辞するつもりで参内したが、御前に進み出て頭を上げた途端、天皇陛下は「朕、卿ニ組閣ヲ命ズ」
と大きな声が聞こえた。米内は、電気に打たれたようになって「暫ク御猶予ヲ」と深くお辞儀をしたまま下がった。

 廊下へ出て「どうそ、こちらへ」と案内された部屋には、湯浅倉平内大臣、百武三郎侍従長が待っていて、とても拝辞できるような状況ではなかった。

 米内光政の奏薦は湯浅内大臣一人の意思に出たと思われる。また天皇陛下の思し召しでもあった。阿部内閣崩壊前、天皇陛下は湯浅内大臣に対し「次は米内にしてはどうか」と言われた。

 天皇陛下は平常立憲的に非常に厳格で、天皇陛下自身後継内閣の選定についてイニシアチブを取られるということは全くの異例である。

 天皇陛下は、陰謀的な日独伊同盟を好まず、平沼内閣で問題が紛糾した際、不眠症で、一時葉山で静養されたこともあった。なんとか日独伊同盟を防止したいと考えられ、それで米内内閣を考えられた。

 米内自身は大命が自分に下ることを全く予期していなかった。大命降下の三日前、松平恒雄宮内大臣(後の参議院議長)の招宴の席上、そこには岡田啓介(海兵一五・海大二・元総理)、杉山元(陸士一二・陸大二二・軍事参議官)もいたが、米内は大声で、「世間で次の内閣は自分と言う奴がいるそうだが、岡田さん、そうか」と聞いた。

 岡田は「イヤ、そんなことはない」とその場を取り繕った。米内は知っていてそんな事を聞けるわけがない。だから、米内自身、お召しによって参内するときには、全く組閣の自信はなかったという。

 朝日新聞社の緒方竹虎主筆が、編集局で次期政権の情報を集めていると、突然、両国国技館で相撲見物をしていた陸軍省の武藤章軍務局長(陸士二五・陸大三二恩賜)から電話がかかってきた。

 武藤軍務局長は「いま朝日新聞の号外を見たが、大命畑大将に下るというのは間違いないか」と言った。朝日新聞では情報を分析して畑陸軍大将に間違いないと判断して号外を出した。

 緒方が号外を肯定すると、武藤軍務局長は「それでは相撲など見てはいられない」と言って電話を切った。だが、その三時間後に、畑ならぬ米内に大命が降下した。

 畑俊六陸軍大将という予想を号外で見た国民は、翌朝の朝刊で、意外にも大命は米内海軍大将に降下していたので驚いた。同じく畑大将が本命とみていた陸軍の局長、課長クラスも、海軍の米内大将と聞いてびっくりした。武藤軍務局長は、「しまった。海軍の陰謀にしてやられた」と言って悔しがった。

 米内内閣の内閣書記官長・石渡荘太郎は、畑陸軍大将にとにかく陸軍大臣として留任を求めなければと思った。陸軍省に電話をかけると、実に驚いたことに軍務局長か誰か分からないが「米内閣下がこちらへ来られるんじゃないか、さっきからご挨拶に見えるものと思って待っています」という返事だ。

 石渡はグッときたが、米内首相に、「どうなさいますか、先方が来るのが当然と思いますが」と言うと、米内首相は「めんどうくさい、グズグズ言ったら畑を電話口に出してください、私が出ます」と言った。

 それで、また陸軍省へ電話して「こちらからは伺いません」と言うと、暫く待ってくれと言って「それではこちらからお伺いします」という返事だった。大命を受けた者を呼びつけようとする態度に、陸軍の思い上がった真意が見られた。

 昭和十五年一月十六日、米内内閣が誕生した。だが、陸軍の米内内閣の倒閣運動は内閣成立の日から始められた。

 米内が総理に就任後二ヶ月を過ぎた頃から、陸軍から「秋の二千六百年奉祝式典を海軍出身の総理大臣のもとでやらせるな」という声が出た。

 有田八郎外務大臣が南方政策に関して放送をした。すると、陸軍は有田放送の内容は、外務、陸軍の間の打ち合わせと違っている。それにもかかわらず、須磨外務相情報部長が新聞記者会見で、放送の中から三国同盟問題を除いたのは、あたかも陸軍の要求ででもあるかのごとく語ったのは怪しからぬといって、須磨外務相情報部長を憲兵隊に引っ張らせた。

 そこで有田外務大臣が畑陸軍大臣に直接談判をし、話がついて外務省と陸軍とで共同声明を出すと、陸軍は新聞の内面指導をして、「外務大臣、陸軍大臣に陳謝」といった記事を書かせたりした。

 須磨外務相情報部長を憲兵隊が引っ張った時には、石渡荘太郎書記官長もその連累であるとして、憲兵の、しかも上等兵が内閣書記官長室に乗り込んできて、石渡書記官長に同道を迫るということがあった。

 余りの狼藉に米内総理もさすがに怒って、畑陸軍大臣に掛け合うと「それは引っ張るということを言っているよ」と畑陸軍大臣はまるで管轄外の問題のような顔をして、冷淡な態度であった。

 石渡書記官長の拘引は行われなかったが、一問題去れば、また一問題で、この種のいやがらせが、米内内閣の存続中絶え間なく続いたという。