陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

155.牟田口廉也陸軍中将(5)銃口を空に向けて三発撃て。そうすれば敵はすぐ退却する約束ができている

2009年03月13日 | 牟田口廉也陸軍中将
 この後、片倉高級参謀は牟田口軍司令官がインド進攻の実施を要求してくると、「牟田口の馬鹿野郎が」とののしって、反対意見を参謀に伝えさせた。参謀が牟田口軍司令官のところへ行くと、叱り飛ばされた。そして帰ってくると、今度片倉高級参謀から怒鳴りつけられた。

 「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将がビルマ方面軍司令官・河辺正三中将(陸士19・陸大27)に牟田口第十五軍司令官の作戦構想について、不満を述べた。

 すると河辺中将は「私は牟田口をよく知っている。牟田口の積極的な意見を充分尊重してやれ」と、中永太郎中将の意見をおさえて、牟田口軍司令官をかばった。

 河辺中将は盧溝橋事件のとき、牟田口連隊長の上司の旅団長だった。当時から気心は通じるものがあった。

 昭和18年4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、5月にはアッツ島守備隊が玉砕していた。この二つは国民の士気を阻喪し、戦争の前途を悲観視する予兆が流れていた。

 そこで、この際、ビルマ方面で、勝利を博し、インドの一角に楔(くさび)を打ち込んで、国民の士気をふるいたたせようとの魂胆が、大本営や軍上層部にあった。

 南方軍の稲田副長は7月12日から一週間東京にいた。インパール作戦についての打ち合わせだった。この頃には、大本営はインパール作戦に期待をかけるようになっていた。

 稲田副長は東條首相に会見した。東條首相はしきりに「インドに行くのは大丈夫か」と心配した。稲田副長は「チャンドラ・ボースをインドにいれてやれば、いいのですよ。それには、できるだけ、損害を少なくする方法でなければいけません。無茶はさせません」と答えたが、稲田副長は内心ではインパール作戦に反対していた。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、8月25日、第十五軍はメイミョウの軍司令部で、作戦構想の統一をはかるインパール作戦の兵棋演習を行った。

 このとき、第十八師団長・田中新一中将は第十五軍後方主任参謀・薄井少佐に「君は後方主任参謀として、本作戦間、後方補給に責任がもてるのか」と詰問した。

 すると、薄井参謀は素直に「責任は持てません」と答えた。

 田中師団長は憤然として「この困難な作戦で、補給に責任が持てんでは戦はできぬ」と強く詰め寄ったので、薄井参謀は言葉に窮した。

 そのとき、牟田口軍司令官が立ち上がり「もともと、本作戦は、普通一般の考え方でははじめから成立しない。糧は敵にとるのだ。その覚悟で戦闘せよ」と強い口調でいましめた。

 さらに「敵と遭遇すれば、銃口を空に向けて三発撃て。そうすれば、敵はすぐ退却する約束ができている」と言ったので、列席者は唖然とした。

 「抗命」(文春文庫)によると、9月12日、シンガポールで南方軍参謀長会同が行われた。会同は寺内総司令官の官邸で開かれた。ビルマ方面軍の中参謀長は、第十五軍の久野村参謀長と情報主任・藤原岩市少佐(陸士43・陸大50)を連れてきた。

 会議の合間に中参謀長は稲田副長と懇談し、インパール作戦を早く実施してくれと言い、「やかましいことを言わんで、二人の話をよく聞いてやってくれんか」と訴えた。

 久野村参謀長は、稲田副長より広島幼年学校の二年先輩で、陸軍大学校では37期の同期だった。だから久野村参謀長を連れてきた。

 久野村参謀長はインパール作戦の計画書を出して「稲田、たのむよ。認めてくれんか」と親しい口調で言った。俺とお前の仲じゃないか、といった響きがあった。

 稲田副長は、いつ中参謀長が、牟田口計画に賛同するようになったのか、牟田口の激しい意欲に迎合したに違いないと思った。藤原参謀もしきりに迫った。

 稲田副長は「今インドをつついて、逆にインドから押されたら、下がる道がない。今は持久戦だ」と反対理由を述べ「牟田口軍司令官は、やるやると、目の色を変えているが、三師団長はやる気がない。その上三人とも軍司令官とは性格が合わない。うまくいかんよ」と言った。