明治39年11月、井上は海軍兵学校に37期生として入学した。校長は島村速雄少将だった。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、この時期は、日露戦争の勝敗を決した日本海大海戦の勝利の後だけに、兵学校の志願者数は2971名だった。
合格者は180名だった。実に16.5倍の競争率だった。ちなみに当時の旧制高等学校の全国平均競争率は6.3倍だった。
兵学校の応募者の大多数は浪人組で、井上の時も、一年浪人が52パーセント、二年浪人が28パーセント、三年浪人が6パーセントで、中学校からストレートに合格したものはわずか10パーセントだった。井上は首席で合格した。
「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、兵学校入校後のある日、井上生徒は分隊監事を訪問したところ、出身地を問われた。
「宮城県です」
と答えた井上生徒に、
「ああ、宮城県か、少佐で馘(くび)だよ」
という言葉が返ってきた。
井上生徒は
「少佐にしてもらえば結構です。少尉になって軍艦に乗って、一年か二年でも海軍におれば結構です」
と答えた。だが内心では、
「ずいぶんひどいことを言うものだ」
と思った。
当時は海軍の鹿児島閥が生徒にも露骨に示されていた時代だった。
井上によると、この悪風は財部彪海軍大臣(15期・大将)の時代である昭和5年まで続き、その後も多少は尾を引いた。
本当に一掃されたのは米内光政海軍大臣(29期・のち大将、首相)が登場した昭和12年以後であるという(井上と海上自衛隊幹部学校長との座談記録)。
仙台二中でトップの成績を収め、当時の学友からも英語の学力を評価されていた井上生徒も、兵学校三号時代は英語が苦手であった。
これは大都市出身の同期生の学力、特に洗練された会話力に、井上生徒は及ばなかったようである。
井上自身も
「田舎の中学出身のため発音が劣っていた」
と語っているが、おそらく東北人特有の訛りが影響したのではなかろうか。
ある時、英語の酒巻教官から、英語の成績の悪い生徒が一人ずつ名指しで槍玉にあげられた。
井上生徒もその中に入っており、
「井上は討論を少しもやらないから平常点はゼロだ。試験によほど良い点をとらないと落第だ」
とやられた。
井上生徒は、同期生の中で英語が抜群の関根郡平(のち海軍少将)にどうしたら英語の力がつくか尋ねた。
関根は即座に
「英語の小説をどしどし読め」
と教えた。そしてコナン・ドイルの「シャーロック・ホルムズ」を薦めた。
井上生徒は「アドベンチャーズ・オブ・シャーロック・ホルムズ」に取り組んで読んでみたが、歯が立たなかった。一頁読むのに一時間では無理で、時には二時間かかった。
そこで井上生徒は関根に
「貴様、あんな本なら一時間にどれくらい読めるか」
と聞いたところ、
「うん、まあ、二十頁くらいかな」
との答で、こんなにも能力に差があるのかと思った。
このような英語の点数が影響したのか、井上生徒の三号生徒(一学年・当時の兵学校は三年制)の成績は、十六番に落ちてしまった。
しかし二学年になってからは頑張って、一学期末には一番の成績を収めた。卒業時には百七十九名二番の成績で、恩賜の双眼鏡を授与された。
クラスヘッド(首席)は小林万一郎で将来を嘱望されていたが、大正11年4月20日、惜しくも少佐で病没した。
以後井上のハンモックナンバーは実質的にクラスヘッドになった。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、この時期は、日露戦争の勝敗を決した日本海大海戦の勝利の後だけに、兵学校の志願者数は2971名だった。
合格者は180名だった。実に16.5倍の競争率だった。ちなみに当時の旧制高等学校の全国平均競争率は6.3倍だった。
兵学校の応募者の大多数は浪人組で、井上の時も、一年浪人が52パーセント、二年浪人が28パーセント、三年浪人が6パーセントで、中学校からストレートに合格したものはわずか10パーセントだった。井上は首席で合格した。
「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、兵学校入校後のある日、井上生徒は分隊監事を訪問したところ、出身地を問われた。
「宮城県です」
と答えた井上生徒に、
「ああ、宮城県か、少佐で馘(くび)だよ」
という言葉が返ってきた。
井上生徒は
「少佐にしてもらえば結構です。少尉になって軍艦に乗って、一年か二年でも海軍におれば結構です」
と答えた。だが内心では、
「ずいぶんひどいことを言うものだ」
と思った。
当時は海軍の鹿児島閥が生徒にも露骨に示されていた時代だった。
井上によると、この悪風は財部彪海軍大臣(15期・大将)の時代である昭和5年まで続き、その後も多少は尾を引いた。
本当に一掃されたのは米内光政海軍大臣(29期・のち大将、首相)が登場した昭和12年以後であるという(井上と海上自衛隊幹部学校長との座談記録)。
仙台二中でトップの成績を収め、当時の学友からも英語の学力を評価されていた井上生徒も、兵学校三号時代は英語が苦手であった。
これは大都市出身の同期生の学力、特に洗練された会話力に、井上生徒は及ばなかったようである。
井上自身も
「田舎の中学出身のため発音が劣っていた」
と語っているが、おそらく東北人特有の訛りが影響したのではなかろうか。
ある時、英語の酒巻教官から、英語の成績の悪い生徒が一人ずつ名指しで槍玉にあげられた。
井上生徒もその中に入っており、
「井上は討論を少しもやらないから平常点はゼロだ。試験によほど良い点をとらないと落第だ」
とやられた。
井上生徒は、同期生の中で英語が抜群の関根郡平(のち海軍少将)にどうしたら英語の力がつくか尋ねた。
関根は即座に
「英語の小説をどしどし読め」
と教えた。そしてコナン・ドイルの「シャーロック・ホルムズ」を薦めた。
井上生徒は「アドベンチャーズ・オブ・シャーロック・ホルムズ」に取り組んで読んでみたが、歯が立たなかった。一頁読むのに一時間では無理で、時には二時間かかった。
そこで井上生徒は関根に
「貴様、あんな本なら一時間にどれくらい読めるか」
と聞いたところ、
「うん、まあ、二十頁くらいかな」
との答で、こんなにも能力に差があるのかと思った。
このような英語の点数が影響したのか、井上生徒の三号生徒(一学年・当時の兵学校は三年制)の成績は、十六番に落ちてしまった。
しかし二学年になってからは頑張って、一学期末には一番の成績を収めた。卒業時には百七十九名二番の成績で、恩賜の双眼鏡を授与された。
クラスヘッド(首席)は小林万一郎で将来を嘱望されていたが、大正11年4月20日、惜しくも少佐で病没した。
以後井上のハンモックナンバーは実質的にクラスヘッドになった。