米内大臣が井上次官を更迭したのは、終戦和平の条件をめぐって、大きな相違があったからである。
井上次官はあくまで終戦を優先して考えるべきで、たとえ、天皇制の護持が不可能になったとしても、和平を締結すべしと米内大臣に迫っていたというのである。
ところが米内大臣は天皇制を護持することが大前提で、和平の条件はそれ以外に求めるべきだと考えていた。当時はこの考えが妥当であった。
和平工作がテンポが遅く、手ぬるいと思っていた井上次官は天皇制廃止の条件を提示してでも、早期和平を結ぶべきだと米内大臣を責め立てたのである。
米内大臣は、もし、このことが洩れでもしたら、大変なことになる。井上次官の口と行動を封じるためにも、次官を外したほうがよいと考えた。
また、井上次官は、常に、陸軍にとって目の上のこぶであった。陸軍との正面衝突を一応避けて、終戦へ一歩進めるために、井上次官を犠牲にしたともいわれている。
井上次官は退任に際し、一句を残している。
「負けいくさ 大将だけはやはり出来 よみ人知らず」
昭和20年5月15日、井上は海軍大将に昇任した。帝国海軍で最後に昇任した海軍大将であった。大将昇任と共に海軍次官は辞め軍事参議官になった。
井上は次官を更迭されて以後、米内大臣とはほとんど交渉がない。だが、軍事参義官になった井上大将は、一月後、芝の水交社に寝泊りするようになった。
ある日、この水交社で、たまたま米内大臣に会うと、
米内大臣は井上大将に、
「何もかも、俺一人でやっているよ」
と言って近況を話して聞かせたという。
「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、ある日、議会が終って、海軍出身の議員を招いての祝宴が大臣官邸で開催された。
久しぶりにくつろいだムードとなり、順番に隠し芸の披露が始まった。やがて井上の番になると、彼は意表を衝いて、
「これから皆さんの手相を観て進ぜましょう」と言った。
初めに手を出したのは、軍務局員の中山定義中佐だった。
中山の両の掌をしばらく見比べた井上は
「君は人生の道を誤ったのではないか。もし易者になっていたら成功していたろう」と言った。
中山中佐が理由を尋ねると、
「両手の真ん中に十字形の線がある。両手揃うことはめずらしい。直観力に恵まれている」
と答えた。
次に手を出したのは兵備局長の保科善四郎中将であった。
じっとその掌を見つめていた井上は、
「これは典型的な二重人格者の手相だ」と言った。
一瞬、座は白け、続いて手を差し出す勇気のある者はいなかったという。
井上は歴代の大将について次の様に評価をしている。
統帥権干犯問題で海軍を分裂させて軍令部の独走を許し、名分の無い戦の遠因をつくった末次信正大将。
日米戦争に関して「ノー」と言うべきところを「近衛総理に一任」などと言って日米開戦の近因をつくった及川古志郎大将。
開戦に踏み切り、しかも戦局の収拾を図らなかった永野修身大将と嶋田繁太郎大将。
井上は以上の大将を「三等大将」はおろか「国賊」とまで評した。戦後はもちろん、現役時代にも省内の執務場所でそう言うのを、何人かの人が耳にしている。
井上が「一等大将」に挙げているのは山本権兵衛大将(2期・海相・首相)と加藤友三郎大将(7期・海相・首相・元帥)の二人だけである。
井上が終生尊敬した米内光政大将と山本五十六大将に対しても、無条件では「一等大将」に挙げなかった。
東郷平八郎元帥に対しては一応評価はしているが、昭和5年のロンドン軍縮条約締結を妨害しようとした加藤寛治ら艦隊派の言い分を、鵜呑みにして海軍省首脳を攻撃したりした点については手厳しい。
井上は「日本を亡ぼした者は陸軍と一部の海軍。海軍を亡ぼした者は東郷さんをはじめとした一部の海軍軍人」とまで言っている。
では自分自身に対してはどうか。「もともと大将の器ではありません」と明言しているので、これは論外扱いである。
井上大将は昭和20年10月10日待命を仰せ付けられ、ついで10月15日、予備役に編入された。五十五歳であった。
明治39年十六歳で海軍兵学校入校以来、三十九年間の海軍生活はここに幕を閉じた。
戦後、井上大将は横須賀市長井の自宅に隠棲し公職につくことなく、昭和50年12月15日死去した。八十六歳だった。
(「井上成美海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣一成陸軍大将」が始まります)。
井上次官はあくまで終戦を優先して考えるべきで、たとえ、天皇制の護持が不可能になったとしても、和平を締結すべしと米内大臣に迫っていたというのである。
ところが米内大臣は天皇制を護持することが大前提で、和平の条件はそれ以外に求めるべきだと考えていた。当時はこの考えが妥当であった。
和平工作がテンポが遅く、手ぬるいと思っていた井上次官は天皇制廃止の条件を提示してでも、早期和平を結ぶべきだと米内大臣を責め立てたのである。
米内大臣は、もし、このことが洩れでもしたら、大変なことになる。井上次官の口と行動を封じるためにも、次官を外したほうがよいと考えた。
また、井上次官は、常に、陸軍にとって目の上のこぶであった。陸軍との正面衝突を一応避けて、終戦へ一歩進めるために、井上次官を犠牲にしたともいわれている。
井上次官は退任に際し、一句を残している。
「負けいくさ 大将だけはやはり出来 よみ人知らず」
昭和20年5月15日、井上は海軍大将に昇任した。帝国海軍で最後に昇任した海軍大将であった。大将昇任と共に海軍次官は辞め軍事参議官になった。
井上は次官を更迭されて以後、米内大臣とはほとんど交渉がない。だが、軍事参義官になった井上大将は、一月後、芝の水交社に寝泊りするようになった。
ある日、この水交社で、たまたま米内大臣に会うと、
米内大臣は井上大将に、
「何もかも、俺一人でやっているよ」
と言って近況を話して聞かせたという。
「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、ある日、議会が終って、海軍出身の議員を招いての祝宴が大臣官邸で開催された。
久しぶりにくつろいだムードとなり、順番に隠し芸の披露が始まった。やがて井上の番になると、彼は意表を衝いて、
「これから皆さんの手相を観て進ぜましょう」と言った。
初めに手を出したのは、軍務局員の中山定義中佐だった。
中山の両の掌をしばらく見比べた井上は
「君は人生の道を誤ったのではないか。もし易者になっていたら成功していたろう」と言った。
中山中佐が理由を尋ねると、
「両手の真ん中に十字形の線がある。両手揃うことはめずらしい。直観力に恵まれている」
と答えた。
次に手を出したのは兵備局長の保科善四郎中将であった。
じっとその掌を見つめていた井上は、
「これは典型的な二重人格者の手相だ」と言った。
一瞬、座は白け、続いて手を差し出す勇気のある者はいなかったという。
井上は歴代の大将について次の様に評価をしている。
統帥権干犯問題で海軍を分裂させて軍令部の独走を許し、名分の無い戦の遠因をつくった末次信正大将。
日米戦争に関して「ノー」と言うべきところを「近衛総理に一任」などと言って日米開戦の近因をつくった及川古志郎大将。
開戦に踏み切り、しかも戦局の収拾を図らなかった永野修身大将と嶋田繁太郎大将。
井上は以上の大将を「三等大将」はおろか「国賊」とまで評した。戦後はもちろん、現役時代にも省内の執務場所でそう言うのを、何人かの人が耳にしている。
井上が「一等大将」に挙げているのは山本権兵衛大将(2期・海相・首相)と加藤友三郎大将(7期・海相・首相・元帥)の二人だけである。
井上が終生尊敬した米内光政大将と山本五十六大将に対しても、無条件では「一等大将」に挙げなかった。
東郷平八郎元帥に対しては一応評価はしているが、昭和5年のロンドン軍縮条約締結を妨害しようとした加藤寛治ら艦隊派の言い分を、鵜呑みにして海軍省首脳を攻撃したりした点については手厳しい。
井上は「日本を亡ぼした者は陸軍と一部の海軍。海軍を亡ぼした者は東郷さんをはじめとした一部の海軍軍人」とまで言っている。
では自分自身に対してはどうか。「もともと大将の器ではありません」と明言しているので、これは論外扱いである。
井上大将は昭和20年10月10日待命を仰せ付けられ、ついで10月15日、予備役に編入された。五十五歳であった。
明治39年十六歳で海軍兵学校入校以来、三十九年間の海軍生活はここに幕を閉じた。
戦後、井上大将は横須賀市長井の自宅に隠棲し公職につくことなく、昭和50年12月15日死去した。八十六歳だった。
(「井上成美海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣一成陸軍大将」が始まります)。
ホントは東北訛りなのですが、ブログの活字では標準語にやくしました。長々すみません。東條大将の記事、興味深く読ませていただきました。
あくまで阿川氏の書いた「井上成美」からの視点ですが 深く感銘いたし 井上提督に心酔致しております
意外に末次信正大将については、その所見について褒めてますね。全体的にみると、末次、加藤寛治ラインは統帥権問題で有為の人材を予備役に編入していく嚆矢になったのであまり評価できませんが