陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

361.黒島亀人海軍少将(1)黒島亀人が資質的に海軍軍人に向いていたかどうか

2013年02月21日 | 黒島亀人海軍少将
 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(小林久三・光人社NF文庫)によると、黒島亀人は、広島県安芸郡吉浦町(現・呉市)に生まれたので、子供のときから、海軍兵学校のある江田島を見て育ったようなものだった。

 黒島亀人が三歳のとき、父親が死に、母が離縁されたので、黒島亀人は、叔父夫婦に育てられた。小学校には叔父の家業の鍛冶屋を手伝いながら通った。

 黒島が小学校に通っていた頃、一度、生母の、ミネが黒島に会いに来たが、黒島は懐かしさの感情をあまり示さなかったという。

 養父母に対する遠慮からか、それとも、三歳までの記憶が欠落していたのか、他人の目には、その感情の動きを読み取らせなかったという。

 頭はすこぶる良かった。中学時代の成績が良かった黒島は、家が貧しいこと、両親が養父母であること、それらを考えて、官費で教育が受けられ、しかも一生が保証されている学校を考えるようになった。

 黒島の前には、手を伸ばせば手の届くような距離に海軍兵学校があった。海軍兵学校受験を胸の中で固めるのにそう時間はかからなかった。

 黒島亀人が資質的に海軍軍人に向いていたかどうか。目の前に海軍兵学校がなかったら、養父母が淡い期待を抱いていた医者になっていたといわれている。晩年は哲学・宗教の道を歩んでいる。

 だが、途中まで夜間部でしかも進学校でもなかった地方の中学校から受験して、黒島は難関の試験を突破して海軍兵学校に入学した。二六〇〇人が受験して入学成績は合格者百人中六十番だった。大正二年のことである。

<黒島亀人(くろしま・かめと)海軍少将プロフィル>
明治二十六年十月十日広島県安芸郡吉浦町(現・呉市)生まれ。父・亀太郎(石工)、母・ミネの長男。
明治二十九年(三歳)九月父・亀太郎がロシアのウラジオストックで出稼ぎ中に急死。母のミネは離縁され、実家に帰されたので、亀人は叔父・岩永重郎(鍛冶屋)、ミツ夫婦に引き取られる。ミツは亀人の父・亀太郎の妹。ミツは生涯自分の子供は生んでいない(石女)。亀人は高等小学校卒業後旧制海城中学校夜間部に通学、その後広島市の私立明道中学校四年に編入。
大正二年(二十歳)九月海軍兵学校(四四期)入学。受験生は二六〇〇人、合格者は一〇〇人。黒島亀人の入学時の成績は六〇番。
大正五年(二十三歳)十一月二十二日海軍兵学校(四四期)卒業。卒業成績は九十五人中、三十四番。卒業後少尉候補生として練習艦隊の装甲巡洋艦「常盤」(九七〇〇トン)乗組み。後に戦艦「山城」(三四七〇〇トン)乗組み。ちなみに四四期首席は一宮義之少将(徳島・海大二八・米国駐在武官補佐官・一等巡洋艦「足柄」艦長・少将・第十二航空艦隊参謀長・軍需局総務部長)、次席は黒田麗少将(広島・海大選科・艦本出仕・欧米出張・火薬支廠総務部長・少将・技研化学研究部長)、三番は西田正夫大佐(兵庫・海大二六次席・第一次ロンドン軍縮会議随員・英国駐在武官補佐官・駆逐艦「島風」艦長・海大教官・第二次ロンドン軍縮会議随員・軍令部第三部第八課長・重巡洋艦「利根」艦長・戦艦「比叡」艦長・予備役・第九五一航空隊司令・福岡地方人事部長)。
大正六年(二十四歳)十二月一日海軍少尉。
大正七年(二十五歳)七月二日養母ミツ死去。十一月九日装甲巡洋艦「八雲」(九六四六トン)乗組み。
大正八年(二十六歳)十二月一日海軍中尉。水雷学校普通科学生。
大正九年(二十七歳)五月三十一日砲術学校普通科学生。
大正十年(二十八歳)十二月一日巡洋戦艦「金剛」(二七五〇〇トン)分隊長心得。
大正十一年(二十九歳)十二月一日海軍大尉。砲術学校高等科学生。
大正十二年(三十歳)十二月一日一等駆逐艦「波風」(一三四五トン)砲術長。
大正十四年(三十二歳)七月広島市西条町の旅館「大正館」の長女・森マツノ(二十四歳)と結婚。十二月一日砲術学校教官。
大正十五年(三十三歳)十二月一日海軍大学校(二六期)入学。
昭和三年(三十五歳)十二月海軍大学校卒業。海軍少佐。第二遣外艦隊参謀。
昭和四年(三十六歳)十一月三十日戦艦「陸奥」(三三八〇〇トン)副砲長。
昭和五年(三十七歳)十二月一日佐世保海兵団分隊長。
昭和六年(三十八歳)十一月二日一等巡洋艦「羽黒」(一三一二〇トン)砲術長。
昭和七年(三十九歳)十一月十五日一等巡洋艦「愛宕」(一二七八一トン)砲術長。
昭和八年(四十歳)十一月十五日海軍省軍務局(第一課)。
昭和九年(四十一歳)十一月十五日海軍中佐。五月東郷元帥葬儀委員。
昭和十一年(四十三歳)十二月一日第五戦隊参謀。
昭和十二年(四十四歳)三月十日第四戦隊参謀。七月十五日軍令部出仕。七月二十八日第九戦隊参謀。十一月第二艦隊先任参謀。
昭和十三年(四十五歳)十一月十五日海軍大佐。十二月二十日海軍大学校教官(戦略)。
昭和十四年(四十六歳)十月二十日連合艦隊先任参謀兼第一艦隊参謀。
昭和十六年(四十八歳)十二月八日真珠湾攻撃。
昭和十七年(四十九歳)六月五日・六日ミッドウェー海戦。八月八日・九日第一次ソロモン海戦。八月二十四日第二次ソロモン海戦。十一月十二日~十五日第三次ソロモン海戦。
昭和十八年(五十歳)四月七日~十五日「い号」作戦。四月十八日連合艦隊司令長官・山本五十六大将戦死。七月十九日黒島亀人軍令部第二部長。十一月一日海軍少将。第二部長として特攻兵器の研究・開発。
昭和二十年(五十二歳)八月十五日終戦。九月六日大東亜戦争調査委員会幹事。十一月一日予備役。東京で「白梅商事」(顕微鏡販売)を黒島は設立。社長は木村愛子、副社長は山本礼子(山本五十六の未亡人)、常務に黒島が就任。
昭和二十一年(五十三歳)二月郷里の広島県吉浦町に妻子と共に帰り農業に従事。自決を考えるが、家族と別居し、東京世田谷の木村愛子の邸宅に同居。その後、哲学・宗教の研究に没頭して過ごす。
昭和四十年十月二十日肺ガンで死去。享年七十二歳。

 黒島亀人と同郷の後輩、香川亀人氏が書いた労作「黒島亀人伝」によると、海軍兵学校時代、黒島が帰郷したとき、香川に会ったときのことが次のように記してある。

 「もう一つ忘れてならないのは彼氏(黒島亀人)が兵学校から初めての休暇のあった正月、禅宗の白隠や道元について大いに語ったことである」

 「禅の内容についてはよくわからなかった。(中略)座禅の方法を教えて、『おい、白隠はセイ下丹田が鉄のように堅くなって打てばカンカンと音がするようになっていたのだぞ』(後略)といって座禅の仕方を実施指導してくれた」

 「あまり熱心に禅の話をするので、兵学校では課外に武士の宗教と言われる禅が教えられているものと思っていた」

 「晩年、氏が宗教の研鑽に没頭したのもこの辺に由来すると考えたが(中略)、兵学校では別に宗教は課外でも扱われなかった」。

 十代半ばから後半にかけての精神形成期に、難解な宗教や哲学に関心をもつのは、特に珍しいことではない。

 黒島亀人が禅に興味と関心を持ったからといって、特筆すべきことではないかもしれないが、彼には、どこか宗教的、あるいは哲学的な性向が非常に強い。

 それが海軍軍人としての彼を特異にしているのだが、その性向の発芽が、海軍兵学校入学とともに見られることに注目したい。