陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

523.永田鉄山陸軍中将(23)永田鉄山(当時参謀本部第二部長)がたった一人反対した

2016年04月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、永田少将も真崎参謀次長には一目置き、親密感も捨ててはいなかった。これは、真崎参謀次長は永田少将の前妻との結婚式での媒酌人であったことや、真崎参謀次長が第一師団長当時、永田大佐が歩兵第三連隊長で、部下として、真崎師団長を崇拝し、親交があったのである。

 さて、当時、参謀本部第二部長・永田鉄山少将と第三部長・小畑敏四郎少将は対ソ戦略における戦略思想の見解の相違で対立が生じていた。

 「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、小畑少将ら(荒木陸軍大臣・皇道派の幕僚)、の対ソ戦略に対する戦略思想は次のようなものだった(要旨抜粋)。

 現在の日本の対満州国策は崇高な目的や指導精神を持っているが、客観的本質は大和民族の満蒙支配である。ソ連から見れば、このような日本の政略は、ソ連の極東政策、北満経営を覆滅するものであり、ソ連に多大の脅威と憤懣を与えている。

 それにもかかわらず、ソ連がそれに反攻してこないのは、国内の全般的実力が許さず、対外的に列国との関係が厳しいからだ。

 従って、ソ連の国力が回復し、日本の対英米関係の悪化など国際環境が変化すれば積極的反攻にでるだろう。また、世界革命論に基づく東方外洋への発展思考から、ソ連の日本への積極的反抗行為は必定だ。

 これに対処するためには、そのような条件が整う以前に、ソ連に一撃を加え、極東兵備を壊滅させる必要がある。そのためには、ソ連の第二次五ヵ年計画完了による国力充実以前の、昭和十一年前後に対ソ開戦を行う必要がある。

 以上が小畑少将らの対ソ戦略思想だった。

 これに対して、永田少将ら(参謀本部第二部幕僚・統制派幕僚)の対ソ戦略の思想は次のようなものだった(要旨抜粋)。

 第二次五ヵ年計画終了の数年後まではソ連の戦争準備は完了せず、戦争遂行の力を発現するには至らない。したがって、対ソ開戦を昭和十一年前後の時点に設定するのは妥当ではない。

 また、現在の国際情勢は日本に有利ではなく、満州国の迅速な建設が焦眉である。日本国内も政治的経済的な欠陥があり、挙国一致は表面的なもので国運を賭する大戦争を行うのは適当ではない。

 もし、対ソ戦に踏み切るとしても、満州国経営の進展、国内事情の改善、国際関係の調整などの後に実施すべきだ。

 さらに、「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)では、永田鉄山少将の対ソ戦略について、次のように記されている。

 日本がある国家と戦争を行うには、国力を遺憾なく発揮することが第一要件であって、このためには政治、経済各般にわたる不合理なる現在の国内事態を改善し、真に挙国一致の実を収める様にせねばならぬ。

 満州国はいまだ混沌としてその人心の安定を見ず、天与の資源は未開発の状態であって、なんら戦争の用に立ち得ない。

 一方国際関係は日本を全く孤立状態に立たしめているが、それは満州事変に関する世界の認識不足から来ている。

 日本は速に皇道日本の実証を国内改善によって世界に示し、満州国をして王道楽土の実を挙げ締め、世界に皇道日本の真理想を具体的に諒承せしめる必要がある。

 いたずらに独善猪突するは、現在日本の実情がこれを許さぬばかりでなく、八紘一宇の大理想を顕現するに何らの意味もなさないのみか、非常なる障碍(しょうがい)となる。

 もしそれ他の邦家(ほうか・国)にして満州国の建国を破壊し、ひいて我が理想の顕現を阻害するにおいては、断固として起たねばならぬが、しかし今(昭和7年頃)はそれほどまでに逼迫(ひっぱく)した状態ではない。

 現下日本の急務は寧ろ国内の改善、軍備の充実、満州国の開発、情勢の調整である。

 以上が、当時の永田少将の対ソ戦略に基づく、戦争観を要約したものである。

 この永田少将、小畑少将の対ソ戦略の見解の根本的相違が激突するのは、昭和八年四月から五月にかけて行われた、陸軍の省部合同首脳会議であった。

 「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、この陸軍の省部合同首脳会議について、当時の陸軍大臣・荒木貞夫大将は、戦後回顧して、次のように記している。

 昭和八年六月と思うが、私は陸軍省、参謀本部の局長、部長、課長全部を集め、「満州事変後の根本方針をどうするか」について、全幕僚会議を開いた。

 会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあった。ところが永田鉄山(当時参謀本部第二部長)がたった一人反対したのだ。