陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

78.有末精三陸軍中将(8) お前は課長なんだから、俺のところの岡課長と話せ

2007年09月21日 | 有末精三陸軍中将
 有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和10年7月10日、林陸軍大臣は、大臣官邸において真崎大将と懇談、国軍全般のため教育総監を辞めて軍事参議官にと諒解を求めたが真崎大将は拒否し物別れとなった。

 7月12日に、閑院参謀総長を交えて三長官会議が開かれたがこれも不備に終わった。

 その後軍事参議官たる大将がしばしば大臣官邸広間に集まって、真崎擁護と林支援の評定会談が開かれた。

 真崎擁護の立場に立ったのは、荒木大将、菱刈隆大将、本庄繁大将であった。一方林陸軍大臣支援の先頭に立ったのは同期の渡辺錠太郎大将であり、阿部信行大将、松井岩根大将が同調した。川島義之大将は始終沈黙だったといわれている。

 その後も三長官会議が開かれたが、決着を見ず、宮中のご都合を伺って、内奏のご裁可を仰ぐことになった。

 葉山御用邸に参堂すべく、有末少佐は林大臣に自動車でお伴をした。車中林大臣は「もし(真崎大将罷免を)ご裁可にならなかったらどうするか」と有末少佐に問うた。

 有末少佐は「ただちに辞表を捧呈してお詫びされるほかありますまい」と答えると、林大臣は「内懐を手で指しながら「ここに準備して持ってきている」と覚悟の程を示した。

 御用邸に着くと本庄武官長の案内で林大臣は午前へ出た。あまり長い時間ではなかったが、午前を退下した林大臣は本庄武官長としばらく密談の後、帰京の途についた。

 車中で林大臣は開口一番「陛下はただちにご裁可を賜り、それだけでよいのか(現役を辞めないでもよいのか)とのご下問があったくらいであった」と、有末少佐に話した。この時点で真崎大将の教育総監罷免が決定した。次の教育総監は渡辺錠太郎大将に決まった。

 昭和10年8月1日の定期異動で有末少佐は陸軍大臣秘書官を免じ軍事課国際渉外関係の課員に補せられた。

 その前、7月下旬、転任の内命に接した有末少佐は林大臣に挨拶したところ、林大臣はとくに靖国神社刀剣鍛錬所の刀匠「靖光」が入念に鍛えた日本刀を軍刀に仕込んでわざわざ大臣自ら箱書きの上、有末少佐に記念として贈った。

 また大臣が座右の銘にしていた「不耽溺不凝滞而更其操守」の句も軸書として有末少佐に贈った。

 この後、有末少佐は昭和11年8月に歩兵中佐に昇進し、イタリア大使館付武官としてイタリアへ赴任した。

 昭和14年3月陸軍省軍務局軍務課長に補任された有末大佐は6月24日イタリアから帰国した。

 帰国してみると三国同盟問題が全く行き詰まりの状態であった。有末大佐が板垣陸軍大臣、参謀総長載仁親王殿下に帰任の申告をしたとき、特に三国同盟問題に対し努力善処するよう強い激励を受けた。

 有末大佐は26日から早速関係者を訪問した。平沼首相は「何とかして三国同盟は結びたい。ヒットラー氏に出したメッセージに中立的態度を取らず、という字句を入れたが、外務大臣のところで削除された。事実条約局長から反対の提示もあったほどだ」と賛成しているが積極的姿勢は見られなかった。

 石渡蔵相は「無理に参戦を義務付けることはいけないが、政治的に秘密条項なしにやる意見には同意だ」と平沼首相と大同小異の意見。

 有田外相からは同意とも不同意とも意思表示は無かったが、有末大佐が一時間あまり報告を続けると「次の用務があるのでこれで失礼する」と席を立った。これで外相は不同意だと有末大佐は思った。

 海軍軍令部次長・古賀中将と作戦部長・宇垣少将は二人とも「多少字句を巧く操れば、どうしてあれができないのか」と決して不同意ではなかった。

 海軍省の主任課長の岡敬純大佐は「今字句を練っているのだから、貴公あまりあわてるなよ」と軍令部の意見と同じであった。

 ところが、井上成美軍務局長は、有末大佐に対して、三国同盟問題について聞こうとしなかった。

 有末大佐は十年前イタリア駐在の折にも、また秘書官時代には海軍の軍務第一課長として知らぬ仲でもなかった。

 有末大佐が井上軍局長のところに行って話を切り出そうとすると、井上局長は「俺は君のところの町尻軍務局長と話をする。お前は課長なんだから、俺のところの岡課長と話せ」と一向に取り合ってくれない。

 いわんや、山本五十六次官、米内海相にはとりつくしまもなく、ついに面会さえもできなかった。有末大佐は、ははあ、海軍はこういう情況かと落胆した。このときは三国同盟締結は露となって消えた。

 昭和14年12月1日の発令で有末大佐は北支那方面軍参謀に補され、北平(北京)に赴任した。だが昭和15年に有末大佐は、その地で三国同盟が締結された報告を受けた。