小沢司令長官は厚木航空隊に対して断固たる処置に出た。「小薗部隊を叛乱軍として討伐することを命じる。命令を書け」と千早参謀に命じた。
千早参謀は直ちに、横須賀鎮守府司令官・戸塚道太郎中将(海兵38・海大20)に宛てて、鎮定命令を発令した。鎮守府の鎮定部隊は、ただちに行動を起こした。
だが、当の小薗司令は精神に異常をきたし、横須賀海軍病院に収容されて、事態は収拾した。
小沢中将は、最後の連合艦隊司令長官として一切の終戦業務を済ませると、戦後は世田谷の自宅に引きこもった。
世間の表には一切出ず、マスコミも寄せ付けず、自分のあばら家、それもあまり大きくない建物の大部分を他人に貸し、鶉や七面鳥を飼い、清貧の生活を続けた。
「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、戦後の清貧の生活について、良妻賢母で、夫に尽くし続けた妻の石蕗(つわ)が「電話も売ってしまいました。あの電話は大変おいしゅうございましたよ」とカラッと言ったという話が残っている。
昭和32年1月航空自衛隊のF86Fジェット戦闘機2機が訓練飛行中、接触事故を起こし、墜落した。
「パイロットが死亡」というニュースが流れた。
その「死亡した」とされるパイロットは、歴戦の名パイロットで、小沢の親戚に当たった。
小沢はこのニュースを聞いて「事故で死ぬなんて。戦争で死なずに、生き恥をさらしおったくせに」と低い声だが、はっきりと言った。
その言葉を聴いた、妻の石蕗は「あなたただって、そうではないですか」と思わず言ってしまった。そのとき、小沢の表情はみるみる哀しさで溢れ、黙したままだったという。(後に、その名パイロットは救助されたことが判った)。
戦後の小沢はマスコミの取材を受けても黙して語らずの態度を一貫して通した。対外的でなく、家庭でも、小沢は無口であったという。
十年余り同居している娘婿の大穂利武は「義父と会話を交わしたのは、五回ぐらいしかありませんよ」と言っている。
食事のとき、差し向かいに座った小沢と大穂の間に会話はなく、無言のまま時が経つ。大穂は「十年間で義父と話した内容は四百字詰め原稿用紙にして十枚あるかないかですよ」と苦笑しながら語ったという。
小沢が愛読していた吉野秀雄の「良寛和尚の人と歌」の中でも、良寛が自筆でしたためたという「戒語」には、特に小沢は心を惹かれていたという。その「戒語」は次の通りであった。
一、ことばの多き。一、口のはやき。一、とはずがたり。一、人の物いいきらぬうちに物いう。一、こと葉のたがう。一、たやすく約束する。一、酒に酔いてことわりいう。一、己が氏素性の高きを人に語る。一、学者くさき話。
小沢は昭和39年4月、排尿が不如意になり、前立腺肥大の疑いで自衛隊中央病院に入院した。その後家に帰ったが、昭和41年8月上旬に足が不自由になり、寝室は二階から一階に移された。
その後衰えが進み、昭和41年11月9日、呼吸は続いていたが、もう生きている状態ではなかった。
妻の石蕗が、「あなた、たばこどうですか」と言って火を点けたタバコを渡した。小沢は一日に何十本も喫う男だった。それが、石蕗が小沢に話しかけた最後の言葉になった。
昭和41年11月9日午後1時20分、小沢治三郎元海軍中将は静かにその生涯を終えた。80歳だった。
11月13日、葬儀が東京の護国寺で営まれた。参列者は約600名だった。葬儀委員長は長谷川清元海軍大将(海兵31・海大12)だった。
(「小沢治三郎海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「牟田口廉也陸軍中将」が始まります)
千早参謀は直ちに、横須賀鎮守府司令官・戸塚道太郎中将(海兵38・海大20)に宛てて、鎮定命令を発令した。鎮守府の鎮定部隊は、ただちに行動を起こした。
だが、当の小薗司令は精神に異常をきたし、横須賀海軍病院に収容されて、事態は収拾した。
小沢中将は、最後の連合艦隊司令長官として一切の終戦業務を済ませると、戦後は世田谷の自宅に引きこもった。
世間の表には一切出ず、マスコミも寄せ付けず、自分のあばら家、それもあまり大きくない建物の大部分を他人に貸し、鶉や七面鳥を飼い、清貧の生活を続けた。
「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、戦後の清貧の生活について、良妻賢母で、夫に尽くし続けた妻の石蕗(つわ)が「電話も売ってしまいました。あの電話は大変おいしゅうございましたよ」とカラッと言ったという話が残っている。
昭和32年1月航空自衛隊のF86Fジェット戦闘機2機が訓練飛行中、接触事故を起こし、墜落した。
「パイロットが死亡」というニュースが流れた。
その「死亡した」とされるパイロットは、歴戦の名パイロットで、小沢の親戚に当たった。
小沢はこのニュースを聞いて「事故で死ぬなんて。戦争で死なずに、生き恥をさらしおったくせに」と低い声だが、はっきりと言った。
その言葉を聴いた、妻の石蕗は「あなたただって、そうではないですか」と思わず言ってしまった。そのとき、小沢の表情はみるみる哀しさで溢れ、黙したままだったという。(後に、その名パイロットは救助されたことが判った)。
戦後の小沢はマスコミの取材を受けても黙して語らずの態度を一貫して通した。対外的でなく、家庭でも、小沢は無口であったという。
十年余り同居している娘婿の大穂利武は「義父と会話を交わしたのは、五回ぐらいしかありませんよ」と言っている。
食事のとき、差し向かいに座った小沢と大穂の間に会話はなく、無言のまま時が経つ。大穂は「十年間で義父と話した内容は四百字詰め原稿用紙にして十枚あるかないかですよ」と苦笑しながら語ったという。
小沢が愛読していた吉野秀雄の「良寛和尚の人と歌」の中でも、良寛が自筆でしたためたという「戒語」には、特に小沢は心を惹かれていたという。その「戒語」は次の通りであった。
一、ことばの多き。一、口のはやき。一、とはずがたり。一、人の物いいきらぬうちに物いう。一、こと葉のたがう。一、たやすく約束する。一、酒に酔いてことわりいう。一、己が氏素性の高きを人に語る。一、学者くさき話。
小沢は昭和39年4月、排尿が不如意になり、前立腺肥大の疑いで自衛隊中央病院に入院した。その後家に帰ったが、昭和41年8月上旬に足が不自由になり、寝室は二階から一階に移された。
その後衰えが進み、昭和41年11月9日、呼吸は続いていたが、もう生きている状態ではなかった。
妻の石蕗が、「あなた、たばこどうですか」と言って火を点けたタバコを渡した。小沢は一日に何十本も喫う男だった。それが、石蕗が小沢に話しかけた最後の言葉になった。
昭和41年11月9日午後1時20分、小沢治三郎元海軍中将は静かにその生涯を終えた。80歳だった。
11月13日、葬儀が東京の護国寺で営まれた。参列者は約600名だった。葬儀委員長は長谷川清元海軍大将(海兵31・海大12)だった。
(「小沢治三郎海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「牟田口廉也陸軍中将」が始まります)