「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、小沢治三郎は少年のころから、こせこせせず、土性骨が座っていた。腕力が強く、絶えず喧嘩をした。そのくせ頭が良かったから、いつも餓鬼大将だった。
県立宮崎中学校に入学したのも頭が良かったからである。しかし乱暴な性格はなおらず、校長からマークされ、喧嘩をしては教員室に呼び出された。「お前のように勉強もせんで、喧嘩ばかりしていると落第だぞ」
ある日、校長夫人が人力車に乗って町を通っているところに出会った。校長に恨みでもあったのかどうか、小沢は人力車に近づくといきなり梶棒をひったくって、ひっくり返してしまった。体も大きく柔道も強かったので車夫も防ぎようがなかった。
中学三年のとき、正義派と不良学生が大喧嘩になった。正義派の旗色が悪かった。小沢はこれを聞いて駆けつけた。元来無口で雄弁ではなかった小沢は、何処からか日本刀を持ち出してきて、「叩き切ってやる」と不良学生たちを追い回した。
新聞にこの事件がでかでかと掲載された。この事件が元で、職員会議の結果、小沢はとうとう退学処分となった。小沢はさすがにがっくり来たと言われている。
明治37年11月のことで、日露戦争の真っ最中だった、小沢の長兄の宇一郎は陸軍軍曹で満州へ出征していた。宇一郎は弟の治三郎のことを家族からの手紙で知り、乱暴者の弟のことを上官の牛島貞雄大尉に相談した。
牛島貞雄大尉(陸士12・陸大24)は、後に陸軍大学校長(昭和5年)、第十九師団長(昭和8年)、第十八師団長(昭和12年)、陸軍司政長官(ビサヤ支部長・昭和17年~18年)、在郷軍人会副会長(昭和19年6月)などを務めた清廉潔白な軍人であった。
当時、満州軍第六師団歩兵第二十二連隊第十中隊長だった。部下思いで教育熱心だった牛島大尉は、早速見たこともない南九州の一少年に次のような手紙を書いて送った。
「過ちて改むるに憚ること勿れ。本夕、生が骨肉の親しみある小沢宇一郎君は、悄然たる態度で私に告げて曰く、治三郎は退学を命じられたりと。私は炉辺をたたいて、寧ろこれを賞讃せり。蓋し君が退学の原因は必ず簡明で、半面純美なる真理を含み罪ありとするも、其の罪や白雲の如きを信じたればなり。」
「宇一郎君曰く、喧嘩のためなりと。多分然らん。世には実にずーずーしき懦弱(だじゃく)漢なしとせず、これらを排撃するは青年時代の一快挙なり。然りと雖もまた私は君が頭を冷静にして、さらに一考を煩わしたきや切なり。」
「なんとなれば学校には教員あり、舎監あり、それぞれ学生を戒むべき当局者あり、血気に逸りて無謀の行為をなすことは、あまり奨励すべきことに非ず。学生には学生の本分があり、過ちを正すは友誼的徳義心から発するものなればなり。」
「当局者を措いて勝手の振る舞いをする如きは、将来大いに慎重に去るべく、生は誠実に君に希望するものなり。宇一郎君の話を聞き、取り敢えずしたたむ。君は天地に俯仰(ふぎょう)して疾しき所なきも、自分の過ちであったならば、いさぎよく之を改むるに憚る勿れ、これ、真の勇気ある少年なり」
「十二月二十五日(明治二十七年)夜九時 盛なる銃声を聞きつつ牛島貞雄したたむ」。
小沢はこの手紙を表装し、生涯、大切に保存していた。
小沢の兄、宇一郎は、この日露戦争で偉勲をたてて戦死した。牛島貞雄大尉は後に陸軍中将まで栄進した。小沢治三郎も海軍中将になった。二人は戦後、よく顔を合わせ、談笑していたという。
明治38年、宮崎中学を退学させられた小沢は東京、日比谷の私立名門校・成城中学に編入学した。
「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、ある日、山の手一番の繁華街だった神楽坂を小沢はぶらぶらしていたら、一人の男から「おいっ」と声をかけられた。「大きな顔をして歩いているじゃないか」と喧嘩を吹っかけられた。
小沢は、色が黒くて大柄で、ひと癖ありそうな面構えをしている。南九州から出てきたばかりで、いかにも田舎くさい。
小沢は相手にしなかったが、相手の男は小沢の前に立ちはだかり、小沢の胸倉をつかんだ。小澤は自制心が消えうせ、立ち向かった。
県立宮崎中学校に入学したのも頭が良かったからである。しかし乱暴な性格はなおらず、校長からマークされ、喧嘩をしては教員室に呼び出された。「お前のように勉強もせんで、喧嘩ばかりしていると落第だぞ」
ある日、校長夫人が人力車に乗って町を通っているところに出会った。校長に恨みでもあったのかどうか、小沢は人力車に近づくといきなり梶棒をひったくって、ひっくり返してしまった。体も大きく柔道も強かったので車夫も防ぎようがなかった。
中学三年のとき、正義派と不良学生が大喧嘩になった。正義派の旗色が悪かった。小沢はこれを聞いて駆けつけた。元来無口で雄弁ではなかった小沢は、何処からか日本刀を持ち出してきて、「叩き切ってやる」と不良学生たちを追い回した。
新聞にこの事件がでかでかと掲載された。この事件が元で、職員会議の結果、小沢はとうとう退学処分となった。小沢はさすがにがっくり来たと言われている。
明治37年11月のことで、日露戦争の真っ最中だった、小沢の長兄の宇一郎は陸軍軍曹で満州へ出征していた。宇一郎は弟の治三郎のことを家族からの手紙で知り、乱暴者の弟のことを上官の牛島貞雄大尉に相談した。
牛島貞雄大尉(陸士12・陸大24)は、後に陸軍大学校長(昭和5年)、第十九師団長(昭和8年)、第十八師団長(昭和12年)、陸軍司政長官(ビサヤ支部長・昭和17年~18年)、在郷軍人会副会長(昭和19年6月)などを務めた清廉潔白な軍人であった。
当時、満州軍第六師団歩兵第二十二連隊第十中隊長だった。部下思いで教育熱心だった牛島大尉は、早速見たこともない南九州の一少年に次のような手紙を書いて送った。
「過ちて改むるに憚ること勿れ。本夕、生が骨肉の親しみある小沢宇一郎君は、悄然たる態度で私に告げて曰く、治三郎は退学を命じられたりと。私は炉辺をたたいて、寧ろこれを賞讃せり。蓋し君が退学の原因は必ず簡明で、半面純美なる真理を含み罪ありとするも、其の罪や白雲の如きを信じたればなり。」
「宇一郎君曰く、喧嘩のためなりと。多分然らん。世には実にずーずーしき懦弱(だじゃく)漢なしとせず、これらを排撃するは青年時代の一快挙なり。然りと雖もまた私は君が頭を冷静にして、さらに一考を煩わしたきや切なり。」
「なんとなれば学校には教員あり、舎監あり、それぞれ学生を戒むべき当局者あり、血気に逸りて無謀の行為をなすことは、あまり奨励すべきことに非ず。学生には学生の本分があり、過ちを正すは友誼的徳義心から発するものなればなり。」
「当局者を措いて勝手の振る舞いをする如きは、将来大いに慎重に去るべく、生は誠実に君に希望するものなり。宇一郎君の話を聞き、取り敢えずしたたむ。君は天地に俯仰(ふぎょう)して疾しき所なきも、自分の過ちであったならば、いさぎよく之を改むるに憚る勿れ、これ、真の勇気ある少年なり」
「十二月二十五日(明治二十七年)夜九時 盛なる銃声を聞きつつ牛島貞雄したたむ」。
小沢はこの手紙を表装し、生涯、大切に保存していた。
小沢の兄、宇一郎は、この日露戦争で偉勲をたてて戦死した。牛島貞雄大尉は後に陸軍中将まで栄進した。小沢治三郎も海軍中将になった。二人は戦後、よく顔を合わせ、談笑していたという。
明治38年、宮崎中学を退学させられた小沢は東京、日比谷の私立名門校・成城中学に編入学した。
「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、ある日、山の手一番の繁華街だった神楽坂を小沢はぶらぶらしていたら、一人の男から「おいっ」と声をかけられた。「大きな顔をして歩いているじゃないか」と喧嘩を吹っかけられた。
小沢は、色が黒くて大柄で、ひと癖ありそうな面構えをしている。南九州から出てきたばかりで、いかにも田舎くさい。
小沢は相手にしなかったが、相手の男は小沢の前に立ちはだかり、小沢の胸倉をつかんだ。小澤は自制心が消えうせ、立ち向かった。