陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

380.黒島亀人海軍少将(20)そんなことは、長官はよく分かっておられる。よけいなことを言うな

2013年07月04日 | 黒島亀人海軍少将
 黒島大佐は仰天した。海軍の至宝が、そのような前線を視察するのは非常に危険だ。黒島大佐は言った。「おやめください、長官。あまりに危険です。長官に万一のことがあれば、海軍は崩壊します」。

 渡辺参謀も、黒島大佐に同調して叫んだ。「おやめください」。その席に出席している、主要幹部の多くの者が、山本長官の前線視察に反対して、説得にかかった。

 「しかし、日露戦争の児玉大将の例もあるからな。第一線の将兵にはかなりの刺戟になると思う」と山本長官は厳しい表情で言った。

 「お言葉ですが、長官、児玉大将は総参謀長で総司令官ではありませんでした。総司令官の大山大将は、煙台から離れたりしなかったはずです」と黒島大佐は言った。

 「そんなことは、長官はよく分かっておられる。よけいなことを言うな」。第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(宮崎・海兵三七・海大一九・巡洋戦艦「榛名」艦長・少将・海大教官・水雷学校長・第一戦隊司令官・中将・海大校長・第三艦隊司令長官・軍令部次長・連合艦隊司令長官)がピシャリと黒島大佐に言った。

 確かに、僭越な発言だった。黒島大佐は恥じて、山本長官に目をやった。二人の視線が合ったが、山本長官はすぐに目をそらした。黒島大佐に対して、これまでになかったよそよそしい、山本長官の表情だった。

 この時、黒島大佐は知らなかったが、山本長官はすでに黒島大佐の更迭を決心していた。山本長官は、第十一航空艦隊司令長官・草鹿任一中将(石川・海兵三七・海大一九・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・教育局長・中将・海兵校長・第一一航空艦隊司令長官・草鹿龍之介少将と従兄弟)と小沢治三郎中将に黒島大佐更迭の意向を打ち明け、他の適任者を推薦するよう頼んでいた。

 山本長官は、戦局の変化に応じて、先任参謀を変えることにより、打開を図ることを考えていた。だが、黒島大佐を見限ったのではなかった。黒島大佐の異能を最大限に発揮できるよう、中央のポストにつかせるのが、緊迫をます戦局において全海軍のためであるとも思っていた。

 「い」号作戦は、成功し、終了した。そして四月十八日、山本長官、宇垣参謀長らは第七〇五航空隊の二機の一式陸攻に分乗し、前線視察に向けて飛び立った。

 当時、黒島大佐は原因不明の激しい下痢に苦しんでいた。山本長官は、前日、「ガンジー(黒島大佐のニックネーム)、明日は行かなくていいぞ。静養していろ」と言った。黒島大佐は、それを受け入れてラバウルに残った。

 二機と護衛戦闘機がブーゲンビル島上空にきたとき、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング戦闘機十六機に突然襲撃され、山本長官の一番機と宇垣参謀長の二番機ともに撃墜され、山本長官は戦死した。宇垣参謀長は生還した。山本長官の前線視察は暗号解読によりアメリカ軍に事前に漏れていた。

 昭和十八年七月十九日黒島亀人大佐は軍令部第二部長に補任された。四十九歳だった。十一月に海軍少将に昇進し、終戦まで第二部長として特攻兵器の研究・開発に従事した。

 戦後は、東京で「白梅商事」(顕微鏡販売)を設立し、山本五十六の未亡人である山本礼子を入社させ、副社長に就任させた。社長は木村愛子で、黒島は常務だった。

 軍神の妻である山本礼子も、戦後は、トタン屋根の下で、窮乏生活を送っていた。人づてに、それを聞いた黒島が、援助の手を差しのべたのだった。

 黒島亀人は、その後家族と別居し、東京世田谷の木村愛子の邸宅に同居。哲学・宗教の研究に没頭して晩年まで過ごした。

 昭和四十年十月二十日、黒島亀人は肺ガンで死去した。享年七十二歳だった。黒島亀人は、昏睡のなかで、「南の空に飛行機が飛んでいく」と、うわ言のように言い、息を引き取ったという。

 「南の空に飛行機が飛んでいく」という言葉にあった飛行機は、自分が見送った、最前線視察に飛び立った山本五十六長官の搭乗機だったのか……。ようやく山本五十六のそばにいけるという思いが、最後の言葉になったのだろうか……。

 (「黒島亀人海軍少将」は今回で終わりです。次回からは「真崎甚三郎陸軍大将」が始まります)