陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

35.遠藤三郎陸軍中将(5)  武藤大将の元帥奏請を止めるぞ

2006年11月17日 | 遠藤三郎陸軍中将
 中央と連絡なしに軍命令を実施したので、案の定参謀本部から作戦間うるさいほどの小言や叱責、干渉やらがあり、甚だしいのは「武藤大将の元帥奏請を止めるぞ」などと人事上の脅迫的いやがらせもあった。

 だが、作戦が成功すると、手の裏を返す如く、感謝や賞賛の電報が来たのはまだしも、指導したのは己だと言わんばかりに威張る人も少なくなかった。

 わずか二万の兵で十倍の敵を撃破し、二週間の戦闘で敵を北京、天津の近くまで追い詰め停戦を申し込ましめるのに成功した。昭和8年5月31日、停戦協定が結ばれた。

 遠藤少佐が奉天の某料亭で同期生会を催した時、一軍参謀が料亭のサービスが気に食わんといって「軍参謀をなんと思う」と威張り出し、軍刀を抜いて玄関に飾ってあった立派な古木の盆栽を真っ二つに切った。

 さらに玄関前に停まっていた馬車を邪魔だと言って馬の脚に切りつけたのを見たという。外部だけでなく軍内でも威張り散らす参謀が少なくなかったという。

 7月27日、軍司令官・武藤元帥が病死。後任はびし菱刈大将となった。昭和9年3月1日満州国の帝政実施。3月9日軍参謀長が交代し、西尾寿造中将が就任した。西尾中将は後の大将、教育総監、戦争末期は東京市長。

 昭和9年8月の異動で遠藤少佐は中佐に昇進、陸軍大学校兵学教官を拝命し内地に帰ることになった。

 遠藤中佐は出発の朝、いつもの通り愛馬藤清で馬場運動をやり駅まで乗って行って別れを惜しんだ。

 大連でいよいよ満州を離れる際、新聞記者から思い残す事はないかと聞かれ、「愛馬藤清との別れがつらかった」と言った事が、新聞には愛人との別れと勘違いして書かれ、遠藤中佐は大変迷惑を蒙った。

 遠藤中佐は陸軍大学校兵学教官として二年間に渡って第四十八期生に戦術教育を行ってきた。

 昭和11年2月26日、2.26事件が起きた。遠藤中佐は単身反乱軍の本拠に乗り込んだり、自決した野中大尉の私宅を訪れて霊前に焼香した。

 そのことが問題になり、陸軍当局から好ましからぬ人物として左遷された。当時の加藤守雄補任課長から直接遠藤中佐は聞かされた。

 昭和11年8月1日発令で九州小倉市の野戦重砲兵第五連隊長に補職された。左遷とはいえ、大きな連隊で、大佐相当職だったが遠藤は中佐で連隊長になった。昭和12年8月から北支に出征、戦闘に従事した。

  「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和12年10月29日、野戦重砲兵第五連隊長の遠藤大佐は、参謀本部課長に転任の内報を受けた。
 11月13日には前田治旅団長から、そのポストは作戦課長であることが伝えられた。

 だが、11月28日参謀本部に出向いた遠藤大佐を待っていたポストは第二課(作戦)ではなく第一課(教育)の課長だった。

 遠藤大佐は参謀本部作戦課に長く勤務し、作戦以外の勤務はなく、遠藤大佐自身作戦課長としての勤務を決して疑わなかった。

 だが「それはとんでもない自惚れであり誤算でありました」と遠藤は後に記している。

 なぜ作戦課長のポストをはずされたのか。遠藤大佐はその理由を自分で次のように」分析している。

 (1)2.26事件の際、陸軍当局から好ましからざる人物と目された事。

 (2)野戦重砲兵第五連隊長の時、兵の処罰問題を不当として軍法会議と争い、師団長から「現代の法規を無視し、新たに法を作らんとする悪思想の持ち主」と銘打たれたこと。

 (3)第一部長、橋本群少将(遠藤の砲兵科の先輩、陸士20期、陸大軍刀組の秀才)と考え方が違うこと。

 大正の末期、軍備整理の会議で、当時第一課にいた橋本氏が「砲工学校で高等数学や高級の科学を習っても軍隊教育には直接役に立たないから軍事費節約のために砲工学校は廃止すべきだ」との意見を述べた。

 それに対し、作戦課勤務の遠藤大尉は「教育の目的は商人が仕入れた品物をそのまま高く売って利益を収めるのとは根本的に違う。数学的に科学的に頭を練り、応用の効く人物を養うのが教育の主目的と思う」と述べた。

 さらに、「将校が社会の上位にあると己惚れても中学校や幼年学校程度の学力では恥ずべきである。軍事費が不足ならば軍隊を減少してでも砲工学校は存続して将校の学力を向上すべきである」と反論した事があった。

 これらの理由から遠藤は自分が左遷されたと自ら分析している。