陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

564.源田実海軍大佐(24)日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない

2017年01月13日 | 源田実海軍大佐
 当時、第一航空艦隊司令長官は、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・五番・海大一八・次席・海軍大学校教官・大佐・軽巡洋艦「那珂」艦長・第一一駆逐隊司令・軍令部第二課長・支那事変軍事調査委員会委員・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第八戦隊司令官・海軍水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面司令長官兼第一四航空艦隊司令長官・自決・功一級金鵄勲章・大将)だった。

 昭和十六年九月二十九日、南雲司令長官は、草鹿参謀長、大石首席参謀、源田航空甲参謀、吉岡忠一航空乙参謀(海兵五七・恩賜・海大三九首席・第二三航空戦隊参謀・第一航空艦隊航空乙参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校三九期学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)を引きつれ、鹿屋基地に行った。

 南雲司令長官は、鹿屋基地で第一一航空艦隊の次の二人とハワイ作戦反対の打ち合わせを行った。

 司令長官・塚原二四三(つかはら・にしぞう)中将(山梨・海兵三六・二十番・海大一八・軽巡洋艦「大井」艦長・ジュネーヴ会議全権随員・空母「赤城」艦長・少将・第二航空戦隊司令官・第一連合航空隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・第一一航空艦隊司令長官・航空本部長・兼軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官・大将)。

 参謀長・大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)少将(兵庫・海兵四〇・二十番・佐世保航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・第一一航空艦隊参謀長・航空本部総務部長・中将・軍需省航空兵器総局総務局長・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)。

 打ち合わせの結果、ハワイ奇襲作戦はとりやめ、第一航空艦隊を南方作戦に使うべきであるという意見に、全員が一致した。

 大西参謀長は最後に次のように発言した。

 「私は、ハワイ攻撃は絶対に反対だ。日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない(日本が米本土を攻略・占領することは不可能)。したがって、長期戦争になるならば、ある程度で講話を結ばなければならない」

 「そのためにも、ハワイ攻撃のような米国民を強く刺激する作戦は避けるべきである。太平洋で戦って、真っ先に米空母をつぶすべきだ」。

 この大西少将の合理的な判断は、後に的中した。さすがに強気の源田航空甲参謀も、一同の理のある意見に反論できず、大西参謀長までも反対の状況では、従うほかなかった。

 十月二日朝、大西少将、草鹿少将、源田中佐、吉岡少佐の四人は、大分県の佐伯基地に行った。それから大西少将、草鹿少将の二人が停泊中の連合艦隊旗艦・戦艦「陸奥」に山本司令長官を訪ねた。

 大西少将と草鹿少将は、山本司令長官にハワイ作戦中止を訴えた。だが、山本司令長官は、二人の進言には応えず、「両艦隊とも幾多の困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦はぜひやるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」などと、一方的にハワイ作戦決行を命令口調で力説した。

 山本司令長官の強い決意を知った、大西、草鹿両少将は、さすがに反対意見を取り下げずにはいられなかった。もしこれ以上反対したら、職を辞する以外になかったのである。

 大西少将、草鹿少将が「陸奥」を退艦する時、山本司令長官は二人を舷門まで見送り、後ろから、草鹿少将の肩をたたき、次の様に言った。

 「君の言うこともよく分った。しかし、真珠湾攻撃は僕の固い信念だ。これからは反対意見を言わず、僕の信念を実現することに全力を尽くしてくれ。その計画は君に一任する。南雲長官にもその旨伝えてくれ」。

 草鹿少将は、感動して「全力を尽くして長官のお考えの実現に努力します」と答えた。草鹿少将は、航空のエキスパートで、中堅士官時代から山本司令長官が目をかけており、秘蔵っ子ともいえる関係だった。

 大西少将は、真珠湾攻撃に承服したものの、やはり不本意ではあった。一年後の、昭和十七年九月末、ガダルカナル島攻防戦で日本軍が悪戦苦闘している時、海軍航空本部長であった大西少将は、兵庫県の柏原中学校の同級生、徳田富二に会った。

 その時、徳田が大西少将に「真珠湾は、あれでよかったのか?」と質問すると、大西少将は「いかんのだなあ」と答えて、続けて次の様に言った。

 「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それがこの頃の海戦にあらわれてきているよ」。