陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

69.南雲忠一海軍中将(9) 「長官はふるえておられた」というささやきが伝えられた

2007年07月13日 | 南雲忠一海軍中将
 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、自室に呼んだあと、「ご苦労だったね」とウイスキーと機密費二千円を草鹿参謀長に渡した宇垣参謀長は、次のように言った。

 「いや、GF(連合艦隊司令部)の方も、気のゆるみがあった。実は、五月二十五日ごろから六月一日にかけて、ハワイ方面の敵電報が非常に増えてきていた」

 続けて「何かあったな、と考えていたが、これが敵の空母の出撃だったわけだな。何とかして、君に知らせたいと考えたが、ご承知の無線封止でな、参謀たちここで無電を打てば、大和の位置がわかってしまうと猛反対だったんだ、こういうことになるのなら、危険をおかして、通報すべきだったな。君にはすまなかったと思っている」と頭を下げた。

 草鹿は体がふるえるのを覚えた。旗艦大和の、主力部隊の安全を計る為に赤城の司令部が最も欲しがっていた情報を握りつぶしたのだ。

 長良に帰った草鹿参謀長は、ふんまんの面持ちで南雲長官にそれを報告した。

 「そうか、わかっていたのか」南雲長官は暗然とした。そもそも大和が出て来たのは余計なことではなかったか。大和が太平洋上に来た為に、無線封止をせねばならなかった。

 柱島におれば、自由に情報を打電し、機動部隊を指導することができたはずだ。だが大和司令部を恨む気にはなれなかった。俺が戦い、そして負けたのだ。

 元海軍大佐、淵田美津雄氏はその著書「ミッドウェー」(日本出版協同)の中の第六章で、南雲長官論を記している。

 昭和8年当時、淵田大尉は巡洋艦摩耶の飛行長であった。摩耶は第二艦隊第四戦隊の二番艦であった。同じ戦隊の三番艦高雄の艦長が南雲忠一大佐だった。

 当時南雲大佐は新進気鋭の俊英であった。艦隊には艦長が何人もいたが、その中でも、ぴカ一の存在として光っているように見えた。

 やることなすことにソツがないし、うまいもんだなあと感ずることばかりである。艦隊の研究会でも、南雲大佐の陳述を聞いていると、なるほどと良く筋が通って、啓蒙されることばかりであった。

 これはたいした切れ者と頭が自然に下がった。淵田たち若い士官たちは心からなる尊敬をもって、この有能な艦長に絶対の信頼をおいていた。

 その後、淵田は南雲忠一に接する機会はなく、8年後の昭和16年、淵田は、航空母艦赤城の飛行隊長に補せられた。そして機動部隊長官として南雲中将を仰いだ。

 ところが、航空という畑違いのせいもあってか、溌剌爽快な昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であったと淵田は述べている。

 作戦指導も長官自らイニシアチブをとるという風はなかった。最後に「ウン、そうか」で決裁するだけのようだった。

 淵田と同期の源田作戦参謀が淵田に漏らしたという。

 「いつでも自分の起案した命令案が、すらすらと通ってしまう。抵抗がなくていいようなもんだが、実は違う」

 「自分だけの考えで起案したものが、いつも上のほうで、何のチェックも受けずに、命令となって出て行くと思うと空恐ろしい。俺自身はいくら己惚れても、全知全能ではない」と。

 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で元連合艦隊参謀・海軍中佐、中島親孝氏寄稿の「私の見たアドミラル採点簿」によると、ミッドウエー海戦で壊滅した第一航空艦隊の跡継ぎとして、第二艦隊が新しく生まれた。

 司令長官・南雲忠一中将、参謀長・草鹿龍之介少将が第一航空艦隊から横すべりしたのは「ミッドウェーの敵討ち」をさせてもらいたいと懇願し、山本五十六連合艦隊司令長官のとりなしによったものと言われている。

 昭和17年8月7日、米軍がツラギ、ガダルカナルに上陸してきた。第二艦隊と第三艦隊で支援部隊を編成、ガダルカナルの陸上戦闘を支援する事になったが、連合艦隊司令部が細かい行動まで指示してきた。

 陸軍部隊の作戦が敵を過小評価し、拙速をねらっていたため、小刻みの予定繰り下げが続いた。支援艦隊も海面で似たような行動を繰り返す事を余儀なくされた。

 敵潜水艦の考慮から、毎回なるべく違った行動をとるように考えると、南雲長官は連合艦隊司令部の指示と違うと言って、なかなか首を縦にふらない。

 ようやく同意してもらって電報すると、連合艦隊司令部から指定地点に行けとのおしかりがくる。説明に行った参謀から「長官はふるえておられた」というささやきが伝えられた。

 これがかって日本海軍きっての水雷戦術のオーソリティとうたわれ、海軍省と争って軍令部の権限を拡大させた時の、軍令部側の先頭に立った論客とは思えなかった。