陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

541.源田実海軍大佐(1)大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね

2016年08月05日 | 源田実海軍大佐
 昭和七年、霞ヶ浦航空隊で源田大尉は操縦教官をしていた。「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、海軍将校が例外なく受験する高等科学生の試験を、源田実大尉は受けなかった。

 源田大尉は戦闘機操縦者(戦前はパイロットという名称は使われなかった)として大成することのみを考えていた。

 当時、霞ヶ浦航空隊の飛行長は千田貞敏(せんだ・さだとし)中佐(鹿児島・海兵四〇期・百四十一番・霞ヶ浦航空隊飛行長・給油艦「神威」副長・舞鶴航空隊司令・大佐・大村航空隊司令・第一三航空隊司令・航空本部出仕・逓信省航空局技術部乗員課長・鹿児島航空隊司令・霞ヶ浦航空隊司令・少将・第一四連合航空隊司令官・第二八根拠地隊司令官・戦死・中将・正四位・勲二等)だった。

 ある日、飛行長・千田中佐は操縦教官・源田大尉を呼んだ。千田中佐は源田大尉に高等科学生を受けるように説得するためだった。

 千田中佐「君はどうして、横須賀航空隊の高等科学生を受けないのだ」。

 源田大尉「受ける必要はないと思います」。

 千田中佐「いや、受けたほうが良い。ぜひ受けたまえ」。

 源田大尉「横空の高等科学生は、一体、何を学ぶのですか」。

 千田中佐「それは君、判り切ったことではないか。戦略戦術の勉強だよ」。

 源田大尉「ハア―、そうですか。では聞きますが、大楠公や上杉謙信公などという人は、大用兵家ではありませんか」。

 千田中佐「それは君、もちろん大兵術家だ。それがどうしたというのだ」。

 源田大尉「大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね」。

 千田中佐「判ったよ。もうよろしい」。

 結局、源田大尉は、高等科学生を受験しなかった。

 <源田実(げんだ・みのる)海軍大佐プロフィル>
明治三十七年八月十六日、広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)出身。源田春七(酒造・農業)の次男。
大正十年(十七歳)三月広島第一中学校(現・県立国泰寺高校)卒業。パイロットに憧れて、八月二十六日海軍兵学校入校。
大正十三年(二十歳)七月二十四日海軍兵学校(五二期)卒業(成績は二三六名中一七番)、少尉候補生。
大正十四年(二十一歳)十二月海軍少尉。
昭和二年(二十三歳)四月砲術学校普通科卒業。七月水雷学校普通科卒業、装甲巡洋艦「出雲」乗組。十二月中尉。
昭和三年(二十四歳)十二月霞ヶ浦航空隊入隊、飛行学生。
昭和四年(二十五歳)十二月第一九期飛行学生修了(首席で恩賜の銀時計拝受)、横須賀航空隊附。
昭和五年(二十六歳)二月空母「赤城」乗組。十二月大尉、横須賀航空隊附。
昭和六年(二十七歳)六月空母「赤城」乗組。十二月霞ヶ浦航空隊分隊長。
昭和七年(二十八歳)十二月横須賀海軍航空隊附。
昭和八年(二十九歳)十二月空母「龍驤」分隊長(兼横須賀海軍航空隊附教官)。
昭和九年(三十歳)十一月横須賀海軍航空隊分隊長。源田大尉率いる三機編隊による曲技飛行を奉納機式典上空など日本各地で行い、「源田サーカス」と呼ばれた。
昭和十年(三十一歳)「単座機による急降下爆撃の教育訓練に就いて」で昭和九年度恩賜研学資金受賞。十月三十一日海軍大学校(甲種学生)入学。
昭和十一年(三十二歳)十一月少佐、第二連合航空隊参謀。
昭和十二年(三十三歳)七月海軍大学校(三五期・次席)卒業、第二連合航空隊参謀。九月上海勤務。十二月南京勤務、横須賀海軍航空隊教官。
昭和十三年(三十四歳)一月横須賀海軍航空隊飛行隊長兼教官。四月兼海軍砲術学校教官兼海軍通信学校教官兼海軍航海学校教官。十二月英国在勤帝国大使館附武官補佐官兼海軍航空本部造兵監督官。
昭和十五年(三十六歳)九月命帰朝。十一月第一航空戦隊参謀(空母「加賀」乗組)、中佐。
昭和十六年(三十七歳)四月第一航空艦隊甲航空参謀。空母「赤城」乗組。十二月八日真珠湾攻撃。
昭和十七年(三十八歳)六月ミッドウェー海戦、乗組空母「赤城」など空母四隻撃沈される。七月空母「瑞鶴」飛行長。十月軍令部出仕、臨時第一一航空艦隊参謀。十二月軍令部第一部第一課部員兼海軍技術会議銀。大本営海軍参謀。
昭和十九年(四十歳)七月陸海軍航空技術委員会委員。八月兼陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀。十月大佐。
昭和二十年(四十一歳)一月第三四三海軍航空隊(松山)司令兼副長。六月兼第三五二海軍航空隊司令。八月十五日終戦。十月佐世保鎮守府附。十一月予備役。
昭和二十一年十二月(四十二歳)極東軍事裁判で第二連合航空隊参謀として爆撃に関する基本方針(支那事変)、及び第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の立案と実施について供述。川南工業入社。
昭和二十八年(四十九歳)六月東洋装備株式会社取締役社長。
昭和二十九年(五十歳)防衛庁入庁、航空幕僚監部装備部長。
昭和三十年(五十一歳)十二月航空自衛隊航空団司令。
昭和三十一年(五十二歳)七月臨時航空訓練部長、空将。ジェット戦闘機の操縦資格取得。
昭和三十二年(五十三歳)八月航空集団司令。
昭和三十三年(五十四歳)八月航空総隊司令。
昭和三十四年(五十五歳)七月十八日第三代航空幕僚長。八月FX機種選定の調査団団長として渡米。十二月第三十三国会に委員外の出席者として出席。
昭和三十七年(五十八歳)レジオン・オブ・メリット勲章(米国)受章。四月航空幕僚長辞任、退官(空将)。七月第六回参議院通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補、第五位で当選。以後四期二十四年(~昭和六十一年七月)参議院議員を務める。日本飛行連盟名誉会長就任。
昭和三十八年(五十九歳)十一月赤十字飛行隊初代隊長(~昭和六十一年三月)。
昭和四十三年(六十四歳)自民党政調会国防部会長。
昭和四十九年(七十歳)勲二等瑞宝章受章。
昭和五十六年(七十七歳)従三位、勲二等旭日重光章受章。
昭和五十九年(八十歳)裁判官弾劾裁判所裁判長。
昭和六十三年(八十四歳)七月永年在職議員表彰、引退。
平成元年八月十五日松山市の病院で脳血栓のため死去。享年八十四歳。