陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

554.源田実海軍大佐(14)大西大佐の鉄拳が顔面に飛び、柴田大尉の上体が横に揺れた

2016年11月04日 | 源田実海軍大佐
 そんな中で悠然と酒杯を傾けていた大西大佐は、ふと宴席の中ほどに座っている柴田大尉に目を止めた。その柴田大尉は、この夜の宴会を苦々しく次の様に思っていた。

 <何だ。どいつもこいつも威勢のいいことを言っているが、まるでなっておらん。そんなにいい意見があるなら、シラフの時に報告書なり、論文なりにまとめて出せばいい。酒の勢いを借りて自分を売り込もうなどもってのほかだ>。

 だから酒の味は苦く、普段の酒席ではけっこう陽気にはしゃぐ柴田大尉だが、この夜はどうもそんな気分になれず、ひとり黙然と機械的に杯を口に運んでいた。

 そんな柴田大尉の姿に気づいた大西大佐は、つと立ち上がると柴田大尉の前にやってきて、どっかとあぐらをかいた。そしてじっと見据えるようにして、次のように言った。

 「おい、みんながあんなにいろいろ意見を言って愉快にやっているのに、貴様はなぜ黙っているんだ。何も言うことはないのか」。

 柴田大尉は答えなかった。意見がない訳ではない。それどころか、意見は論文にして、これまで山ほど提出してある。だから今更この場で言うようなことはないし、また、そのことについて、弁解がましく言いたくもなかった。

 柴田大尉は押し黙ったまま大西大佐の顔を見ていたが、たちまち、その目に凶暴な色が宿るのを見て、ハッとした。<やられる!>と思ったとたん、大西大佐の鉄拳が顔面に飛び、柴田大尉の上体が横に揺れた。

 突然の出来事に、満座の視線がいっせいに大西大佐と柴田大尉に注がれた。柴田大尉は唇が少し切れて血がにじんだが、その痛さよりも多くの人前で殴打された屈辱と怒りで、身体が震えた。柴田大尉は次の様に思った。

 <理の通った叱責ならいくらでも受けよう。だが、今までに提出した論文には何の反応も示さずにおきながら、酒の席で意見を言えとは何事だ。大西とはそんな人間だったのか>。

 これまで柴田大尉は上官に殴られた事は無かった。海軍兵学校ですら、宮様と同期だったために殴られずにすんでいた。

 戦国の武将織田信長は、明智光秀の才を誰よりも認めていながら、気が合わず、しばしばひどい仕打ちをした。それが本能寺の変のきっかけとなった。この夜の柴田大尉の心境はまさにそれだった。

 大西大佐とて普段ならけっして殴ったりしなかったろう。たまたま酒がまわっての仕打ちで、それほど深い意があったわけではないだろう。

 柴田大尉にしても、大西大佐の偉いところは認めないわけではなかったが、悪いところばかりが目につき、どうしても尊敬する気になれなかった。

 それにしても、この夜の大西大佐の仕打ちは、柴田大尉には解せなかった。なるほど、大西大佐は源田実大尉らが主唱する「戦闘機無用論」を支持してはいるが、それに反論する柴田大尉を責めるほどの腹の小さい人物ではないはずだ。

 ではなぜだろうか。するとやっぱり……。<源田だ。きっとあいつが俺のことを、大西教頭に悪く吹き込んだに違いない>。そう思った柴田大尉は、ひどく悲しい気分になった。

 昭和十二年七月の盧溝橋事件を発端として、支那事変が勃発した。八月の第二次上海事変以後、次第に戦火は中国全土に飛散していった。

 昭和十二年七月源田実少佐は、海軍大学校(三五期)を恩賜(次席)で卒業し第二連合航空隊参謀に任ぜられた。

 「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、第二連合航空隊は、第一二、第一三航空隊から成っていたが、いずれも艦載機をもって編成した小型機の部隊だった。

 第一二航空隊は、佐伯海軍航空隊を基盤とし、九五式艦上戦闘機十二機、九四式艦上爆撃機十二機、九二式艦上攻撃機十二機で編成されていた。

 第一三航空隊は、大村航空隊を基盤とし、九六式艦上戦闘機十二機、九六式艦上爆撃機十八機で編成されていた。