日本海軍において、「戦闘機無用論」が唱えられたのは、昭和八年から十二年頃までである。
それに先立ち、昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の結果、山本五十六少将は、飛行機により攻撃力を補おうと考え、攻撃機の増強に努めた。
昭和十年当時、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長・源田実大尉は、同航空隊副長・大西瀧治郎大佐と意を通じ、「戦闘機無用論」を強く主張していた。
また、昭和十一年十一月横須賀航空隊教官に就任した三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岐阜・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・空母「加賀」飛行長・横須賀航空隊飛行長・霞ヶ浦航空隊副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・自決・少将)は「戦闘機無用論」に最も影響を与えた。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、横須賀航空隊教官・三和少佐は、高等科学生に対し、「戦闘機は、攻撃機が攻撃実施前に阻止できないことは実証されている。航空母艦には戦闘機の代わりに艦爆や艦攻を多く積んで攻撃力を増すべし」と力説した。
これに対して、「戦闘機無用論」を切り崩そうと機会を狙っていた、柴田武雄大尉は次のように反論して論争を挑んだ。
「三和教官、私にはなぜ戦闘機を無用とするのか、その根拠がさっぱりわかりませんな。そもそも艦攻や艦爆がその威力を充分に発揮するためには、まず無事に敵艦隊の上空に到達することが先決ではないですか」
「敵は必ず直衛戦闘機を上げて待ち構えているでしょう。これを突き破るには、こちらも優勢な戦闘機の援護をつけてやらなければならない。さらに、来襲する敵の艦攻や艦爆などから空母を守るためにも、多数の戦闘機が必要です」
「しかも残念なことに、我が海軍の空母の防御力はアメリカ空母に比べて弱いから、この欠点を補うためにも、直衛戦闘機の数を増やさなければならず、空母自体の防御力の強化と共に、これは急を要する課題だと考えますが、教官のお考えは?」。
戦術教官の三和少佐は“攻撃”主義者だけに、柴田大尉がしきりに我が弱点や防御を力説するのが気に障ったらしく、不機嫌をあらわにして、次の様に切り替えして来た。
「何だ、君の話を聞いていると、まるで帝国海軍の艦攻や艦爆は腰抜けで、航空母艦は弱虫だと言わんばかりじゃないか。だから攻撃隊や空母の援護の為に戦闘機を沢山配備せよだと……」
「冗談じゃないよ。そもそも我が海軍が今日あるのは、“肉を切らせて骨を切る”という肉薄必殺の伝統的な攻撃精神にあるのだ。こちらもやられるかも知れんが、もっと多くの損害を敵に与えればいいのだ。このためには戦闘機など減らして、艦攻や艦爆を一機でも多く増やすべきだ」。
これに対して柴田大尉は次のように再反論した。
「いや、問題なのは艦攻や艦爆を何機揃えるではなく、実際に攻撃を実施できるのが何機あるかということではないですか。対空砲火はいざ知らず、敵戦闘機の攻撃に対抗するには、こちらも戦闘機をぶつける以外にないのです」。
すると三和少佐は、いよいよ不機嫌になって、次の様に言い放った。
「何を言うか。君はそれでも日本人かね。艦攻や艦爆だって、そうむざむざと敵戦闘機に食われやせん。君は戦闘機の威力を過大評価し過ぎるようだな。それとも臆病風にふかれたのか。どっちにしても、こんな議論はもうかんべん願いたいな」。
なおも食い下がろうとする柴田大尉に侮蔑の眼差しを向けて、三和少佐は言葉を切った。
取り付く島もないその冷ややかな態度に、これ以上何を言っても無駄だと悟ったが、柴田大尉の腹はおさまらなかった。
「戦闘機無用論」について、柴田武雄は戦後、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、次の様に述べて強く反論している。
「航空母艦の防御力の弱小であること、およびその欠点を補うには防空用の戦闘機を多数必要とされること、ならびに現有する戦艦を活用することに気付かず、一途に戦艦を無用であると断定した傲慢・独善に自己陶酔し、飛行機でも艦船でも爆撃できる、攻防装備のすばらしい有用性を持っている戦闘機のことを、すっかり(善意に解釈すれば、うっかり)忘却していた」。
「昭和十二年から同十九年まで、源田が、『柴田の言うことは全部間違っている』と言いまわっていたが、私は、昭和十・十一・十二年にわたって、源田が主唱していた『戦闘機無用論』を大いに反駁したり、戦闘機の有用であることを大いに力説した」。
それに先立ち、昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の結果、山本五十六少将は、飛行機により攻撃力を補おうと考え、攻撃機の増強に努めた。
昭和十年当時、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長・源田実大尉は、同航空隊副長・大西瀧治郎大佐と意を通じ、「戦闘機無用論」を強く主張していた。
また、昭和十一年十一月横須賀航空隊教官に就任した三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岐阜・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・空母「加賀」飛行長・横須賀航空隊飛行長・霞ヶ浦航空隊副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・自決・少将)は「戦闘機無用論」に最も影響を与えた。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、横須賀航空隊教官・三和少佐は、高等科学生に対し、「戦闘機は、攻撃機が攻撃実施前に阻止できないことは実証されている。航空母艦には戦闘機の代わりに艦爆や艦攻を多く積んで攻撃力を増すべし」と力説した。
これに対して、「戦闘機無用論」を切り崩そうと機会を狙っていた、柴田武雄大尉は次のように反論して論争を挑んだ。
「三和教官、私にはなぜ戦闘機を無用とするのか、その根拠がさっぱりわかりませんな。そもそも艦攻や艦爆がその威力を充分に発揮するためには、まず無事に敵艦隊の上空に到達することが先決ではないですか」
「敵は必ず直衛戦闘機を上げて待ち構えているでしょう。これを突き破るには、こちらも優勢な戦闘機の援護をつけてやらなければならない。さらに、来襲する敵の艦攻や艦爆などから空母を守るためにも、多数の戦闘機が必要です」
「しかも残念なことに、我が海軍の空母の防御力はアメリカ空母に比べて弱いから、この欠点を補うためにも、直衛戦闘機の数を増やさなければならず、空母自体の防御力の強化と共に、これは急を要する課題だと考えますが、教官のお考えは?」。
戦術教官の三和少佐は“攻撃”主義者だけに、柴田大尉がしきりに我が弱点や防御を力説するのが気に障ったらしく、不機嫌をあらわにして、次の様に切り替えして来た。
「何だ、君の話を聞いていると、まるで帝国海軍の艦攻や艦爆は腰抜けで、航空母艦は弱虫だと言わんばかりじゃないか。だから攻撃隊や空母の援護の為に戦闘機を沢山配備せよだと……」
「冗談じゃないよ。そもそも我が海軍が今日あるのは、“肉を切らせて骨を切る”という肉薄必殺の伝統的な攻撃精神にあるのだ。こちらもやられるかも知れんが、もっと多くの損害を敵に与えればいいのだ。このためには戦闘機など減らして、艦攻や艦爆を一機でも多く増やすべきだ」。
これに対して柴田大尉は次のように再反論した。
「いや、問題なのは艦攻や艦爆を何機揃えるではなく、実際に攻撃を実施できるのが何機あるかということではないですか。対空砲火はいざ知らず、敵戦闘機の攻撃に対抗するには、こちらも戦闘機をぶつける以外にないのです」。
すると三和少佐は、いよいよ不機嫌になって、次の様に言い放った。
「何を言うか。君はそれでも日本人かね。艦攻や艦爆だって、そうむざむざと敵戦闘機に食われやせん。君は戦闘機の威力を過大評価し過ぎるようだな。それとも臆病風にふかれたのか。どっちにしても、こんな議論はもうかんべん願いたいな」。
なおも食い下がろうとする柴田大尉に侮蔑の眼差しを向けて、三和少佐は言葉を切った。
取り付く島もないその冷ややかな態度に、これ以上何を言っても無駄だと悟ったが、柴田大尉の腹はおさまらなかった。
「戦闘機無用論」について、柴田武雄は戦後、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、次の様に述べて強く反論している。
「航空母艦の防御力の弱小であること、およびその欠点を補うには防空用の戦闘機を多数必要とされること、ならびに現有する戦艦を活用することに気付かず、一途に戦艦を無用であると断定した傲慢・独善に自己陶酔し、飛行機でも艦船でも爆撃できる、攻防装備のすばらしい有用性を持っている戦闘機のことを、すっかり(善意に解釈すれば、うっかり)忘却していた」。
「昭和十二年から同十九年まで、源田が、『柴田の言うことは全部間違っている』と言いまわっていたが、私は、昭和十・十一・十二年にわたって、源田が主唱していた『戦闘機無用論』を大いに反駁したり、戦闘機の有用であることを大いに力説した」。