「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大正13年、大西大尉は海軍大学校甲種学生を受験した。前年不合格で二回目だった。海軍大学校は採用員数は二十名、修業年限は二ヵ年である。
このとき一緒に受験した同期の福留繁は次のように語っている。
「大西も私も兵学校第四十期の同クラスであるが、大尉の最終六年目に海大を受験することになった。筆答試験に合格して、9月4日、5日の両日にわたる口頭試問に召集された」
「二日目の口頭試問を待つ控え室にいると、突然学校の副官が現れて、大西君ちょっと、といって連れ出した。それっきり帰って来ないで次番の私が呼び出された」
「後で、受験候補者から削除され、その場から帰されたのだとわかった」
「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、海軍大学校受験の二、三日前、大西大尉は部下を連れて横須賀の料亭にあがったが、座敷に呼んだ芸者のうち、ぽん太というのが始終ふくれ面をしていた。
大西大尉はそれを見咎めて「芸者というものは座敷に出たら愛想良くするものだ。それが商売だぞ」と言った。
ところがぽん太はいよいよ不愉快な空気をつくる。たまりかねた大西大尉が「しっかりせい」とぽん太の頬を打った。
ぽん太は憤然として席を立ち、市内に住む兄に殴られたことを告げた。その兄は渡世人だった。新聞記者に妹が殴られたことを告げた。
「海軍軍人・料亭で芸妓に乱暴」といった調子の記事が紙面にでかでかと載った。その新聞の出た日が大西大尉の受験日だった。それにより試験官は「受験資格なし」と判断した。
しかし大西大尉は海大失格をさほど気にしていなかった。ケロッとしていたという。
「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大西瀧治郎と山本五十六がポーカーを始めると、正反対の性格が現われるという。
山本五十六は口の中でぶつぶつ言いながら「ああそういうことをされてはかなわんな」と泣き続け、負けが込んでくると「きょうはどうも勘が冴えていないんだ」と始終泣きを入れる。負ければ負けたで、金を払うとケロッとしてしまうそうだ。
大西瀧治郎の方はその反対で、始終むっと押し黙ったまま、壮烈な手を打ってくる。勝ちに乗ずると、手がつけられないくらい激しい勝負に出る。
そのかわり負けだすと、下唇を突き出し、うなり声を上げて攻勢に転ずるキッカケをつくろうとする。ついに負けて金を払う段になると「こんど、また、やりましょう」と凄い目でにらむという。
また大西が「おれは海軍をやめたら博徒になる」と言ったのは、東京市内の麻雀大会に優勝して大阪の全国大会に出場する資格を得たときだった。
しかし、現役の中佐(当時)がそういうことも出来ないので、偽名のまま出場していたのを幸い、優勝を棄権してしまった。大西は無法者の自由な生き方に憧れていたと言われている。
<大西瀧治郎海軍中将プロフィル>
明治24年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現在は丹波市)に父亀吉、母うたの第三子として生まれる。
明治45年7月海軍兵学校(40期)卒。144人中20番。
大正2年12月海軍少尉。
大正3年8月対ドイツ開戦により戦役に従軍。12月海軍砲術学校。
大正4年5月海軍水雷学校。11月海軍中尉。12月水上機母艦「若宮」乗組み。
大正5年4月横須賀航空隊勤務。飛行演習で「若宮」乗組み。
大正7年11月英仏出張。12月海軍大尉。
大正8年5月英空軍飛行隊入隊。
大正10年8月横須賀海軍航空隊付。9月海軍航空隊教官。
大正11年11月霞ヶ浦航空隊教官兼務。
大正13年12月海軍少佐。
大正15年2月佐世保海軍航空隊飛行隊長。
昭和2年12月連合艦隊参謀。
昭和3年11月「鳳翔」飛行長。
昭和4年11月、航空本部教育部員、海軍中佐。
昭和5年8月海軍技術会議員。
昭和6年12月海軍省教育局。
昭和7年2月第三艦隊参謀。11月「加賀」副長。
昭和8年10月佐世保海軍航空隊司令、11月海軍大佐。
昭和9年11月横須賀海軍航空隊副長兼教頭。
昭和11年4月海軍航空本部教育部長。
昭和14年10月第二連合航空隊司令官。11月海軍少将。
昭和15年11月第一連合航空隊司令官。
昭和16年1月第十一航空艦隊参謀長。
昭和17年3月海軍航空本部総務部長。
昭和18年5月海軍中将。11月軍需省航空兵器総局総務局長。
昭和19年10月第一航空艦隊司令長官。
昭和20年5月軍令部次長。8月16日死去(自刃)。
このとき一緒に受験した同期の福留繁は次のように語っている。
「大西も私も兵学校第四十期の同クラスであるが、大尉の最終六年目に海大を受験することになった。筆答試験に合格して、9月4日、5日の両日にわたる口頭試問に召集された」
「二日目の口頭試問を待つ控え室にいると、突然学校の副官が現れて、大西君ちょっと、といって連れ出した。それっきり帰って来ないで次番の私が呼び出された」
「後で、受験候補者から削除され、その場から帰されたのだとわかった」
「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、海軍大学校受験の二、三日前、大西大尉は部下を連れて横須賀の料亭にあがったが、座敷に呼んだ芸者のうち、ぽん太というのが始終ふくれ面をしていた。
大西大尉はそれを見咎めて「芸者というものは座敷に出たら愛想良くするものだ。それが商売だぞ」と言った。
ところがぽん太はいよいよ不愉快な空気をつくる。たまりかねた大西大尉が「しっかりせい」とぽん太の頬を打った。
ぽん太は憤然として席を立ち、市内に住む兄に殴られたことを告げた。その兄は渡世人だった。新聞記者に妹が殴られたことを告げた。
「海軍軍人・料亭で芸妓に乱暴」といった調子の記事が紙面にでかでかと載った。その新聞の出た日が大西大尉の受験日だった。それにより試験官は「受験資格なし」と判断した。
しかし大西大尉は海大失格をさほど気にしていなかった。ケロッとしていたという。
「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大西瀧治郎と山本五十六がポーカーを始めると、正反対の性格が現われるという。
山本五十六は口の中でぶつぶつ言いながら「ああそういうことをされてはかなわんな」と泣き続け、負けが込んでくると「きょうはどうも勘が冴えていないんだ」と始終泣きを入れる。負ければ負けたで、金を払うとケロッとしてしまうそうだ。
大西瀧治郎の方はその反対で、始終むっと押し黙ったまま、壮烈な手を打ってくる。勝ちに乗ずると、手がつけられないくらい激しい勝負に出る。
そのかわり負けだすと、下唇を突き出し、うなり声を上げて攻勢に転ずるキッカケをつくろうとする。ついに負けて金を払う段になると「こんど、また、やりましょう」と凄い目でにらむという。
また大西が「おれは海軍をやめたら博徒になる」と言ったのは、東京市内の麻雀大会に優勝して大阪の全国大会に出場する資格を得たときだった。
しかし、現役の中佐(当時)がそういうことも出来ないので、偽名のまま出場していたのを幸い、優勝を棄権してしまった。大西は無法者の自由な生き方に憧れていたと言われている。
<大西瀧治郎海軍中将プロフィル>
明治24年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現在は丹波市)に父亀吉、母うたの第三子として生まれる。
明治45年7月海軍兵学校(40期)卒。144人中20番。
大正2年12月海軍少尉。
大正3年8月対ドイツ開戦により戦役に従軍。12月海軍砲術学校。
大正4年5月海軍水雷学校。11月海軍中尉。12月水上機母艦「若宮」乗組み。
大正5年4月横須賀航空隊勤務。飛行演習で「若宮」乗組み。
大正7年11月英仏出張。12月海軍大尉。
大正8年5月英空軍飛行隊入隊。
大正10年8月横須賀海軍航空隊付。9月海軍航空隊教官。
大正11年11月霞ヶ浦航空隊教官兼務。
大正13年12月海軍少佐。
大正15年2月佐世保海軍航空隊飛行隊長。
昭和2年12月連合艦隊参謀。
昭和3年11月「鳳翔」飛行長。
昭和4年11月、航空本部教育部員、海軍中佐。
昭和5年8月海軍技術会議員。
昭和6年12月海軍省教育局。
昭和7年2月第三艦隊参謀。11月「加賀」副長。
昭和8年10月佐世保海軍航空隊司令、11月海軍大佐。
昭和9年11月横須賀海軍航空隊副長兼教頭。
昭和11年4月海軍航空本部教育部長。
昭和14年10月第二連合航空隊司令官。11月海軍少将。
昭和15年11月第一連合航空隊司令官。
昭和16年1月第十一航空艦隊参謀長。
昭和17年3月海軍航空本部総務部長。
昭和18年5月海軍中将。11月軍需省航空兵器総局総務局長。
昭和19年10月第一航空艦隊司令長官。
昭和20年5月軍令部次長。8月16日死去(自刃)。