陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

668.梅津美治郎陸軍大将(8)梅津少将は、勝手な行動を取る現地の幕僚に対して深い憤りを感じていた

2019年01月11日 | 梅津美治郎陸軍大将
 また、梅津少将は総務部長更迭には内心不満であった。総務部長として、満州事変(昭和六年九月)に遭遇して、最も心を砕いて、中央部の決定した不拡大方針が、現地の暴走によって常に覆され、その後始末に翻弄されたことだった。

 ところが現地のやり方が、たまたま幸運にも良い結果をもたらし、中央はその事実を追認する形となった。

 ことに、君国百年のためとの信念に発したとはいえ、満州事変勃発時、現地の次の二人の幕僚が、中央の統制に従わなかったことは、事実だった。

 関東軍高級参謀・板垣征四郎(いたがき・せいしろう)大佐(岩手・陸士一六・陸大二八・中支那派遣隊参謀・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官・第七方面軍司令官・終戦・昭和二十三年A級戦犯で刑死・享年六十三歳・正三位・勲一等旭日大綬章・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章)。

 関東軍作戦主任参謀・石原莞爾(いしわら・かんじ)中佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦主任参謀・関東軍作戦課長・歩兵大佐・ジュネーヴ会議随員・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・予備役・立命館大学講師・戦後山形県高瀬村に転居・公職追放・昭和二十四年病死・享年六十歳・正四位・勲一等瑞宝章・功三級)。

 満州事変が政治・戦略的に大きな成果を得たとはいえ、中央部の幕僚や、外地の軍幕僚の多数に不良な作用をし、以後、下克上の風潮が広まった。梅津少将は、この点を深く憂いたのである。

 さらに、現地の関東軍のこれらの幕僚が栄転して、中央の要職を占めた。その入れ代わりに、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた中央の幕僚(梅津少将もその一人)は、殆ど、中央から追い出したような人事が行われた。

 梅津少将は、国軍の将来について、このような風潮を一掃しなければならないと思いながら、総務部長の椅子を去ったのである。

 昭和九年三月、梅津美治郎少将は、支那駐屯軍司令官に補せられ、天津に赴任した。その年の八月一日、陸軍中将に進級した。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)によると、梅津少将が支那駐屯軍司令官として天津に赴任した当時は、満州事変、満州国の誕生に伴う余震が、華北を揺り動かしていた時期だった、

 当時、大尉だった、鈴木康生元陸軍大佐(大尉・支那駐屯軍司令官秘書官・大佐・第八八師団参謀長)は、支那駐屯軍司令部に赴任した。

 鈴木康生元陸軍大佐は、「樺太防衛の思い出・最終の総合報告(第八十八師団参謀長)」(鈴木康生・私家版・454頁・昭和62年)を出版している。
 
 その鈴木康生元大佐は、次の様に回想している(要旨抜粋)。

 私は、梅津将軍には二度お仕えしました。第一回は支那駐屯軍で、昭和九年春から約一年三か月。第二回目は関東軍で、昭和十四年二月から昭和十六年三月までで、後の一年は秘書官を勤め、格別のご指導、ご薫陶を頂き、忘れ得ぬ思い出が多い。

 昭和九年春、支那駐屯軍の軍司令部に着任したら、主任参謀不在のため、早速駐屯軍部隊の「派遣交代に関する命令」の起案を命ぜられた。

 まだ実務になれない大尉(鈴木康生大尉)は、昨年の命令、派遣交代要領、同細則、本園の交代要領の研究から始めたが、要領は昨年のと幾分変わっており、細則は後れて交代部隊に携行させるとの話なのでいろいろ分からぬ点が出てきた。

 関係者にも伺ってみたが、結論が出ない。仕方なく何とか作り上げ、関係課や上司の判を貰い、司令官室に入り、案をご覧に入れ、目を通されるのをビクビクしながら見つめた。

 確信の無い条項の所へ来たら「これはどういうつもりかね」やはりと思ったら胸がドキドキして、即座には答えが口から出ない。

 ようやく意見を述べたら「もう一度考えたまえ」「ハイ」。また自信のない所で「この意味は?」「再考致します」。室の外に出たら汗ビッショリ。