陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

548.源田実海軍大佐(8)とんでもない答えが返って来た。「いや、別に何とも思わなかったよ」

2016年09月23日 | 源田実海軍大佐
 さて、「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、源田実大尉が横須賀海軍航空隊分隊長に就任した頃、横須賀航空隊教頭兼副長として着任したのが、大西瀧治郎大佐だった。

 源田実は、戦後、「日本海軍の航空隊の生い立ちを語るにあたって、欠かすことのできない人物は、大西瀧治郎中将だった」と述べている。
 
 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)によると、源田実の大西瀧治郎中将に対する初印象は、「ずいぶん、ゆっくり歩く人だ」ということであった。

 以後、終戦までの十年間、源田実は、いろんな面で接触し、指導を受けたが、ついぞ、この人が走ったのを見たことがなかった。

 どんな緊急を要する場合でも、急ぎ足で歩く事さえ無く、早口でしゃべったり、あわてふためいた姿を見る事は無かった。

 第一次世界大戦中の大正六年、インド洋方面で、日本の常陸丸が行方不明になった。ドイツの巡洋艦に攻撃され撃沈されたのだ。

 撃沈の情報がまだ入っていない時、当時、特務艦隊司令部附の大西瀧治郎中尉に、常陸丸捜索命令が出された。

 郵船の筑前丸に水上機を積み込み、大西中尉は捜索に向かった。だが、大西中尉の搭乗機は、捜索中に、エンジントラブルで、無人のサンゴ礁付近に不時着水した。

 広い海原には他の船影も無く、不時着水した飛行機の周囲には、どう猛なフカの群れが動き回っていた。大西中尉は後に救助された。

 この時のことについて、源田実大尉が、大西大佐に「こわかったでしょうね?」と聞くと、とんでもない答えが返って来た。「いや、別に何とも思わなかったよ」。

 前々から大西大佐という人は、とても太っ腹で豪胆な人だとは聞いていたが、源田大尉は、さすがにあっけにとられてしまった。

 また、ずっと後の昭和十三年一月、源田少佐は南京から内地に帰り、横須賀航空隊の飛行隊長を命ぜられ、横須賀の料亭「魚勝」で、当時、航空本部教育部長だった大西大佐と飲んだ。

 その時に、日中戦争初期(昭和十二年八月)の話が出た。大西大佐は前線視察で、済州島の木更津航空隊を訪問した。

 ある夜、入佐俊家(いりさ・としいえ)大尉(鹿児島・海兵五二・第一五海軍航空隊飛行隊長・霞ヶ浦海軍航空隊飛行隊長兼教官・鹿屋海軍航空隊飛行隊長・ジャワ沖海戦・中佐・第七五一海軍航空隊飛行長・海軍兵学校教官兼監事兼岩国海軍航空隊教官・兼岩国海軍航空隊飛行長・第六〇一海軍航空隊司令兼副長・兼空母「大鳳」飛行長・空母「大鳳」が米潜水艦の雷撃で撃沈・戦死・少将特別進級)を指揮官とする爆撃隊が南京空襲を行なうことになった。

 大西大佐は、入佐俊家大尉が指揮する南京空襲部隊において、二番機の飛行機(九六式陸上攻撃機・乗員五~七名)に同乗した。入佐大尉は、名パイロットであり、名指揮官でもあった。

 南京爆撃後、帰途に、爆撃隊は中国軍のカーチスホーク戦闘機に追跡され攻撃を受けた。中攻の排気管から出る炎を目印に、一三ミリ機銃で狙い撃ちして来たのだ。

 日本海軍の爆撃隊は一機また一機と撃墜され、最後には入佐大尉の指揮官機と大西大佐の搭乗している二番機だけになってしまった。

 この話を聞いた源田大尉が「その時はさぞ気持ちが悪かったでしょうね。私は黄浦江を駆逐艦で航行している時、陸岸から小銃で撃たれたのが、敵弾の下をくぐった最初でしたが、どうも横腹のあたりがむずむずして困りました」と言うと、大西大佐は次のように言った。

 「源田、貴様は偉い。恐ろしいということを感じる余裕がある。俺などは、そんな余裕はなかった。ただ、今度は俺の番かなと思っただけで、恐ろしくも何ともなかった」。

 これが大西大佐の答えであった。「この人の出来は、ちょっと我々では計り知れないものがある」と源田大尉は思った。以後も源田実は大西中将が何かに恐れた表情をしたのを見た事は無かった。

 昭和十年二月から三月にかけて、横須賀航空隊では、隣の航空技術廠と協力して、いわゆる次期戦闘機の機種選定実験が行われていた。