陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

547.源田実海軍大佐(7)源田の作戦指導面の拙劣さは「見せ物的飛行」によってカモフラージュされている

2016年09月16日 | 源田実海軍大佐
 そこで、源田大尉たちが考えたのは、単座急降下爆撃機だった。単座ならば、乗員一人分の体重、装備品、座席回り等に費やす重量を、燃料に換えることができる。それだけ航続力が長くなる。

 この着想は、前年、源田大尉が横須賀航空隊戦闘機分隊にいて、戦闘機による急降下爆撃に研究をしていたが、間瀬平一郎兵曹長が源田大尉に語ってくれた着想だった。

 空母「赤城」での研究会の席上、源田大尉は次のように主張した。

 「制空権の帰趨が、戦闘の勝敗を決定することが明らかなのであるから、是が非でも制空権を獲得しなければならない」

 「我が海軍では戦闘機隊は主として艦隊の上空警戒に使われているが、もっと攻撃的な用法をなすべきだと考えます」

 「そのためには、戦闘機隊、攻撃隊の各半数を単座急降下爆撃機とし、敵空母の先制攻撃に当てるべきであります」

 「単座ならば、座席の少ないだけ燃料が余計に搭載できるから、それだけ攻撃距離が延伸できます。もちろん、この飛行機は敵空母の先制攻撃が主任務なのでありますが、爆弾を投下した後は、若干性能は劣るかもしれないが、単座なるがゆえに、戦闘機として流用し得るのであります」

 「また単座である関係上、航法上の不安がありますが、それには二座の嚮導機(先導機)をつければよいし、たとえ嚮導機がなくても、捜索列を展張すればある程度の航法は可能であります」。

 以上の源田大尉の主張に対して、誰も賛成する者がいなかった。攻撃隊の搭乗員たちは「攻撃のことは、俺たちに任せておけ」という気持ちだったし、戦闘機隊の者たちは、自分たちの職分をはずれたことだと思っていたのだ。

 だが、山本司令官の考えは違っていた。この源田大尉の主張に対して、次の様に述べた。

 「源田大尉の意見について、自分はこう考える。だいたい、飛行機を防御に使うという考え方が誤っている。したがって、単座急降下爆撃機という思想は当然とも考えられる」

 「がしかし、統帥の上から考えるならば、海軍の中央当局は、やはり二座を採用するであろう。旅順口の閉塞計画に、東郷長官が最後の承認を与えられたのは、やはり閉塞隊員の収容方法に、ある程度の目途がついた時であった」。

 山本少将の腹の中には、飛行機の用法について、他の人々が考え及ばない積極性があったのだが、これは後に、真珠湾攻撃の企図を知らされるまで、源田大尉らは分らなかった。

 昭和九年十一月、源田実大尉は横須賀海軍航空隊分隊長に任命された。三十歳であった。源田大尉は分隊長として、編隊特殊飛行の三代目リーダーになった。

 当時、報告号(九〇式艦上戦闘機)と呼ばれる献納機が多く、日本各地で行われた献納式で、源田大尉は編隊でアクロバット飛行を行った。

 源田サーカスと呼ばれ、有名になったが、このアクロバット飛行に使用したのも、この九〇式艦上戦闘機(複葉機・単座)であった。

 この源田サーカスについて、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、柴田武雄は、次の様に述べている。

 また、源田のスタンドプレーは有名であるが、その代表的なものは、源田サーカスと言われた『見せ物的飛行』である。

 ところで、その操縦は微妙な操作を必要とするので、むずかしい一面のあることは確かであるが、その操作の大部分は実戦の空中戦闘には使用しない。いや、外見は似ていても、内容はまるで違うとも言える。

 そして、空中戦闘における操縦技倆の優秀性は下士官兵を含めて一般の戦闘機パイロットに要求されるものであるが、源田のように航空の重要配置にある者は何よりも必要なことは作戦計画用兵指導等の優秀性である。

 ところが、今日に至るもなお、源田の作戦指導面の拙劣さは「見せ物的飛行」によってカモフラージュされている。これによっても源田の魔力(欺瞞性)がいかにもすごいものであるか、ということがわかる。

 以上のように、柴田武雄は、源田実の源田サーカスについて、批判的というより、これは、源田実の作戦指導面の愚劣・拙劣さをカモフラージュするものであると述べている。