goo blog サービス終了のお知らせ 

陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

468.東郷平八郎元帥海軍大将(8)女将が「もう帰りなさい」といっても、東郷中佐はきかなかった

2015年03月13日 | 東郷平八郎元帥
 それに、他の士官連中が、東郷中尉に反省を求めるよう忠告するのは山本少尉しかいないと、「イギリス帰りの鼻をあかせ」とたき付けにかかった。

 後日、山本少尉は思案の末、東郷中尉のところへ行って、「英語で命令するのは、やめたがいいと思いますがね」と率直に意見を述べた。

 ところが、東郷中尉は「英語で言うても、命令は命令」と突っぱねた。山本少尉は、そう来るだろうと計算していたので、次のように言った。
 
 「リッキングの昇降比べをやってみませんかぁ?」。東郷中尉が「昇降比べ?」と聞き返すと、山本少尉が「さよう、早くう甲板に降りたほうが勝ちで、その意見に従うというのは、いかがなもんです?」。

 すると東郷中尉は、立ち上がり、「やってみもそ」と言って、早速、練習用の服の着換えに取り掛かった。山本少尉も服を練習用に着替えた。

 多数の士官が甲板に出て、勝負の行方を見守った。リッキングは、煙突の後方にあるメインマストの見張り員がいる所まで張り静索につけた「縄ばしご」のことで、両舷にはしごの末端がある。

 東郷中尉と山本少尉は左右両舷に分れた。判定係をかってでた士官が、一、二、三と合図して、両舷から二人は同時に昇りにかかった。

 山本少尉は素早い勢いでリッキングを昇り、見張り所にたどり着くと、すぐに引き返し始めた。東郷中尉は、まだ、三分の二程度しか昇っていなかった。

 山本少尉が、ぱっと身を翻るようにして甲板に降りた時、東郷中尉は、まだ、下りの半分にも達していなかった。「山本少尉の勝ち!」。士官達が一斉に山本少尉に拍手を送った。はしごの一段一段を踏みしめ、のっそりと東郷中尉が降りて来た。

 士官達が「東郷中尉の負け!」と判定を言った時、東郷中尉は「いや、負けてはおらん。ズボンが破れただけじゃ」と言った。リッキングを昇る途中で、ズボンが破れていて、東郷中尉は、腿のあたりの破れ目に手をやってみせた。

 東郷中尉の強情に、みんなは笑い出した。だが、それ以後、山本少尉の忠告通りに、東郷中尉は、英語の命令は出さなくなった。英語と日本語の対訳の命令虎の巻を用意して、分らなくなると、虎の巻を出して命令した。

 明治十六年三月、三十五歳の東郷平八郎少佐は、初めて艦長になった。だが、それは、一二五トンの木造船である、砲艦「第二丁卯」の艦長だった。

 その後明治十七年には、砲艦「天城」の艦長になり、明治十八年に中佐に昇進した。明治十九年には新造艦、コルベット「大和」艦長、七月に大佐に昇進し、十一月にコルベット「浅間」艦長に任命された。

 「東郷平八郎・元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、東郷平八郎は横須賀の佐官時代は、よく酒を飲み、海軍料亭で有名な「小松」へよく通った。

 丁度、横須賀鎮守府が開設され、「小松」も開店(明治十八年八月八日)した頃だった。士官仲間が「パイン」と呼んでいた「小松」へ東郷もよく顔を出した。

 女将の山本コマツ(本名・山本悦)の記述によると、東郷中佐は、軍医・鳥原重義と一緒にやって来ることが多かったという。

 その頃の料金は、料理一善(刺身・酢の物・焼き物・お椀・口取)が五十銭、特上酒(二合銚子一本)が五銭、芸者線香代(一時間)が十二銭五厘、芸者祝儀が五十銭だった。

 佐官だった東郷中佐の給料は、二百円近かったから通うことが出来た。二日でも三日でも居続けた。女将が「もう帰りなさい」といっても、東郷中佐はきかなかったという。

 東郷中佐は無口でむっつりしていたので、相手になる女中は少なかった。ただ一人、お浦という女中が相手を買って出て、東郷中佐に惚れてしまった。

 東郷中佐が転勤になると、お浦は「弟が病気だ」と言って、暇をとり、掛け先を回って、旅費の工面をし、東郷中佐のあとを神戸まで追いかけた。それが、謹厳実直といわれる東郷平八郎にまつわるただ一つの艶聞だった。

 明治二十七年六月、東郷平八郎大佐は、呉鎮守府海兵団長から、防護巡洋艦「浪速」(三七〇〇トン)艦長に任命された。